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漢字のお手本帳

2009年01月31日
呉さんと知り合いになったお陰で、たくさんの友人、知人が増え、いろいろなところへ行く
機会を持て、中国の文化にもより深く接することができるようになった。

数年前、呉さんに「三字経」や「千字文」などが収められた「蒙学経典」をいただいたので、
昨年の春、「三字経」をもとに、注釈を加えて、「マイ・三字経」(100円ファイル入)を作った。
これを中国語の同学に配ったことで満足して、その後は、開くこともなく、暗誦することもなく、
ファイルは本棚の中に入ったままになっている。    (「農大収穫祭」) (「呉さんのこと」)   
       
           蒙学経典

「三字経」は、その書名から、経文のように思われがちで、
実際、私も最初は、般若心経のようなものかと思ってしまった。
「三字経」とは宋の時代に作られた子供向けの家庭教育用の教科書で、
子どもが暗誦しやすいように、韻を踏んだ三字一句のフレーズで構成されている。
人之初 性本善 から始まり、昔孟母 択隣処  子不学 断機杼  
「孟母三遷」や「断機の戒め」など、日本でよく知られているフレーズも出てくる。

  三字経

ちなみに、江戸時代の国学者、大橋若水が「三字経」に倣って著した「本朝三字経」は、
日本の歴史的事実を三字一句で叙述したもので、当時、全国の寺子屋で使われたという。

また、「蒙学経典」に収められている「千字文」は、子供に漢字を教えるために用いられた
漢文の長詩で、天地玄黄から焉哉乎也まで、4字を1句とする250個の短句からなるという。
「すべて異なった文字で、1字も重複していない」と、今は亡き沈老師に伺ったときは驚いた。

中国語は漢字で書き表される。日本人も漢字を使っている。
中国語の「花」は日本語でも「花」、「手」は「手」と、同じ漢字を同じ意味に使う場合もある。
漢字を使う日本人には、ほかの言語に比べて、中国語学習は楽だと思われがちだが、
それは、大きな間違いだ。 
私も、学習開始後、易しいどころか、実に難しい言語だと気づいた一人だった。
「花」や「手」も、中国人が発音すると、何を言っているのか、まったく分らなくなる。
口から発せられるのは音であって、漢字ではないのだから、当然のことなのだが。

日本の文化は「模倣の文化」と言われるが、良いものは良いと認め、受け容れることで、
それまでの文化と融合させて、独自の文化を創り上げて来た。  
歴史も文法も異なる中国語や漢字を日本語に取り入れて、いろいろと工夫を重ねたお陰で、 
平仮名や片仮名がつくられた。
その結果、難しい漢文もルビや返り点を付けることで、理解することができるように
なったという。

中国から入ってきた漢字だが、今、中国には、逆に輸入したと言われる語句がある。
いくつか習ったのだが、「経済」「社会」「文化」「哲学」「革命」くらいしか、思い出せない。
中国・中国の旅 | Comments(0)

水仙

2009年01月30日
  日本水仙     ヒガンバナ科 スイセン属
             学名  Narcissus tazetta var. chinensis  
             英名   Narcissus

           日本水仙

10数年前、「日本水仙の群生地」房総の鋸南町へ、Kさんとスケッチに行った。
鋸南町は、越前、淡路と並ぶ、日本三大水仙群生地で、寒暖の差が大きいので、
他の地域の水仙に比べ、香りが強く、背丈が高いのが特徴だという。
せっかくの旅だったが、、フェリーから撮った海の風景と、群生している水仙の2枚の写真、
それに、風景のスケッチが1枚残っているだけで、なぜか、ここでの水仙のスケッチはない。  

写生の教室などでは、1月は花が少ないために、水仙は貴重なモチーフとなる。
私も、何度か水仙を描いてはいるが、なかなかうまく形がとれず、苦労することが多い。

        水仙のスケッチ

たくさんの水仙を、一列に隙間なく並べて、葉と茎の深緑、花の純白、花芯の黄色の3色が
つくる、横縞の帯のようなイメージを、本画で表現してみたいと、スケッチする度に思うのだが、
なかなか構想がまとまらない。     
植物など | Comments(0)

秩父通いの日々

2009年01月29日
埼玉県秩父にある武甲山との出逢いは、いきなりだった。
1988年の1月、秩父に初雪が降ったと聞いて、スケッチブックを持って、家を飛び出した。
このときは、秩父駅に近い、羊山公園から武甲山を描いて、満足した。(写真上から2枚目)
私が知っている武甲山は、山全体が石灰石の採石場と化し、痛々しい山だったが、
粉砂糖がかかったような暗緑色の樹々も、堂々とした雪化粧をした山も印象的だった。

その後、先輩のKさんと話していて、彼女もこの日、ひとりで武甲山を描きに行ったとわかり、
こんな偶然があるのだろうかと、びっくりしたものだった。

       雪の武甲山 

その翌年、秩父に初雪が降った日の翌朝、やはり武甲山を描こうと出かけた。
このときは、札所20番「岩上堂」近くで(手前)
その年の3月、札所8番西善寺付近で、雪が降った日に描いた(手前から2枚目)スケッチがある。

池袋から西武特急で80分、日帰りのスケッチにはもってこいのスポットなので、
雪の武甲山と出逢ってから、秩父へ頻繁に行くようになった。
この年の春と秋にも、武甲山を描いているが、
2001年5月、桐の花を入れて描いたのが最後のようだ。(写真右手前)          

「秩父・上州路」という1冊のガイドブックを、ご朱印帳とともにいつも携帯して、
訪ねた日やスケッチ場所を書き込んでいたが、タクシーの電話番号のメモも挿まっていた。
一時は、秩父札所34箇所全部を訪ね、必ず1枚ずつスケッチしようと決めたのだが、
いつの日か、中断したまま。(札所めぐりは18箇所まで)
最後の武甲山のスケッチあたりで、私の「秩父迷」も休止となったようだ。

           武甲山のスケッチ click!

ところで、最初に「雪の武甲山」を描きに行った翌年の1月に、Kさんと一緒に、
今度は「水仙を描こう」と、千葉県鋸南町まで旅をした。
急に思い立ってだったのか、詳細は忘れたが、
三浦半島の久里浜からフェリーで金谷まで行き、そこから内房線で保田まで行った。
思ったより時間がかかり、結局、寂しい冬の風景をスケッチしただけで、
水仙は描けずじまいとなった。

その後も、Kさんと、2人だけの旅が2度ほどあったと思う。
保田に行った年の秋に、電話で旅の話をしていて、急遽、「行こう」ということになり、
少し遅目のスタートになった群馬県の倉渕村。 このときは、途中で、雨に降られ、
バスの待合所から、遠く煙る山々、黄金色の水田や稲架を描いただけで終わった。

画帳を出してみると、裏に「Oct.18 14:50~15:05 小雨」 「高崎発 13:30」(群馬バス)
というメモと、高崎行きのバス時刻が書き写してある。 「15:10/15:45/16:45/17:30」
ということは、15分で描いて、「15:10の高崎行」のバスに乗ったということになる。
このスケッチをもとに、サムホールの本画を描いた記憶はあるが、
クロッキーのような画1枚のために、なんと、貴重な時間とお金を遣ったことか。
        
その数年後の夏、10数人参加の「尾瀬のスケッチ旅行」が計画され、
その前の6月に、Kさんと私は、下見のため、檜枝岐に1泊したことがあった。
その晩は夜中を過ぎても、絵のことや旅の想い出など、話は尽きなかった。

そして、この下見の時にスケッチした「燧ケ岳と水芭蕉」をもとにして、
4号とサムホールの2枚の「尾瀬 6月」を仕上げた。
旅・散策・イベント | Comments(0)

日向ぼっこが一番

2009年01月28日
朝ごはんの後、2階ベランダにセットした「畳の間」で過ごした猫たちも、
昼近くなると、下りてきて、それぞれ、お気に入りの場所で、再び毛づくろいを始める。

お手入れ中
            ケシ トラ アミ       
   クク


午睡中                     
     トラ ケシ アミ  

              
整列中
      唐獅子 ケシ トラ

4匹の子猫たちの母親チビが姿を消してから、4ヶ月が経った。
ククは、他の3匹と別行動をとることが多くなった。 
食事のとき、自分は食べずに、さいとうさんちの猫たちを追い払っているかと思えば、
自分だけ物置の上の部屋(2mの高さに置かれた衣装箱)の内で食べることもある。

