日光の天然氷

2017年08月20日
霞が関で法務省見学を終え、りんりんと「恵比寿ガーデンピクニック」開催中
(~9/3)の恵比寿ガーデンプレイスに立ち寄った。センター広場に設置された
ヒュッテで販売される日光天然氷の四代目徳次郎のかき氷が目的。

   かき氷

平日の2時過ぎだったこともあるのか、並ぶことなく天然氷のかき氷を味わう
ことができた。思ったよりシロップの種類が多く、どれにするか迷った挙句に
選んだのはブルーベリー。りんりんも迷っていたが、メロンを選んだ。
どのシロップも国内産の果物を使用、香料、着色料、保存料など一切不使用。
値段は¥881とちょっと高めだが、ふつうのかき氷とはまったく違う。

 いろいろ

実は、夏でもアイスティーなど氷入りの飲み物はめったに飲まないし、かき氷も
大人になってからは食べていないし、食べたいと思ったこともなかった。
それが、ラジオ(久米宏ラジオなんですけど)で、日光市で天然氷をつくっている
「四代目徳次郎」の山本さんの話をきいて、天然氷をつくっているところは全国で
わずか5軒、そのうち3軒が日光だったということだった。

地元で育った山本さんは、氷は天然氷が当たり前だと思っていたという。そして、
高齢を理由にその冬を最後にやめることを決めていた3代目の後を継ぐことを決心、
一冬の修業を経て四代目徳次郎となったとか。

毎年11月上旬から翌年2月までが天然氷づくりの作業となるそうだ。冬の昼間、
日光が当たらない山の斜面にヨコ13m、タテ30m、深さ0.5mの氷池が2面、
ここに沢の水を引き込んである。硬くて溶けにくい氷をつくるためには、水、土、
気温、風といった自然の条件と、その変化を見極める人間の知恵が不可欠だとか。
よい氷ができるまで、ひと冬に5回もやり直したこともあったそうだ。

       採氷池
                     採氷池

池の氷は厚さが15cmになると電動カッターでヨコ45cm、タテ75cmの板に切り
分け、氷室(ひむろ)に運び入れ、大量のおがくずを上からかけて保管する。
おがくずが氷から溶けだした水分を吸収し、氷の表面は常に乾燥した状態になる。
2面の池からひと冬2回、合計160㌧の氷を採取するそうだ。

   かき氷
        茨城県産メロン        栃木県産ブルーベリー

実際に、出来上がったかき氷を受取ったとき、あまりの軽さに驚いた。
人工の氷とは違って、キーンとした冷たさはない。まるで綿菓子のような食感で、
口の中でふわっと拡がってなくなる。日光の氷室の中でじっと夏を待っていた氷を
思いながら味わった。その氷を東京で味わえる幸せも。
旅・散策

母の俳句 父の短歌

2017年08月19日
今日は「俳句の日」。語呂合わせで「8.19(ハイク)」。
松尾芭蕉や小林一茶のころは「俳諧」、まだ「俳句」という言葉はなかった。
「俳句」という言葉は正岡子規が作った造語で、「俳諧の発句」を縮めたもの。

母の俳句歴は長い。昭和21年、母は中村草田男先生に師事するという
幸運を得たという。また、この年は『萬緑』創刊という記念すべき年でもある。

        青すだれかけて平和の戻りけり   (第一句集より)

母は、終戦の2年後、師範学校、大学で教鞭をとっていた父と結婚した。
  
        客果てつ夫(つま)と霜夜を書き更くる  
        
        柿の秋夫(つま)の書斎の窓も光り    

母のアルバムには、喜寿を迎えられた草田男師が母たち同人に囲まれた
写真がある。その喜寿の祝いの2年後、師は逝去された。     

        夏旅に師のまさぬこと母亡きこと

     萬緑

書斎かわりのダイニングのテーブルに広げられた『萬緑』や投句用原稿用紙、
俳人仲間の句集などのお礼と感想の手紙をしたためる母の姿を想い出す。
自身の上梓は、30余年間の句を集めた第一句集とその12年後の句集のみ。
句を書き留めた「俳句手帳」は数十冊残っている。
       
        句集成りしも私歴に過ぎず初鏡  (第一句集上梓)

        句集成る白百合ことに薫る日に  (第二句集上梓)

    句集
           

父は定年後、記憶を辿りながら、戦場体験を短歌風に詠んだ日記を出版した。

定年     ゆくりなく 教壇に立ち 四十年 われには長き この道なりき
        これ使命なりしか、惰性なりしか。 昭和63年3月15日

招集解除  博多港の 桟橋踏みて 旅終わる われ今まさに 復員したり
        長かりし兵役、今は階級章なし。深呼吸し、背筋を伸ばす。街は焼け野原だった。

生家     ぼろぼろの 軍装なれど このわれを 狂わんばかりに 迎えたる母
        物乞い同然の姿、さすが母だと思った。  

あれから四十数年経った。そして今、日本は平和で繁栄を極めている。私も
その中で余生を送っているが、最近いたく気になるのは、慌ただしい時の動き
である。私は、この時の動きがかつてのような、暗い、大きなうねりにはならない
ことを願っている。 とがもなく 異国に眠る 兵士らの 平安祈りて 筆をおさむる


