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紅花咲く頃

2020年05月26日
今日は24節気の1つ「小満」の次候「紅花栄」。(紅花

紅花は、キク科ベニバナ属の一年草または越年草。雅称を末摘花ともいう。紅色染料や食用油の原料として栽培される。
花から得られる紅は女性の口紅にされ、平安王朝人の紅や桜色の衣装を染めた。源氏物語での光源氏は葵上を弔う喪服に使用したとか。また、古代エジプではミイラの布の防腐剤として使われた。

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原産地はエチオピアともいわれ、エジプトからシルクロードをたどって6世紀頃に日本に伝来したといわれてる。
山形県では15世紀半ばから栽培が始まったとされているが、江戸初期には質・量とも日本一の紅花産地として栄え、最盛期には全国の50~60%を山形産が占めた。最上川沿いの肥えた土地が主産地で、朝霧の立ちやすい気候が、トゲのある紅花を摘みやすくしたという。

紅花の大産地は最上川流域。気候、土壌が栽培に適していたこともあるが、むしろ最上川の舟運で山形と京都や大阪が北前船によって深く結びつき、紅花商人たちが活躍したことが、産地の拡大に繋がったといわれている。
だが、明治時代以降、中国産の紅花が盛んに輸入され次いで化学的に合成可能なアニリン染料が普及したため、紅花生産は急速に衰退。現在では紅花染めや観光用などにわずかに栽培されている。

先週、『失われた色を求めて』(BSプレミアム)という特集番組(再放送)で、故吉岡幸雄の日本古来の植物染による伝統的な染色が紹介された。吉岡氏は京都で江戸時代からつづく染屋の五代目で染織史家でもある。
「染司よしおか」では、寒い時期、東大寺のお水取り (修二会) の折、二月堂の十一面観音に捧げる椿の造り花のための染和紙を紅花で染める。様々な工程を経て紅花から取り出した色素は、烏梅という梅の実の燻製の力を借りて艶紅と呼ばれるように輝くような紅の色になるという。

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     韓紅・唐紅  紅・呉藍     紅色
        紅花で染めた色  『色の手帖』 

日本の伝統色や「襲の色目」などに関心が強かった母の影響もあって『色の手帖』『色彩事典』『日本の伝統色』を傍においたり、「色の万華鏡」というサイトを覗いていた時期もあった。
母の遺した『色の手帖』を開くと、紅花の花弁の色素から染め出した「紅色」(3R 4/14)「紅・呉藍」(10RP 5/11)「韓紅・唐紅」(2.5R 4/12)の色の見本が載っている。

色名は、染めの原料の名だったが、平安時代になると四季折々の自然の色の微差が色名になっていく。紅梅色は、梅で染めるわけではないし、若竹色も竹で染める色ではない。
色と色を重ねて季節や植物を表現し、装いを凝らす「襲(かさね)の色目」も登場した。

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母が句集を上梓するときなどに手に入れたのか、色見本として切り取るようになっている「日本の伝統色」「中国の伝統色」「フランスの伝統色」(大日本印刷)。
絵を描く上でもよく活用したが、久しぶりに見てみると、「日本の伝統色」の「紅梅色」「浅緑」とか「白緑」など、決まった色が切り取られていることが極端に減っていることにあらためて驚いている。
芸術・文化

画仙紙で

2020年03月02日
考古に興味がわき始めて大田区の郷土博物館の友の会に顔を出すようになって1年余りになる。昨年の3月で日本画の教室はやめてからはほぼ毎回友の会に参加して土器片の整理をするようになった。

土器片の拓本が載った資料と目の前の土器片とを照合させるのが主な作業だが、少しずつだが、拓本の見方がわかってきたように思う。ベテランのK氏やO氏は実際に拓本を取ったこともあるというだけあって、土器片のちょっとした特徴を捉えて「ありました!」と見つける確率は高い。もちろん、一致せずにそのまま袋に戻す場合もあるが。

品川歴史館の企画展示『品川区の縄文時代』でもっとも印象に残ったのは「土器片の拓本の取り方」だった。(品川区の縄文時代

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    池田山北遺跡p62掲載の実測図 *Click!

話には聞いていたが、輪郭線を写しとるのに用いる「マコ」という道具を初めてみて感動を覚えた。
マコには細い竹ひごがついていて、土器の表面に押し当てて、型取った竹刃を鉛筆でなぞることで土器の形状を写し取ることができる。竹刃は1枚0.5mm程度の薄さで柔らかく、自然の竹素材特有のしなりがあり、土器を必要以上に傷つけずに実測することができるという優れもの。

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             マコ  

日本画でお馴染みの画仙紙を用いることがわかった。押入れに入れっぱなしの画仙紙で何か拓本をとって見たくなった。

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  水で湿らせて密着←画仙紙で土器片を包む

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   タンポで画仙紙の上から墨を付ける←タンポに墨を付ける
芸術・文化