ケシはおっとりしている。ターノたちとボクシングを試みることもあるが、迫力はない。

アミは好奇心旺盛で、周りのことなど気にせずに、ゴーイング・マイ・ウェイ。
トラは、ケシといっしょにいることが多い。 石橋を叩いて渡るタイプ。

いずれにしても、この庭で生まれた彼らは、ここを終の棲家とすることだろう。
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葱をめぐる思い

2009年01月27日
毎年、暮れになると、「下仁田葱」を送って下さる方がある。
この葱は名前の通り、群馬県甘楽郡下仁田町で盛んに栽培されていている葱だが、
その歴史は古く、江戸時代には、大名・旗本にも珍重されていたという。
かって、群馬県前橋と長野県でも試験栽培が行われたそうだが、前橋では育ちが悪く、
長野では育ちすぎて葉が硬くなり、成功しなかったとのことだ。
何でもそうだろうが、特産品を作る方は大変だ。
         
          
          車でサファリパークへ行く途中のスケッチ 1998.1.1
          下仁田町は浅間山の山麓にある 

下仁田の葱は、普通の葱と比べると、直径5㎝くらいと太く、白い部分が特に短い。
生では辛味がきついが、煮たり焼いたりすると、柔らかく特有の風味と甘みが出るそうだ。
「甘みが出るそうだ」と自信なさげなのは、
私は、子どもの頃から、晒し葱は嫌いではなかったが、「煮た葱」は苦手だったのだ。

下仁田葱に限らず、すき焼きや水炊きなど、鍋物に入っている葱の、
トロッとした甘みが、駄目なのだと思う。 
何度かの入院経験で味わった、あの夕食のお菜「玉ねぎとじゃが芋の味噌汁」でも、
玉ねぎだけは苦手だった。
 
ときたま、茶の間で食卓を囲んだ、往時の夕食の場面を思い出すことがある。
もっとも、映像の形でではなく、あくまでも部分的な記憶として、頭の片隅に残っているらしく、 
鍋物の葱をみると、なぜか、その場面がひょいと飛び出してくる。

出てくるのは、やはりすき焼の場面で、私は何とか「葱」を食べないようにと努める。
「葱はきらい!」などと言おうものなら、「嫌いなものこそ、食べなくてはいけない!」と
父に言われるに決まっていたし、 
だからといって、「葱は好き・・・」といったところで、「好きなら、なおのこと食べなさい」と
言われるのが落ちで、知恵を絞った挙句、食べたふりをすることを思いついた。

私が小学生のころだから、母のとなりに坐り、怖かった父は正面だったはずだ。 
父の見ている前で葱を小皿にとって、食卓の下で、母の皿に移すつもりだったが、
こんな企みがうまくいくはずもなく、結局は、父にみつかってこっぴどく叱られた。

こんなことは、1度だけだったのか、何回もあったのか不鮮明だが、
ますます、私は「煮た葱」が嫌いになり、すき焼も美味しいものとは思えなくなってしまった。
そして一層、食事時間=お小言時間と思え、食事そのものが重荷になった時期があった。

今の私は、すき焼は嫌いでないが、やはり、葱を避けて、まず、箸をつけるのは白滝だ。
先日、すき焼を孫りんりんと一緒に食べたとき、白滝を彼と取り合った。 
孫とおかずの取り合い?なんとも絵にならない光景だが、彼も私も白滝や蒟蒻が大好きだ。

彼は、魚に比べ肉類はあまり好きではないようだが、甘辛く醤油で味つけたものなら
何でもOKのようで、彼の離乳食後の献立には、三種の神器ならぬ、三種の副菜、
「ひじき」「卯の花」「切り干し大根」が欠かせなかった。
今でも、これらは好物のようだが、更に美味しいものがどんどん出てくることだろう。           
             芽が出た玉ねぎclick!
               長葱のスケッチはなく・・・

食べ物の好みに、DNAがどの程度、影響するのかわからないが、
彼の魚好き貝好きは、父親、そしてつまるところ、札幌の祖父譲りに違いない。 
札幌から戻ってしばらくの間は、祖父の受け売りか、魚の話題がつづいた。
幼稚園が始まると、「ゴーオンジャー!」と騒ぐ、いつもの彼に戻ったが・・・。 
つれづれ | Comments(0)

日本での春節

2009年01月26日
今日、1月26日は春節(旧正月の元日)にあたり、中国、台湾、韓国、ベトナムなどでは、
この日を盛大にお祝いする。
先日、東急線田園調布駅近くの商店街で、日本の伝統的な獅子舞、恵比寿大黒舞を
みたが、横浜中華街でも、今日は、「採青」(サイチン)といわれる獅子舞の巡行が見られる。

横浜中華街へは時たま出かけるが、「採青」は2度ほど見に行った。
2度目は、5年以上も前に、絵の仲間数人で、1日観光客となって愉しんだ。

「採青」は、獅子が銅鑼と太鼓の音に合わせて、舞いながら街を練り歩き、各店舗を訪ねて、
ご祝儀袋をパクッとくわえ、商売繁盛を祈るという、旧正月の行事だ。

      採青

今年も、ひと月ほど前から、東急線の駅には、大きな「春節」のポスターが貼られているが、
沿道にぎっしり、特に「関帝廟」前では石段までも人、人、人だった情景を思い出す。
あのときは、数匹の獅子たちを取り巻く観客が多くて、なかなか傍に寄れなかったが、
とりあえず、黄色の獅子を追いかけることにした。
祝儀袋は、店頭にぶら下げられるだけでなく、竿の先に吊るされたものもあり、
それに出会うと、獅子は、2本足でグーッと伸び上がり、眼をパチクリして、困ってみせる。
そのユーモラスな仕草に、観客はドッと沸き、盛大な拍手を送る。

獅子の頭と前足役、背中と後足役の2人1組で、中華学校の青年たちが演じている。
伸び上がるときには1人がもう1人を肩車しているらしいが、まるで獅子が生きているようで、
中に人間が入っていることをすっかり忘れてしまう。

        関帝廟前の人人人

ちなみに、「採青」の名は、獅子が「青菜を採る」という意味だが、裏では、この舞踏を、
漢民族が「清を倒す」ために、禁じられていた武術訓練の隠れ蓑としていた、
という歴史もあるそうだ。
「採」の字は「足偏に采」(踏みつける)という字と同じ発音(cai)で、「清」は「青」と同じ発音
(qing)なので、「清を踏み付ける」が「青菜を採る」、「採青」となったという。

ひと月の内に、和風の行事を体験し、旧正月にはこうして中国式の獅子舞を愉しんだりと、
2度もお正月を味わうことができる日本は、何だかんだ言っても、平和なのだろう。 
今年も、中華街にはたくさんのひとたちが集まり、旧正月を祝うことだろうが、
呉さん一家も、故郷、アモイで、親戚や友人たちと、春節を祝っているに違いない。
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多摩川のアサリ

2009年01月25日
今月前半は、浅間神社に参拝、どんど焼きに参加と、多摩川に接する機会が多かった。
ひところの多摩川は、川岸にはゴミがあふれ、川面は洗剤の白い泡で覆われていたが、
嬉しいことに、今は、随分と浄化され、そのような光景は見られなくなった。
ただ、自然の風景には馴染まない「ブルーシートの家」が、一向に減らないのは残念だが。

昨年12月に、「アインシュタインの眼」(NHKBS-Hi)の「多摩川河口の不思議ワールド」をみた。 
たまたま、TVをつけたら、「スズキはアユを追って多摩川を上っていく・・・」、
「10kmから13km、狛江あたりまで・・・」という言葉が耳に入ってきたのだ。

あの多摩川に、スズキだとか、アユだとかの魚がいることだけでも、意外だったのに、
更に驚いたのは、多摩川河口の干潟が、栄養豊富で、浅くて安全なので、
そこに生息する小魚は28種にもなるということだった。 

その干潟をより豊かにしてくれる、アナジャコの生態を、内視鏡カメラで追跡したり、
実際に水槽で実験をして、ハイスピードカメラで撮影した映像は、とても感動的だった。 
ちなみに、お寿司のシャコはヤドカリの仲間ではなく、エビの仲間だそうだ。

何より、興味深かったのは、バブルのころには、汚染のひどかった多摩川が、
最近、とてもきれいになった原因を、詳しく説き明かしてくれたことだ。

川の汚染は、主に窒素やリンによるもので、、これら窒素やリンを、プランクトンが吸収し、
そのプランクトンが死ぬと、窒素やリンは再び自然界に排出されることになる。 
アサリなどの貝類が、窒素やリンを吸収したプランクトンを食べて、体内に保持するので、
水が浄化されるとのことだ。 水槽を使った実験で、
「1個のアサリが1リットルの水を1時間できれいにする」ことを実証していた。

            あさり click!