「あとがき」に父の思い・・・。父が生きていたら、今の時の動きをどう思うだろうか。
身近な人びと

検察官のしごと

2017年08月18日
「夏休みこども霞が関見学デー」でりんりんと訪れた法務省、「模擬取り調べ」
実演の時間になった。               (こども霞が関見学デー
案内された部屋には、検事と検察事務官、被疑者役の検察事務官がすでに
スタンバイしていた。検察事務官の机にはパソコン、横には調書をつくるための
プリンターが置かれていた。壁には法務省の赤煉瓦棟でも撮影されたという
『HERO』のポスターが貼ってあった。

         法務省
                  法務省 赤煉瓦棟

車内で眠ってしまった女性のハンドバッグを盗んだ疑いで検察庁に送られてきた
被疑者を取り調べるという設定で実演が始まった。
何度も白を切る被疑者も検事によって見破れ、ついには白状するというもの。

     取り調べ
            模擬取り調べの様子   (法務省サイトより)

質疑応答の時間になると、次々に手が上がる。「なぜ検事になりたいと思ったの
ですか?」「警察にできて検察でできないことは?」「検察官と検察事務官の
違いは?」などなど。(検察官は司法試験、事務官は国家公務員試験)

さらに、検事役をやりたい人?にも何人か手があがり、2人の女子が検事と
検察事務官役に決まった。被疑者役は男子。検事さんは最初は原稿通りの
質問、途中、本物の検事に耳打ちされて「夏休みの宿題は終りましたか?」や
「好きな科目は何ですか?」などを質問する。被疑者役の彼は、やはり本物の
事務官に耳打ちされて「黙秘します」で押し通す。会場は大爆笑。

2回目も2人の女子。被疑者のナリテはいない。本物の事務官が再び登場。
子どもたちの取り調べはこの回で終了。前の席の男子は、何度も手を挙げて
いたが、当ててもらえずに悔しがっていた。被疑者役ならできたのだが。

メイン会場に戻って解散。「法務史資料展示室メッセージギャラリー」へいくと、
中学生の団体がちょうど見学を終えて出てくるところだった。
ホフマン式輪焼窯で作られた煉瓦が 創建当時のまま展示されていた。当時の
煉瓦棟は、碇聯鉄構法による補強をはじめ木梁や外壁飾石を煉瓦と定着する
金具を使用することなどにより、関東大震災にも耐えることができたという。

            栞 *Click!
         「法務史料展示室メッセージギャラリー」の栞など *Click!

配られた資料に、「法の日フェスタ」の案内があった。10月7日は法の日で、
「法廷見学会」「法の日フェスタin赤れんが」(「模擬取り調べ」「測量体験」など)
といったイベントが行われるようだ。大人も子どももということらしい。

いつからだろうか、歩いていても、あの屋根の形がいい、この壁の素材がいい、
と建築物に関心を示すのは、「マイクラ」(マインクラフト)の参考にするため。
彼のこの日の感想は、「今日の収穫は取り調べと赤煉瓦棟を見たことだけ」と。
クイズに答えて記念品をもらったことも、エコバッグつくりもオマケのようだ。

「マインクラフト」は、全世界のプラットフォーム累計1億本の販売数を達成している
大人気サンドボックスゲーム。PC版、スマホ用アプリ、家庭用ゲーム版がある。
ブロックを地面や空中に配置し、自由な形の建造物等を作っていくゲームで
シングルプレイとマルチプレイができる。          (終った黄金周
旅・散策

「こども霞が関見学デー」

2017年08月17日
内閣改造の日、「夏休みこども霞が関見学デー」にりんりんと法務省を訪れた。
「こども霞が関見学デー」は今年は8月2日、3日両日。夏休みの子どもたちに
広く社会を知る体験活動の機会を提供し、府省庁などの施策について理解を
深めてもらうことを目的とした取組み。対象は小中学生と幼児たち。

昨年は農水省などを見学したりんりんだが、今年は法務省の「検察官による模擬
取調べ実演」に(事前申込み)に参加。本物の検察官による取調べ。
対象は小学生中学年~高校生(各回20名程度)。

法務省の赤煉瓦の建物が目に入った途端、りんりんは歓声を上げた。
それもそのはず、ドイツ人建築家ベックマンとエンデ両氏の設計で、7年余りの
歳月を費やして司法省庁舎として1985年に竣工したドイツ・ネオバロック様式。

    法務省旧本館
          法務省 赤煉瓦棟歴史的建造物(重要文化財)

その後、戦災で屋根、床などを焼失。1994年の改修工事では文化財としての
観点から創建時の外観に戻され、法務総合研究所及び図書館として利用される
ようになり、国の重要文化財に指定された。