「品川区の縄文時代」

2020年03月01日
大森貝塚は、日本で初めて科学的な発掘調査が行われた「日本考古学発祥の地」。モース博士ゆかりのセーラム市のピーボディ博物館と姉妹館でもある大田区立郷土博物館と品川区立品川歴史館には、大森貝塚はじめとする品川区内で出土した考古遺物が常設展示されている。
     
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先日、品川歴史館での『品川の縄文時代』展示期間中、学芸員による展示解説が行われた。
3月に予定されていた大田区の郷土博物館の講演『大田区と縄文』(品川欣也氏)が中止になったこともあり、品川歴史館にでかけ、展示を観ていると、考古の会メンバーのUさんに声をかけられた。

展示解説の開演までに集まったのは15人程度、Uさんと真中あたりに坐っていると、「「やあ!」と声かけたのは考古の会のK氏だった。やはり新型コロナウィルスの影響か、結局、参加者は20人ほどだろうか。ほとんどがマスク着用。

約1時間の解説後、Uさんは図書コーナーへ。展示はこれからというK氏と再び展示室へ。
自然災害から身を守りながら、仲間たちと力を合わせて生き抜いていった縄文の時代に思いを馳せながら、あらためて展示された土器や土器片などを見て回った。
    
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  縄文時代の推定海岸線と主な遺跡 *Click!

約12,000年前~       縄文土器がつくられるようになった
縄文早期(約8,000年前)   現在の西五反田に小規模な集落が営まれる 
縄文前期(約5,000年前)  居木橋遺跡(現在の大崎・西品川)  集落が営まれ、貝塚が形成される
                 池田山北遺跡(現在の東五反田) 集落が営まれる
縄文後期~晩期       目黒川河口右岸から南の海岸線に集落が営まれる
(約3,700年~2,500年前)  大森貝塚など

品川区では大森貝塚のほか、多くの縄文時代の遺跡は当時の海岸線近くで発見されている。
かつて入江だった現在の目黒川をはさみ、縄文早期から前期の池田山北遺跡や前期の上大崎貝塚が確認されている。
一方、南側の台地には、居木橋遺跡、桐ケ谷遺跡、大井鹿島遺跡のほか、大森貝塚などが確認されている。

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        2020.2.24        2019.10.9

講堂前にある「土器パズル」も使用中止。「パズル利用中止のおしらせ」 コロナウィルスたいさくのため、しばらく1階「貝層パズルと、2階「土器パズル」の利用を中止しています。もうしわけありませんが、よろしくおねがいします。
昨年秋、講堂から出てきた社会科見学の小学生たちがパズルに興じていたのを思い出した。

帰りのバス停で目にしたのは、「わが町探検2020」中止のお知らせだった。パズルや社会科見学はともかく、コロナウィルス対策で、卒業式、入学式などの実施まで危ぶまれている。身近なところでは、Kさんの息子さんの「2分の1成人式」は無事に終わったというが、Mさんは、S君の妹の卒園遠足がどうなるか気をもんでいる。
芸術・文化

「やきもの」入門

2020年02月07日
昨年夏、郷土博物館で知り合った若いMさんに出光美術館の『やきもの入門』に誘われたのは11月。LINEで決めた予定だったが、彼女の方が2度、こちらの都合で1度延期になり、ついに最終日の2日前になってやっと実現した。

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        「やきもの入門」 *Click!

Mさんはキノコと鉱物大好きなS君の母親。夏にLINEを始めてから誘われたのはフリマや幼稚園でのクリスマスアドベント。S君に会って瓢箪やヒメマツタケを渡したこともある。この日はわが家にできたサルノコシカケ。

展覧会を誰かと一緒に見るのは久しぶりだった。娘より若いMさんだが、知り合って半年とは思えないのは不思議。
彼女によると、縄文土器や埴輪などが出品されているので興味があるかなと思って誘ったとのことだったが、それらは実際には少なく、最近、気になっている須恵器やかつて少しかじった茶道に関連した道具、茶碗などの名品も多く展示されていた。

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    古墳時代 埴輪  弥生後期 朱彩壺形土器

第1章「朱と渦の世界―縄文土器から埴輪まで」では、重要文化財指定の壺形土器には、朱が施されていてみごとだった。博物館の土器づくりのときにFさんがつくった弥生土器を思い出した。

第5章「みやびと洗練の文様」では、江戸時代のやきものが並ぶ。「磁器」が誕生したこの時代、唐津から、初期伊万里、古九谷、古伊万里、鍋島、柿右衛門、京焼と、さまざまな窯のやきものが各地に誕生した。
だいぶ差し上げたりして少なくはなったが、わが家に残るのは、柿右衛門、鍋島、唐津焼の食器や飾皿などには子どものころから馴染んでいた。とくに祖父母の故郷の唐津焼。今は唐津、鍋島など、普段使いになった。

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  「色絵鳳凰文共蓋壺」  「色絵花鳥文八角共蓋壺」

もっとも印象的だったのは、野々村仁清の京焼と柿右衛門の対比。どちらも江戸時代前期の重要文化財。
間近で実物を観ることができただけでもラッキーだと言える。Mさんに感謝。