多摩川や河口の水域が、貝類のお陰できれいになり、200万匹ものアユが生息していて、
それが川をさか上ること、多摩川でアサリ漁が営まれていることなど、
すべてが「眼から鱗」だった。 

窒素やリンは、人体には欠かせないミネラルだ。 
結局、鳥や人間がアサリを食べることで、はじめて多摩川がきれいになるのだという。
多摩川では、この様に、さまざまな生物が、微妙なバランスで関わりながら生きている。
科学番組などは滅多に見ないが、この企画はなかなか面白いものだと思った。
  (1月31日に再放送されるようだ。 BS-Hi 0:00-0:45

多摩川の水質がよくなったのは、勿論、アサリのお陰だけではなく、
20年ほど前からから進められてきた、下水道の整備が効いているとのことだが、
多摩川の両岸は、護岸化されていないところも多く、周辺には野草や野鳥も多くみられ、
毎年4月頃から、たくさんのアユが川を遡上する、そんな自然豊かな川なのだ。

多摩川の河口に近い、六郷土手のスケッチを、毎年、年賀状にしているKさん。
今年で何年目なのだろう。                  (「年賀状をつくる」) 

         多摩川スケッチ
                     多摩川付近のスケッチ 
       
私はというと、9年前に丸子橋が架け替えられて以来、多摩川にはご無沙汰していた。 
それまでのは、冬と春に、二子橋付近で描いた2枚をのぞくと、
対岸の神奈川県川崎市側のスケッチも含めて、丸子橋付近で描いたものがほとんどだ。
中には、架け替え前の橋脚の間から、東横線の鉄橋と多摩川台公園を描いたものもあり、
あのころを懐かしく思い出した。 (スケッチ写真の上中央)
本画にしたのは、二子橋付近の荻と冬の樹を描いた1枚だけのようだ。(「白い秋」)

昔、絵地図づくりは無理としても、多摩川の上流から下流までを、スケッチしたいと思っていた。
二子玉川付近と丸子橋付近を描いたところで、大休止。 いつか、再開できるといいのだが。
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古布を活かす

2009年01月24日
今月の15日、東急線の車内で、「世田谷ボロ市」の広告が目に留まった。 
毎年、12月と1月の15、16日の2日間ずつ、世田谷線の沿線で開催される市だが、
めったに行く機会がなく、これまで、2度ほど行ったきりだ。

2年前の12月、絵の仲間との忘年会の後、何人かでボロ市に寄り道をした。
行って見ると、あまりの人の多さに、一緒の行動は無理だからと、自由行動となった。
そこで、私は主に古着専門の露天商を見て回ることにした。

というのは、岩手にお住いの孫娘ゆうゆうの祖母Oさんは、パッチワークがご趣味で、
彼女から「なかなか古布が集まらない」と聞いていたので、ボロ市で探してみたのだ。
結局、端布がぎっしりと詰まった1袋を買って帰り、その中から使えそうな布を選んで、
父母や祖父の着物などと一緒に、岩手にお届けした。
 
Oさんのパッチワークの作品は、和服の古布をアレンジした、渋くて上品なものが多い。
息子たちの結婚式の時に、黒を基調にした手提げ袋と小物入れを頂いたのが最初だった。 
どちらも、とても気に入り、出かけるときにはファスナー付きの小物入れにはカメラを入れ、
手提げ袋は、それまでの紙袋をやめて、必ず持って行くようしていたが、
もともと古布だったこともあり、どちらも1年位で、角が擦り切れて使えなくなってしまった。

         3歳半の りんりん         1歳半の ゆうゆう               
          父の夏の着物から           母の浴衣から
      (穴の中には大好きなダンゴムシ)             

古布を送ってから数ヶ月後、りんりんゆうゆうに、それぞれ、浴衣とジンベイが、
そして、私には、手提げ袋や携帯電話用の袋、小物入れなどが届いた。
ただ今、愛用中なのは、下の写真の手提げ袋と小物入れ。 
電子辞書と小さなメモ帳とペンを入れた小物入れは、財布・携帯とともに必携アイテムだ。

  バッグと小物入れ  ついたて

右上の写真は、数十年前にごんさんが作った衝立で、白木の部分は焦茶色に変わっている。
掛けている布は3代目だが、父の縮緬の兵児帯を3等分して取り付けただけのもの。
この衝立の使い道は今のところ特にないが、捨てるに捨てられず、残してある。

着物の話に戻るが、
30余年前に亡くなった祖母は、何時も和服で、洋服姿を見た記憶がない。 
また、40年前までは、母もお茶の稽古の時以外にも、よく木綿の着物を着ていたものだ。
その中の、焼緑青、焼群緑、辰砂の縦縞模様の渋い着物は、かなり前から綿布に戻されて、
私の手許にある。
今は、プリンターやスキャナーのカバーなどに使っているが、毎日みていても飽きが来ない。
つれづれ | Comments(0)

猫たちの茶室

2009年01月23日
2階のベランダに、手すりの高さにあわせて、半畳のタタミを置いてみた。
ここは庭のどこよりも早く、朝陽があたるので、猫たちの評価を得たらしく、
梅の木と梯子を経由してやって来るようになった。

         最初はアミが偵察に
          アミ
                 このまま部屋へ飛び込みたい・・・

              マイ スポット 今までアミ専用のタタミだったのに
 
        チャトランがやってきて
            広いタタミなのになんだか狭くなったみたい

       ククは2階まで来ない
                ククは梅の木が大好きなので

注: この畳は 、みんみんの母が、お茶の稽古時に使用していたもの
動物など | Comments(0)

ままごと遊び

2009年01月22日
孫たちの遊びをみていて感じるのだが、最近の子どもたちは、大人の目が届く
限られたところで遊ぶか、テレビ画面やゲーム機を相手に過ごすことが多く、
やはりほとんどがひとり遊びになっているようだ。

確かに、外で安心して遊べる状況でないし、兄弟姉妹がいない、近所には
子どもが少ない、お稽古ごとで忙しいなどなど、いろいろな原因があると思うが・・・。
家の近くの広場や路地でも、子どもたち同士が一緒になって遊ぶ光景は、
めったに見かけない。

昔、例えば、「ままごと」遊びは、女の子の遊びの定番で、お互いの役割分担が
ほぼ決まっていた。
今も、調理台、流し台、木製の調理器具や食器などのキッチンセットは人気が
あるようだが、お人形の「お母さん」役をする子どもの、室内でのひとり遊び用に
なっているのではなかろうか。

孫娘ゆうゆうの、3歳の誕生日プレゼントは木製「ドレッサー」セットだった。          
たくさんの化粧品やアクセサリーがついてるが、いわゆる「ままごと遊び」のように
相手は要らない。母親のものをいじったりはしなくなるだろうから親としてはいいの
かもしれないが、遊び方に、個性や工夫を期待できないような気がして、淋しい。 

         ドレッサー

私の子ども時代のように、庭や門の前に敷かれたゴザ1枚で、家の中と外の世界が
仕切られ、靴を脱いでゴザに上がるというままごと遊び。家の中で女の子たちは、
庭の草花のほか、土や砂、水までも食材にして食事を作る。男の子が帰宅し、みんな
茶の間に坐って食事を始める、などという設定は、今や通用しないのだろう。

現に、孫娘ゆうゆうの家でも、保育園の送り迎えは、朝は父親で、夕方は母親となっており、
休日以外は母親と2人だけの夕食が多いそうだし、食事も父親が作ることもあるようだ。
要するに、家事も育児も「できる人ができる時に」といったところだろうか。