       赤煉瓦棟

門の中に入れてもらって、受付開始の10時まで赤煉瓦の旧本館の前で待つ。
中庭の奥では「登記官と土地家屋調査士のお仕事を体験しよう」、室内では、
「ルーペを使って偽造パスポートを見破ろう」「コンピューター性格検査の体験」
(少年鑑別所で実施する検査)「心のバリアフリー体験・車いすに乗ってみよう」
「横須賀刑務支所の石けん作りを体験してみよう!」などなどが行われていた。

        測量
             「あそこまでの距離をはかってみよう」

     室内

「性格テスト」では、「保護者の方もどうぞ」とやる羽目に。結果は・・・・!?
りんりんの姿がないと思ったら、更生ペンギン(ホゴちゃんとサラちゃん)の
スタンプを押してオリジナルエコバッグ作りをやっていた。

     偽造パスポート
               偽造パスポートを見破るには・・・

      法テラス
                「法テラス」って・・・?

まもなく、「検察官による模擬取調べ実演」に参加者が集合して、長い廊下を
クネクネと案内されて奥の部屋へ。窓はない。中学生はりんりんのほか1人、
あとは小学校の高学年。                (検察官のしごと
身近な人びと

母の「戦いの中の青春」

2017年08月16日
『昭和万葉句集』に、栞が挟まれた頁に母の句があった。(昭和万葉句集

   女子大動員学徒陸軍造兵廠に   崩れゆくもろもろ涙と汗のなか
      
母は終戦3日前まで板橋の造兵廠に動員されていた。(戦いの中の青春』Ⅲ
旧加賀藩下屋敷跡地に作られた第二陸軍造兵廠、通称「二造」は火薬製造所。
火薬のほかにも機関銃や大砲、風船爆弾などの製造も行われていたという。 

『戦いの中の青春』には、学徒動員などの戦争体験がつづられている。
「これは昭和二十年八月十五日の敗戦忌から三十年後の昭和五十年に
私共同期の数十名が主として学徒動員に明け暮れた戦争体験を風化させて
しまわない為に書き綴ったものです。当初はもっと小さな本でしたが、のちに
このシリーズに入りました」
と、見返しに母のメモが貼られている。

       戦いの中の青春
           母のメモ        『戦いの中の青春』(1992)

私達は毎日、一時間も二時間もかけて通勤し、飢えと闘い、空襲の危険に
さらされ、懐疑的になることも許されず、矛盾や不平を訴えるすべもなく、ただ
真面目に働いていました。月二回程度の「学校日」がどんなに嬉しかったことか。
魚が水を得たようだと言う人もあり、「勉強がこんなにすばらしいものとは」と
感激する人もあり、とにかく皆生きかえる思いのする日でした。
それも次第につぶれるようになり、班長からは日曜も出勤するように命じられる
ことが多くなりました。
                    (『戦いの中の青春』Ⅰ
  
        二造
          母が動員された「二造」の煉瓦の一部が残る  
     モニュメント
           コミュニケーションステージ   みどりばし緑地内  板橋区

「造兵廠」とは、兵器を造る廠、軍直轄の工場のこと。日露戦争中、明治政府は
兵器工場を開設した。その後、相次いで工場は増設され、最盛期には赤煉瓦の
建物が約20棟並んでいた。戦後は米軍に接収され、ベトナム戦争時には負傷
した米兵のための病院としても使われたという。

北区の「陸軍造兵廠」の跡を訪ねたことがある。   (戦いの中の青春』Ⅱ
石神井川沿いの緑道を歩いたが、付近一帯に日露戦争から太平洋戦争に
かけて12万坪もの軍事施設が存在したことなど信じられなかった。

「陸軍第一造兵廠」本部だった建物は、戦後、一部は米軍施設として使用された。
区をあげての返還運動が実り、文化センターとして生まれ変わった(1971)。
「造兵廠」の面影を残す275号棟は、銃の弾薬を造る兵器工場だったという。
当時の外壁や柱や梁を残し、区立赤レンガ図書館の一部となった(2008)。
レストランも入って、中央公園の中でもひときわお洒落な建物となっている。

赤羽に「近衛工兵第一連隊の兵舎」「陸軍被服廠」「赤羽火薬庫」など、王子駅から
隅田川まで「東京第二陸軍造兵廠」と、かつては巨大な軍事施設が広がっていた。
母は青春時代の思い出の地を訪ねることはなかった。
第二次世界大戦終結までの15年間は戦争に明け暮れた時代。

母は8月5日、静かに息を引き取った。92歳だった。母がもっとも心穏やかに
過ごした時期はいつごろだろう。父とともに庭で遊ぶ曾孫りんりんを目を細めて
眺めていた光景が目に浮かぶ。満3ヶ月のゆうゆうの初節句の膳を囲んだ父母の
嬉しそうな写真・・・10日後、父が入院。10ヶ月後、89歳で亡くなった。
            
      花冷やひとりの窓を閉づるべく
  
      この庭に夫との歳月梅は実に
       
      いま一度並みて佇ちたし十三夜
 
身近な人びと
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