柿右衛門は磁器。「色絵」は白い素地を大切にして必要最小限の輪郭線で描かれているが、一方、仁清の色絵壺は陶器のため、絵画的に描くのでなく、金銀の輪郭線で飾ってある。

また、柿右衛門とドイツのマイセンの比較展示も興味深い。制作には約1世紀の隔たりがあるが、柿右衛門に憧れたマイセンはまったく同じ構図の皿を制作している。

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        お茶をいただきながら
       
出光美術館は初めてではないと思うが、その時の展示はまったく印象に残っていない。こんなに素晴らしい美術館だとは・・・また、機会を見つけて来たいと思う。
ランチはあと5分でラストオーダーという1時半を過ぎていて慌ただしかったが、帰りの電車で、たくさん若さのお裾分けをいただいた。
芸術・文化

「遺跡の子」たちは今・・・

2019年12月12日
先日、Oさんからいただいたのは『縄文人は生きている 原始との対話』(戸沢充則 編)というかなり古く、30年以上も前に出版された本。何でも縄文に興味を持って買ったもののそのままになっていたのだとか。

この本の「縄文人との対話―序にかえて」には「この本の主人公は、いまから数千年前に生きていた縄文人と、現代の小学生たち」と書かれている。
1976年、東京の東久留米市で「新山遺跡(しんやまいせき)」という縄文中期のムラの跡の発掘調査が行われた。
下校後発掘の様子を見にやってきた小学生たちは「遺跡の子」となっていたという。そして彼らが小学6年になったとき、卒業記念の共同制作に『東久留米の縄文の人々』という版画集をつくることになったという。

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『縄文人は生きている』  『縄文時代』(能登健 著)

新山遺跡のある場所も都民のベッドタウンとして急激に大きくなったため、小中学校を建てる敷地にとなった。
学校は建てるが、遺跡も守る、そして縄文人の残した貴重な文化遺産を、学校の歴史教育と地域の歴史の教材として、最大限に活用する工夫をしようということになったという。

発掘の結果、柄鏡型住居祉という珍しい住居跡を含む30以上の住居跡と、墓の跡や祭りの広場などをもった縄文時代中期の集落跡が掘り出され、土器や石器など多くの貴重な遺物も発見された。
新山遺跡は東京都の「指定史跡」となり、下里小学校内には「新山遺跡資料展示室」が常設されている。

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         「土器づくり」

約2万年前から1万8千年前は、氷河時代最後の大変寒い時期だったが、1万年前頃を境として、気候はだんだんと暖かくなってきた。
それとともに、西日本の海岸地帯のコナラ、クリ、ブナ、トチノキなどの落葉広葉樹と、さらにその南からはシイ、カシ、クスノキ、タブなどの照葉樹林がだんだんと広がり、今から約6千年前ごろまでには、落葉広葉樹林は東北地方全域、そして照葉樹林は関東地方まで広がり、今の日本列島の植生が定着したという。

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  「クルミをわる」「ドングリの皮をむく」「ドングリをすりつぶす」「流れの早い川にさらしてアクをぬく」・・・

縄文人は川や湖に面した台地の上にムラをつくり、ムラの周囲に開かれた二次林、その奥には深い森林があるという風景の場所を、その生活の舞台にした。
彼らはムラをつくるため、こうした深い森林を切り開き、日常生活に欠かすことのできない燃料や建築材などの樹を伐り出したため、明るい開かれた空間となった。この場所にはクリクルミ、フキ、ウド、ミツバ、ワラビなども育ち、縄文人の重要な食料資源となった。

先日の特別講演「植物考古学からみた縄文・弥生移行期」で、佐々木由香氏(明治大学黒曜石研究センター)は、「本州東半部を中心とした落葉広葉樹林が広がる地域では、縄文時代前期頃からウルシクリが管理栽培されていた」という。

日本人と日本文化の基盤が、縄文時代に形づくられたということは、多くの学問分野の研究を通じて、今や常識のように言われるようになった。
いくつかの縄文に関する本を読んでいても、縄文人が自然と調和するさまざまな生活上の工夫をし、より多くの人が生き続けられるよう、力を合わせて暮らしていただろうと書かれている。
小林達雄氏(國學院大學名誉教授)によれば、「自然との共存共生」からさらに一歩踏み込んだ「自然との共感共鳴」ともいうべき関係だということになる。

「日本人とは何かを知りたいなら弥生時代や古墳時代を、人間とは何かを知りたいなら、縄文時代を学ぶのがいい」というのは、『列島の考古学 縄文時代』の著者、能登健氏。「なぜなら、縄文時代は人間が誕生してはじめて完成させた社会であって、そこには人間が共に生きるための知恵がみえる。この知恵こそが人間社会の原点」という。

30数年前、『縄文人は生きている』の版画をつくった彼らの中に、今、考古学の道に進んだ人はいるような気がする。
芸術・文化
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