このゆうゆうの父親が幼い頃は、年が近い姉(りんりんの母親)や近所の女の子と
「ままごと」遊びをすることが多かった。 
途中から、ミニカーを買ってきたりして、少しずつ軌道修正をしていったものだが。 
彼が、家事、育児全般を、実にうまくこなす、いい夫、いい父親になったのは、
このときの「ままごと」遊びが生きているのかもしれない?と、たまに思ったりする。

また、あの頃の子ども達は、「遊び場道路」でも、よく遊んだ。平日の午後、
車を通行止にした道路で、2歳くらいから6歳くらいまでの子どもたちが、
多いときで10人くらい集まって、ひとつの子ども社会が出来ていた。
大人は遠くから見守る程度で、年上の子は年下の子の面倒をみたり、時には
喧嘩しながら、遊びを通して社会生活を学んでいった。 
しかしながら、最近はそんな機会もほとんどなくなっている。
この子ども達が大人になった頃、どういった世の中になっているのだろう。
        
         遊び場道路で夏祭り
      
話は私が子どもの頃に戻るが、よく庭の木に登ったことを思い出した。いつも
登る木は決まっていて、確か、ネズミモチだったが、地面と平行に伸びた枝で、
逆上がりしたりもした。
私が高所恐怖症になったのは、いつ頃のことだったのだろう・・・。 

庭の真ん中に池があり、のちにこの池は底にヒビが入って空池になってしまった。
おたまじゃくしをとったり、向う岸へ跳んで渡ったりしたこともあったが、池に
落ちたことは1度もなかった。とにかく、決してお転婆ではなかったが、小さな怪我は
度々だったし、あちこち擦りむいてカサブタをつくった。 けれど、父親譲りなのか、
有難いことに骨は丈夫で、骨折は今までに一度も経験がない。
身近な人びと | Comments(0)

冬の江南の旅 常州

2009年01月21日
「江南の旅」の感想文を読み直してみると、いろいろな光景が浮かんできて、
その時どきの張さんの言葉なども、次々に思い出される。

「冬の江南の旅」の3日目は、上海から列車で張さんが住む江蘇省の常州へ向かった。
ここでは、張さんの亡き父上の友人が院長である常州市書画院で、作品を鑑賞したり、
南京の美術教授のアトリエを訪問したりした。
驚いたことに、書画院の応接室もアトリエも、床に小さな電気ストーブがあるだけで、 
「厚底の靴にコートを着たままの私だったが、まるで、半袖になり、裸足で氷の上に
立っているかのような錯覚を覚えた」ほどだった。教授夫妻もコートのままだったことを思うと、
外が寒いのだから、家の中もそれ相応にということだったのかもしれないが。

その数年後、北京の比較的上等なホテルに2泊したとき、部屋の暖房が効き過ぎて、
しかも、調節ができずに困ったことがあった。結局、どう対処したのか、忘れてしまったが。
「旅の中国語会話」とか、「とにかく話そう中国語」などの本を持っていたとしても、
こんな時には、あまり役に立った試しがない。
いずれにしても、あまり機器に頼りすぎないのがいいのだろう。

        路城鎮でのハプニング

この旅最大のハプニングが起きたのは、何といっても常州市郊外の李さんの家を
訪問した日の夜だ。
張さんの遠い親戚にあたる李さんは、長男、長女の2人とも、日本に留学中だったので、
村の学校の校長先生をしている奥さんと、母上との3人暮らしだった。
李さんの家の台所には、大きな竈があったりするので、「常州市内にある自分のマンション
とは様子が違って興味深いだろう」という、張さんの計らいだった。

さて、暗くなってきたので帰ろうという時になって、車が溝にはまって動けなくなってしまった。
近所の人たちがそれぞれ道具を持って集まり、車の近くの家の電灯を外まで引張って来て、
車と格闘してくれたが、結局、車は上らず仕舞いだった。
仕方なく、運転手と車を残し、張さんの案内で、街灯もない道をバス停まで歩いた。
どのくらい待ったのか、市内までどのくらい時間がかかったのか、まったく覚えていないが、
こちらに向かってくるバスが見えたときは、思わず歓声をあげそうになった。

               常州の裏町スケッチ click!

そんなことがあった夜の次の日が、この旅の最後の日だった。
「常州のホテルの窓から、公園で太極拳を愉しむ人々が見える。 
朝食後、スケッチブックを片手に一人ホテルの周りを歩いてみる。
リヤカーに溢れる色とりどりの花々、背広姿の若い男性が花束を買っている。
店の横に椅子を出し耳掃除をしてもらう老人、
路地に入るとそこには、立って茶碗と箸を持って朝食中の人々、
アパートの窓からは何層にも吊るされた洗濯物が、まるで万国旗のようにはためいている」
急いでスケッチブックを開き鉛筆を走らせたが、常州とも張さんともお別れする時間が来た。

上海虹橋空港行きのバスに乗り、隙間風に耐えながら、窓にしがみついて名残を惜しんだ。
その後も、江南に数回行ったが、このような真冬の江南の旅は最初で最後となった。
このときのメンバーは、私を入れて5人、写真をみると、やはり、みんな若い!
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冬の江南の旅 水郷

2009年01月20日
中国人が編集し、日本で発行されている、日本語の月刊誌を、定期購読しているが、
最初はこの雑誌の存在も知らなかった。
当時、デッサン教室で一緒だったFさんが、「そんなに中国が好きなら・・・」と、ご主人のところに
送られて来たものを譲って下さったことから、この雑誌との長い付き合いが始まった。

ちょうど、その頃、この出版社が主催する新世紀記念の「写真・感想文コンテスト」が
開かれており、それへの応募を勧められて、中国「江南スケッチの旅」という一文を書いて
応募した。 それがたまたま、入賞し、副賞として立派な「景泰藍」(北京独特の七宝焼)の
馬の置物を頂戴した。
もっとも、これは、大き過ぎて場所をとるので、今は、箱のまま物置にしまってある。

ついでながら、その何年か後に、「上海での小さな旅」という題で投稿したときは、
呉作人という高名な画家の「駱駝」の掛け軸を頂いた。
私の周囲では贋作説が有力だったが、ごんさんの父が気に入り、
床の間に掛けてくれたのだから、真贋はどちらでもいいとしよう。

2000年のちょうど今頃、張さんの案内で江蘇省の常州から、江南水郷の同里と
周荘に向かったのだが、以下に「感想文」の同里鎮の部分をご紹介しよう。

「蘇州駅からは張さんと、チャーターした面包車で同里鎮へ。
車の形が面包(食パン)に似ているからという楽しいネーミング。

運河にかかる古い石橋は17、8世紀、帆を張って運行する船を通すため
アーチ型につくられたという。 人は石段を、自転車は平らな部分を行き交う。
水路への階段下で洗濯する女性、洗面器の赤や青、輪タクの緑の幌や店先の提灯の赤。
雨上がりの白い壁と黒い瓦の家並、そして冬の樹々と運河という、
このモノトーンに近い風景の中で、これらの色は生活感と活気を感じさせてくれる。
   
        同里鎮の花嫁
         
スケッチしていると、白いドレスの花嫁と花婿を先頭に十数人の列が眼の前を通り過ぎた。
何度も同じ路を通る人たちを不思議に思ったが、後できくところによると、ここ同里では
(花嫁花婿は)三つのアーチ型の橋「三橋」すべてを巡ると幸せになるのだという。」

最近の中国では、都会のホテルでパフォーマンス一杯の披露宴をする人たちが増えたが、
こうした自然な風景にとけ込んだ2人は、とても素敵だった。

「中国の花嫁衣裳は縁起がよいとされる赤というのが、私の僅かな知識だったが、
花嫁のドレスの白はこの運河の町にはよく似合っていた」というところまで読んだとき、
この橋の傍で、焼き芋をフウフウいいながら頬張ったことを思い出した。

婚礼の行列が過ぎたころ、張さんが、熱々の焼き芋を買って来てくれたのだ。
1月の半ば過ぎのこと、うんと寒かったのだろうが、その辺りの記憶は曖昧だ。 

時どき不思議に思うのは、五官の中でも目、耳などから入った記憶は残ることが多いが、
暑い、寒いなどの皮膚感覚は、印象が薄れやすいように思えることだ。
北京の王府井大街で、背景の電光掲示板の「零下10℃」の表示が写った写真をみても、
寒さの実感が蘇るというより、氷点下だから寒かったに違いないと、
頭で納得させられるらしい。

         周荘にてclick!
             翌日は中国第一の水郷といわれる周荘鎮へ

そういえば、もうひとつ、思い出したことがある。 
2000年になろうというときに、2000年問題(Y2K問題)が注目されたことがあったが、
このことを「二千年虫」というのだと、張さんは列車の中で教えてくれた。
結局、二千年虫は思ったより穏やかで、この旅も無事に終えることができた。 
あれから、もう9年が経ってしまった。 つい、この間の出来事のように思えるのに。
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落花する椿

2009年01月19日
早いもので、明日は24節気の一つ、「大寒」。
1年でもっとも寒い時期で、寒稽古などという言葉もあちこちできかれるようになる。

先日、椿の写真の表紙に惹かれて借りてきた寺田寅彦「椿の花に宇宙を見る」(池内了編)は、
去年の夏に購入した「寺田寅彦随筆集」全5巻(岩波文庫)に収められたものがほとんどだった。 
文庫本の方は、いつでも読めると思って安心したのか、結局、第1巻を読んだところで
中断していた。

この「椿の花に宇宙を見る」の活字は大きく読み易いので読むことにしたが、
興味深かったのは、「藤の実」篇に書かれている「潮時のような現象」についてだ。
寅彦は、藤の実がはじける現象、椿の落花、銀杏の落葉などの植物界の現象にも、
一種の「潮時」のようなものがあることに気づいたという。  

銀杏について、
「ほとんど突然に、あたかも一度に切って散らしたように、たくさんの葉が落ち始めた」
そして、まるで申し合わせたように、近くの銀杏も同様に落葉を始めたという。

        紅椿

椿については、
「椿の花の落ちるのでも、ある夜のうちに風もないのにたくさん一時に落ちることもあれば、
又、風があってもちっとも落ちない晩もある」
  

「思出草」では、「落ちざまに 虻を伏せたる 椿哉」という漱石の句の話から始まって、
椿の落花を観察した、物理学的な立場から書かれている。  
つまり、椿が落ち始めるときに俯きであっても、ある程度の高い樹であれば、
空中で回転して、仰向きになろうとする傾向があるという。 
だが、もし、虻(アブ)が蕊(シベ)に掴まったまま落花すると、
この椿の回転作用を減ずるので、虻を伏せやすくなるというのだ。   
 
椿のスケッチを出してみたが、室内で適当に置いて描いた2枚はさておき、
外で描いた椿(手前の1枚)は、すべて仰向けに落ちたものばかりだった。
       
          椿のスケッチ click!

この本を読んで以来、椿が落ちているのをみると、先ず、仰向けかどうかをみて、
それから、木の高さを確かめるようになった。 
今のところ、ある程度の高さの木の下では、うつ伏せに落ちた花は見たことがない。
        
山茶花は「散る」が、椿は首から「落ちる」ので不吉だと、忌み嫌う人も少なくないが、
茶花として珍重される椿を、子どもの頃から見てきたこともあって、
私は深い紅色の椿がポトリと落ちる情景が決して嫌いではない。

紅椿の落花と、大好きな花器に挿した白椿との2種類の花を、絹布に描いたことがあるが、
いつか、深紅の椿と、同心円の波紋を描く水面とを描いてみたいと思っている。

椿の花からも、桐の花や銀杏と同じように、さだまさしの歌の一部を連想してしまう。 
紅い椿の花が水に落ちて「同心円に拡がる」という歌詞が強烈に残っていたからだろう。 
歌の題名を忘れていたので、調べたら(何とヒマなことか)「春告鳥」という歌だった。
   
   衣笠の古寺の侘助椿の  たおやかに散りぬるも陽に映えて
   そのひとの前髪僅かにかすめながら  水面へと身を投げる
   鏡のまどろみのくだかれて   錦の帯の魚のふためいて
   同心円に拡がる紅のまわりで   さんざめくわたしの心


ついでながら、
かなりヒマな人がいて、その人によると、この衣笠の寺というのは、京都の「等持院」で、
実際に訪ねてみたら、立派な侘助椿が咲いていたという。 
ヒマではない私は、せめて東京近郊の池畔で、侘助でなくとも紅い椿の咲くところが
あるならば、是非行ってみたいと思っているのだが・・・。
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朝の特等席

2009年01月18日
梅の蕾もほころんできた。 朝一番に陽が当たるところを知っている猫たち・・・。 

庭の梅の木と2階のベランダの手すりとの間に「ハシゴのような橋」を架けたが、
しばらくの間、敬遠されて使われずにいた。 
ところが、いつの間にか、アミがこの梯子を行ったり来たりするようになり、   
そのうちに、ベランダに降りて来て、硝子戸越しに中を覗いたりするようになった。

最近は、チャトラントラも、アミから様子を聞いたのだろうか、2階へ登ってくるようになった。

    後がつかえているのだけど
                    チャトランは梯子の上で動かない

                   ここでも仕方がない
                           それでも、チャトラン 動く気配なし

     どうも落ち着かない
      ケシもトラも チャトランには一目置いている

トラもようやく、2階に来るようになったが、
ケシはものぐさなのか、細い梯子は怖いのか?梅の木に留まることが多いようだ。
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神社と古墳

2009年01月17日
先日、参拝した大田区の浅間神社(せんげん)は、多摩川を望む丘の上にある。
大田区から世田谷区にかけたこの一帯には、多くの古墳がある。
浅間神社は荏原台古墳群の支群で、この神社と東急線の線路をはさんで、
亀の子山古墳・多摩川台古墳1~8号・宝来山古墳がある。
この神社の社殿がある位置は、前方後円墳の後円部にあたるのだそうだ。

付近に、川があり、湧水があり、爽やかな風が通る小高い丘がある、といった場所は、
はるか昔に栄えた地であり、また、古墳があることが多いのだという。 
多摩川流域の散策は、たくさんの発見があって、とても楽しい。 
でも、「古墳迷」にならないよう、ほどほどにしなければ・・・。
「迷」は中国語で「熱中する、夢中になる」、「マニア・ファン」。「迷路」などのように、勿論、「迷う」意味はある。
 
         おみくじを結ぶ

ところで、浅間神社で、めったに引かないおみくじを引いてみたら、「大吉」だった。
「大吉」というご託宣に満足して、ろくに読まずに、そばの松の枝に結びつけた。
ところが、よく見ると、近くに結びつける場所がちゃんと用意されていた。 
「周りの状況をよくみて、判断すること」、おみくじに、そうは書かれていなかったと思うが、
今年の私の課題のひとつかもしれない・・・。

ちなみに、引いたおみくじを木の枝などに結びつけるのは、神仏と縁を結ぶという意味。
また、神社によっては、「凶」は厄祓いのため結んで置いてきて、「大吉」は持ち帰ってよい
としているところもあるという。
          
          多摩川をわたる東横線

久しぶりに訪ねた神社だが、境内の脇に多摩川が一望できる見晴台が出来ていた。
上ってみたが、思ったより寒くはなく、むしろ、風がとても心地よく感じられ、
しばしの間、秩父の山々、鉄橋を渡る電車、土手をジョギングする人達を眺めていた。
 
この丸子橋付近の多摩川に、アゴヒゲアザラシ「タマちゃん」が現れたのは何年前だろう。
タマちゃんはすでにどこかへ引越してしまったが、東急線の多摩川駅構内の神戸屋には、
今でも、ボリューム満点、餡たっぶりの「タマちゃんパン」がたくさん並んでいる。
ひところは、何度かお土産に買ったことがあったが、このごろは、ショーケース越しに
「あ、まだ、タマちゃんは健在だ」と確認して、何となく安堵感を感じていたものだ。 
 
           タマちゃんパンとブタまん坊主

帰りに、久しぶりに店内に入ると、170円だった「タマちゃんパン」は210円になっていた。
横に「ブタまん坊主」(157円)が並んでいたが、結局、食パンだけを買って店を出た。   
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ご朱印帳の効用

2009年01月16日
比較的暖かかった小寒の5日、六郷用水沿いを歩いて浅間(せんげん)神社へ向かった。
元旦に訪れた沼田市の吉祥寺では、境内を歩いただけの初詣だったので、
今回は、作法通りに3唱、「2礼ー2拍手―1礼」の参拝をして、ご朱印もお願いした。

ご朱印帳は3冊目になる。 久しぶりに、1冊目を開いてみたら、1枚目は昭和61年8月、
埼玉県川越 喜多院のご朱印。 ご朱印を受けるために喜多院で買ったご朱印帳だが、
さすがに白い和紙には細かい茶色のシミが出ていた。

3冊目の最初は、平成11年12月30日(1999年)、厳島神社のご朱印だった。 
ちょうど、ごんさんが、山口県の徳山に単身赴任していたころだ。 
この年の9月に厳島神社が台風18号によって蒙った被災状況の写真と、
観光客がほとんどいないために、なんとも暇そうな鹿たちの様子が印象に残っている。

      厳島神社のご朱印   厳島神社の鹿

この神社に限るまいが、12月30日という日は、翌大晦日と新年の準備のために、
観光地といえども、ほぼ全面休業の状態で、1年のうちで最もお客の少ない日に違いない。 
わざわざ、この日を選んで行くべきではないということを思い知った日だった。

ご朱印帳はお守り代わりになるときいてから、ほとんどの旅で携帯するようになった。
厳島神社の次は、山形県の山寺(立石寺)、出羽三山神社、東北地方、埼玉県秩父の札所、
そして、秋田県の象潟のご朱印が押されている。 
その次には、JRに1万円を寄付した年の松島瑞巌寺、塩竈神社。(「失敗したひとり旅」)

その後は、あまり旅に行かなくなったのか、間があいていて、3年後となる。
正月パスのひとり旅で夕方、立ち寄った平泉毛越寺、そして、今年の浅間神社とつづく。
もともと、ご朱印は寺社に写経を納めた際の受付印だったといわれる。
そのことを考えると、ご朱印がお札代わりのお守りと思うことはともかくとして、
ご朱印帳を、記念スタンプ帳代わりにしていることは少し気が咎める。   
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老師交代

2009年01月15日
<沈老師とともに>

  2001年秋   「沈先生の中国語講座」発足:都民カレッジの受講者を中心に
     ・       
     ・                 
  2007年12月 忘年会聚餐                    (「想い出すこと」)
  2008年6月  老師ご病気のため 講座は休会 
       7月末 老師ご帰国により 講座は閉会 
       9月   「記念アルバム」を老師の病床へ届ける (「アルバムづくり」)
      11月   黄老師との初顔合わせ              (「再開の悦び」)
      12月   沈老師 ご逝去                   (「再見!」)            

告別式では「老師への記念アルバム」がスクリーンに大きく映し出されたという。
「人生の半分以上を過ごした日本で、老師がいかに尊敬され、慕われていたのかを、
参列の方々にわかっていただけ、大変嬉しかった」と、奥様は涙ながらに話された。

<沈老師から黄老師へ>

「自分の病気のせいで、同学の皆が中国語学習を中断することがないように」と、
ご自分は病床にありながら、お心を砕いてくださった沈老師。
「沈老師は大切な友人です。 沈老師に安心していただくためにも、
皆さんと一緒に頑張ります」とおっしゃって下さった黄老師。
       
このお2人のご尽力のお陰で、ほとんど全員の顔ぶれが揃って、
今日、半年ぶりにあの204号室で、黄老師の「中国語講座」がスタートする。

     haolaoshi.jpg
        沈老師は永遠に私達の「心中の老師」

アルバムの冒頭に記した、この14文字の思いを忘れずに、
「心機一転」、これからも「活到老 学到老」を実践して行きたいと思っている。         
                                 (到は ・・・までの意味)               
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猫たちのツーショット

2009年01月14日
<ケシとアミ>
             ケシとアミ 
                    梯子のぼりは アミの方が先輩

     アミとケシ
         玄関扉、門が開くのを待つ
         ポーチのデッキチェアーは猫たちの指定席


<チャトランとアミ>                       
                チャトランとアミ
                    アミに餌を譲る控えめなチャトラン

<ククとアミ> ツーショット 番外編  (ククとアミは女の子)

          アミとクク 
                   ククは高いところが好き
          物置の上、小物置内の3段ベッドの最上階が定位置

-ラスカルの退院-
11日の夕方、何も食べられず、原因不明のまま入院していたラスカルが姿をみせた。 
以前のようにやってきて、固形のフードを食べたので、何はともあれ、一安心だ。 
ただ、以前にも増して警戒心が強くなったようだが、ノラ猫としては当然のことだろう。 

地域猫として生きていく猫も大変なら、地域猫の面倒をみる人間側も大変だ。 
区からの補助はなく、保険もきかず、さいとうさんが支払った18日間の入院費は
9万円だったそうだ。

そのラスカルは、つい最近までチャトランが静養していた南側のベッドの2階で静養中。
食事時間になると、さっと北側の食堂?にやって来るようになった。
また、捕まったら、大変と、さいとうさんのところには、しばらくは近寄らないのだろう。
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「どんど焼き」考

2009年01月13日
最近、図書館や整体マッサージなどへ出かける時は、なるべく歩くようにしているせいか、
町の掲示板などにも自然と目がいくようになった。
年末の餅つき、除夜の鐘、新年の初詣、獅子舞など、古くからの風習や行事に、
わざわざ遠出しなくても、自宅近くで参加したり、触れたりする機会があることを知った。 
一昨日の河川敷での「どんど焼き」のお知らせも、図書館への途中でみつけたものだ。

「どんど焼き」は、全国で行われている伝統行事で、ほぼ1月14日、15日に、小正月の
行事として実施されることが多いが、北陸、東海地方、京都府では「左義長」(さぎちょう)
大阪府は「とんど焼き」、九州では「鬼火焼き」など、地域によって呼び方は様々のようだ。

「どんど焼き」といえば、どこかでみたことがあると思い、20年近く前に、妙義山方面への
スケッチ旅行(1/4~6)の帰路に撮った写真を探してみた。
これは、恐らく、翌日の「どんど焼き」のために組まれた櫓の写真なのだろう。 
このときの顔ぶれをみると、運転していただいたAさん、3人のKさんたちと私の5人。
実に珍しい組み合わせだった。 
たしか、出発の前日に急遽、決めた旅だったことも思い出した。 
この頃は今のように正月3日に開いている店も少なく、やっとみつけた駅近くの喫茶店で
相談して決まった旅だった。

こうした、思いつきの旅を何度か経験したことで、絵の会など大勢で行く旅とは違って、
ハプニングと隣り合わせの自由な旅の醍醐味を知ることができたように思う。

             どんど焼きの準備1991.1.6
                 妙義山麓の村  
                            
「竹、藁、杉の葉などで櫓や小屋を作り、正月飾り、書初めなどを一緒に燃やす。
書初めの紙が神火で高く舞い上がると字が上手になる、
繭玉だんごや餅を焼いて食べると病気をしない、虫歯にならない、
残り灰を身体にまぶして無病息災のおまじないをする」
  
火を神聖なものとする信仰と結びついて、「五穀豊穣・家内安全」や「大漁祈願」などの
願いがこの「火祭り」に込められているという。           (参考:「日本民俗辞典」)

ところで、炎も、太陽も血液も「赤」を連想させるが、人は赤をみると「血圧や体温が上がり、
呼吸数も増加して、興奮状態にセットされた身体が作り出される」
といわれる。 
これは「生き残るために、赤にすばやく反応するように変化してきたからだ」と考えられている。
古代から赤には強いパワーが宿ると考えられて、戦国武将の陣羽織に用いられたり、
神社の赤い鳥居や護符、魔除けにも使われたのだという。 (「色彩心理」山脇惠子著)

ついでながら、赤のイメージは、民族や時代による差はあまりないということだが、
例えば、黄のイメージは、ヒンズー教、仏教、道教などでは高位の色とされているが、
ヨーロッパでは(ユダの)裏切りの色とされているそうだ。
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多摩川のどんど焼き

2009年01月12日
この冬一番の寒さを記録した昨日の朝、多摩川の河川敷で「どんど焼き」が行われた。

「新春どんど焼き 1月11日(日) 10:00~12:00 多摩川河川敷
今年もたこ揚げやります。先着40名様にたこを用意しました。羽根つきもやりますよ。
遊びにきてください。焼きそばと、おしるこを用意してたくさんの方の参加をお待ちします。 
(出来れば、はしとおわんをお持ちください)」
(お椀持参の人はほとんどみなかった)

掲示板でみたお知らせの「おしるこ」につられたわけでもないが、珍しくごんさんと出かけた。 
孫のりんりんも来る予定だったが、咳がひどく、急遽、取りやめに・・・。

風は強かったが、ビルの間から富士山が見え、雲ひとつない青空が拡がっていた。
少年野球やサッカーグラウンドからの声援も、犬を連れたひとたち同志の会話も、
黙々とジョギングする人やお飾りを抱えて「どんど焼き」会場へ向かう人達の姿も、
なにもかも心地よく感じられた。

        水たまりに張った氷

子ども連れでないため、凧やお菓子、繭玉代わりのマシュマロはもらえず、かわりに、
お清めを紙コップに少しと、ほかにも焼きそばと小さなお餅2個入のおしるこを頂戴した。

消防団のチームワークも見事で、着火の前に多摩川の水を使って放水テスト。 
うちの町会には消防団があったかなと思っているうちに、5人の年男・年女が
その場で集められて、いよいよ、着火となった。

  組まれた櫓      着火の瞬間
    9:50 積み上げられていく        10:08 年男・年女5人による着火
    川を渡る新幹線が見える (さらに上流には 東急線の鉄橋、丸子橋、二子橋・・・)  

燃え上がる  無病息災を祈る
  10:10  煙は川下へ            10:20  お飾りは次々と運ばれてくる     

 土手の上から 
   10:30  土手の上からの眺め  左後方に富士山 右手前にどんど焼き会場

どんど焼きの炎や煙には災厄を祓い清める力があるそうだが、煙だけでならともかく、
どうやら、灰やほこりが目に入ってしまったし、帰宅後、着替えをしたにもかかわらず、
まるで、香を焚き染めたかのように、煙の匂いが身体に染み付いていたりと、
思わぬオマケがついてしまった。
これで、「無病息災」の1年が約束されるなら、ほんとうに「言うことなし」なのだが・・・。
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年賀状を眺めつつ

2009年01月11日
毎年、松の内を過ぎた頃に、住所録の整理を始めて、「欠礼」葉書をいただいた方には、
なるべく、「寒中お見舞い」の葉書を出すようにしている。 
このところ、私の年賀状は「干支」の絵ではなく、冬の景色のスケッチが多いので、
「迎春」の文字を「寒中お見舞い申し上げます」と入替えるだけということが多い。

私は毎年、「迎春」の祝詞を好んで使っているが、母は「頌春」、娘も「頌春」が好きだ。
ごんさんの父は「あけましておめでとう」で、最近は、私が父の年賀状をつくっているが、
父自身が毛筆で書いた祝詞と住所を、パソコンに取り込んで、毎年、使用している。
父の字は何ともいえない味があり、私は大好きだ。

ふと、何種類くらいの祝詞があるのかと、自分の年賀状を数えてみることを思いついた。
「あけましておめでとうございます」(新年・・・/明けまして・・・)が最も多く、20枚を越える。
次に多い「謹賀新年」と「迎春」は10数枚。 
「賀春」、「賀正」、「Happy New Year!」は10枚以下。 
「謹んで新年のお慶びを申しあげます」、「謹んで新春の・・・」と少しずつ違う祝詞のものや、
「初春」、「慶春」、文だけのもの、日展などの展覧会出品作を印刷したのも数枚ずつあり、
「頌春」は意外に少なく、「恭賀新年」、「恭頌新禧」などなど、1枚だけのものもある。

ところで、この3月で84歳になるごんさんの父は、数年前から大分目が悪くなって、
それまでつづけてきた版画の年賀状づくりを断念した。 
版画の年賀状だが、我が家では、私のデザインした図柄をごんさんが彫ってつくったが、
私が絵を習い始めてから1枚ずつ手描きした時期もあった。 
何年くらい前からだっただろうか?
自分の絵をパソコンに取り入れて、年賀状を作るようになったのは・・・。
     
        兎年の年賀状
          モデルは昔飼っていたウサギたち

      主にパソコン作成と市販の年賀状 1.5 現在

いただく年賀状も、最近はパソコンや多機能プリンターが普及したことで、
手描きのものや版画は数少なくなった。 
今年、版画の年賀状は3枚、手描きの絵はわずか2枚だった。
(下写真 下半分の中央 「こどもと牛」「ホルスタイン牛」「茶色の牛2頭」が版画)
やはり、自分で描いた絵、撮った写真を材料に、パソコンでつくった年賀状が多い。

        年賀状いろいろ

なお、上の写真を撮った翌日から今日まで10枚以上届いたのだが、その中の1枚、
中国語同学Sさんからの富士山の写真入りの年賀状には、次のように書かれていた。
「80歳を迎え元気に気儘な日々を送っております 誠に勝手ながら 年賀状でのご挨拶は
今年限りとさせていただきます 当方皆 元気で暮らしておりますので ご休心のほどを--」


このSさんのように、ごんさんの父は80歳のときに、お仲間同士で、年賀状は遠慮しようと
申し合わせたというし、母の方も、正月には毎年、姉たちと集まっていたが、それもやめて、
たまに電話で話をする程度だという。 
ちなみに母は84歳、長姉は91歳、その間に、2人の姉がいて、4人ともすこぶる元気。

実は、1年前、私の母が体調を崩し、長い間、教えてきた茶道と俳句の会のを閉鎖を
余儀なくされ、多くの方にご迷惑をおかけしてしまった。  
それに立ち会った私は、亡くなった父は自分の引き際を知っていたのだと、思うようになった。
私も「謹賀新年」が何枚、「迎春が何枚」などと言ってないで、年賀状のことだけでなく、
いくつもある「○○迷」を少しずつ整理していかなければ・・・と気づいたところだ。

「○○迷」は中国語で、「迷う」意味のほか、夢中になる、熱中する、ファン。 
私の主な「迷」は、狛犬(卒業)、中国とくに北京、最近は「マイ ファイルつくり」だろうか・・・。
(お揃いの100円ファイル・項目ごとの分別・色分けしたラベル)ほかのだれの役にも立たない。
つれづれ | Comments(0)

ラスカルの病状

2009年01月10日
ごはんを待つラスカルとターノ 
       ごはんはまだかなあ 

ひと月前から、さいとうさんのところのターノラスカルも加わり、夕食は賑やかになった。 
チャトランにそっくりで、尻尾の短いミニチャトは、ウロウロするだけで近づけないでいる。 
一時はククが彼らを必死で追い払っていたが、彼らも簡単に諦めずに、いつのまにか、
ククの方が諦めてしまったようだ。
わが庭の5匹には、ドライフードと缶詰を混ぜているが、彼らには、ドライフードだけ。
さいとうさんのところに常時用意されているものと変わりないのだが。(「猫しょうかい 親戚」)

暮れも押し詰まったある日、様子のおかしいラスカルらしき猫が庭にうずくまり、
ケシたちはどうすることもできずに、その猫の様子を遠巻きに見ていた。
翌朝、さいとうさんのところでみかけた猫は、舌が口からはみ出し、目つきも変わっていたが、
尻尾で、辛うじてラスカルだとわかった。(「ラスカルの尻尾」)

さいとうさんは、翌早朝、ラスカルの捕獲に成功、出勤前に動物病院へ連れて行ったそうだ。 
毒をもられた疑いもあったが、検査の結果、内臓も異常なし、特に怪我もしてなかったが、
脱水がひどく、入院となったとのこと。
暮れ正月と何度か見舞いに行ったさいとうさんによると、獣医さんにも原因はよくわからないが、
顎がやられているようだということだった。

ラスカルはやっと固形物が食べられるようになり、今日にでも退院できるらしいが、 
結局、2週間以上も入院したことになってしまう。
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秒速50センチ

2009年01月09日
今朝、起床一番、カーテンを開けたら、一箇所だけ、近所の平らな屋根が白くなっていた。
わずかだが、予報通り、雪はたしかに降ったようだ。 
今は、雨に変わり、静かに降り続いている。
 
1秒間に50センチ。 これは、ぼたん雪の舞い降りてくる速度だそうだ。
かなり以前のことだが、確か毎日新聞だったと思うが、さだまさしの連載記事の中に、
「桜の花びらやぼたん雪の舞い降りる速度は決まっている」という一節があり、
それが強く印象に残っていた。
        
ぼたん雪は、気温が比較的高く、湿度も高いときに降りやすく、積もりにくい反面、
着雪の始末が厄介だという。 東京あたりで降る雪はこのぼたん雪なのだろう。
      
       山寺2001.1.3 

それに引き替え、北国の雪はさらさらしており、ふわふわと軽い感じがする。 
上の寺院は、正月に2度訪ねた、雪中の山寺(立石寺)だが、
ここでも雪質の違いを強く感じた。
また、あるとき、山形で市内から山形駅へ向かうためにタクシーを呼んだことがあったが、
タクシーを待つ数分の間、前が見えないほどの雪が降っているのに、さほど寒く感じられず、
雪はさらっとしていて、今までに味わったことのない、不思議な感触だった。
まさにパウダースノー、粉雪だった。 

        宝珠山 立石寺    
 
去年の暮、銀杏の葉が舞い散るのをみながら、桜の花びらや雪が落ちる速さの記事を 
思い出した。 
それを確かめたくて、図書館へ出かけ、さだまさしの随想録「美しき日本の面影」を借りた。
そこには、雪や桜の花びらのことが書かれていた。 

「無風状態でぼたん雪の舞い降りてくる速度が凡そ秒速五十センチだそうである。一方、
これも無風状態でソメイヨシノの花びらが舞い降りてくる速度が凡そ秒速五十センチだという。
そこでもしや、と思い詳しい人に聞いてみたら、案の定、無風状態での蛍の飛行速度が概ね
秒速五十センチらしい。秋の紅葉の落下速度までは調べていないが、どうやらこの国には
秒速五十センチが似合うようだ」

         
この蛍というのは、源氏ボタルのことらしい。
きっと、平家ボタルは源氏ボタルより、速く飛ぶのかもしれない、いや、ひょっとしたら、
より速く飛ぶ蛍を「平家ボタル」と名づけたのかも知れない、などと思ってしまった。  

話は変わるが、以前、テレビでみた「回転寿司」特集で、寿司が載るコンベアの
回転にも決まった速度があるらしいが、関西と関東では、微妙に関西の方が速いそうだ。
コンベアの回転速度がどのくらいだったかと、調べてみると、平均秒速4センチだという。

回転寿司にも長い歴史があり、科学的に考えられた結果で、客が寿司を眼にしてから、
色やツヤを確認して、手に取ることが出来るちょうどよいスピードで、
これ以上、速くても、遅くてもうまくいかないのだとか。
右利きの人に合わせ、時計回りがほとんどだというが、反対回り、両方回りもあるという。

そういえば、りんりんが3歳くらいまでは、何度か回転寿司の店にも行ったが、
このところは、ずいぶんとご無沙汰している。
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獅子舞を見る

2009年01月08日
一昨日、東急線田園調布駅周辺の商店街を「獅子舞」や「恵比寿大黒舞」が、
練り歩くというので、見物に出かけた。
実は、東急線の駅で手にした「沿線のお知らせ」を見て知ったのだが、
急遽、接骨院行きの予定を延期して、1年に1度の獅子舞をみることにしたのだ。

獅子舞の一行は商店街を10時半にスタート、田園調布駅前に12時ごろ到着というので、
私は、駅と反対の方向から歩き出し、11時ごろ、やっと獅子舞の一行に追いついた。
お囃子がきこえてこなければ、まったく、気がつかないほど目立たなかったが、獅子が2匹?、
大黒さんに恵比寿さん、纒持ちが2人だったか、各店舗を一軒ずつ回っていた。 
恐らく、「12時前後に駅前」というお知らせだったからか、この付近の見物人は少なかった。
         
           酒屋さんの前で
            
何でも、1950年ごろまでは、正月にはこういった光景が田園調布でもみられたというが、
舞う人が減り、休止。その後、同好会ができ、3年前の正月から復活したという。

一行が5、6軒ほど回ったところで、先回りして、駅近くのお洒落なコーヒー店に入り、
撮った写真をチェックしたりしていると、りんりんたちが、田園調布に着いた。 
まだ、一行の姿もみえず、お囃子も聞こえなかったので、先に食事をと、三崎寿司に入った。
暮れから3日まで札幌にいたりんりんは、魚貝類には飽きていると思いきや、凄い食欲。
1人前のサビ抜きのニギリのほかに、イクラ2貫を平らげた。
ともあれ、食事を済ませ、外に出てまもなく、獅子舞がやってきた。 

        咬まれると運がつくとか

はじめてみるお獅子に興味津々のりんりん
付かず離れず、1軒、2軒と一行を追いかけて、はしゃぎ回っていた。
舞うとき以外は獅子頭を手に持っているお兄さんに、「咬んでもらうとお利口になるよ」と
言われて、獅子の口に手を入れたりんりんの感想は、「触っただけだったよ」だった。 
よほど、痛いことを覚悟したのだろう。 

           お利口になるよといわれて・・・

その後、本人からきいたところによると、「とても楽しかった」けれども、
お獅子に咬まれても「ちっとも痛くなかったから、お利口になれなかった・・・」そうだ。
身近な人びと | Comments(0)

中国のお粥

2009年01月07日
1月7日の朝に七種(七草)が入ったお粥を食べる風習がある。
最近はスーパーでも篭にセットされた七草が売られているので、手に入れやすくなった。 
セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ、5・7・5・7 と語呂がよい。
前の晩、囃歌を歌いながら、俎上の七種を包丁で叩き、翌朝、お粥に入れるのだそうだ。
こういった光景は、果たして、どのくらいの家庭でみられるのだろう?

お粥で思い出すのは、奈良の「茶粥」と、中国常州の学生食堂の「粥」だろうか。
奈良スケッチ旅行のときにいただいた「茶粥」は、薬膳と思えば美味しかったかな。
中国のお粥は、北方と南方とでは、名前も作り方も違っているようだ。 
たしか、生の米などの穀類を炊いたものを「粥」といい、炊いたご飯から作るのを、
北方では「稀飯」、南方では「泡飯」といい、南方ではスープなどで炊く「粥」が多いようだ。 

常州に暮れの1週間、短期留学したことはすでに書いたが、 (「除夜の鐘」)
大学の構内にいくつもある学生食堂では、代金をプリペイド カードで支払う仕組みだった。 
パン、ヨーグルト、牛乳など洋食もあったが、何といっても、お粥が美味しかった。 
お粥と油条(ヨウティアオ)という揚げパンを選ぶ学生がほとんどで、お粥の入った大きな器に、
油条を浸して粥と一緒にかきこんでいた。 
私は、油条を入れたお粥は苦手だったので、別々に食べることにしていた。

ホテルの朝食でも、白い粥や、スープ炊きの粥など何種類かあるし、トッピングにもザーサイ、
ピータンなど、これも何種類もあって、梅干などとさっぱりといただく日本の粥とは違う。

     学生食堂
       常州の学食の一つ、2階は昼から 
       街のレストラン並みの食事ができる

最近、「バーミヤン」で「お粥のモーニングセット」があることを知って、何度か注文したが、
お粥はスープ炊きで、あの「油条」がついてくるのだ。 常州の学生食堂を懐かしみ、
半分はそのまま、残り半分はお粥につけて食べてみたこともあった。

                   宿舎の部屋

私の部屋は、大学で教鞭をとる外国人教師の部屋として改装されたばかりだったので、
中の設備、調度はホテル並みだったが、残念なことに、上の階が学生数人の部屋らしく、
夜遅くまで物音がして、足音が響いてきた。

奥に見える部屋で、梁老師が私たち2人の留学生のために、中国語を教えて下さった。
彼女はハルピン生れ、日本に留学経験があり、ここの大学図書館にお勤めとのこと。
この部屋での勉強だけでなく、日本語を学ぶ学生と交流したり、一緒にランチをしたり、
郵便局へ行ったりと、実際に生活しながら学習ができたことは大きな収穫だったと思う。

また、いつか、短期留学をしてみたいと思っているが、それはまた、夢のまた夢。 
どうせ夢ならば、今度は、北京に1年間じっくりと、を叶えてほしい。 
暖かいアモイに行き、休みに北京に絵を描きにいく?それも又、よさそうだ。

父が逝ってから、早いもので今日で2年になる。久しぶりに、父の本を手に取ってみた。 
前半は、学校時代の自分史。 後半は、昭和17年の入営から20年までの短歌200余首だ。
戦時体験を書き残しておきたいと、古稀を過ぎてから、中学以来だという短歌に挑戦した。
序に、「今年もまた、八月十五日が来る。・・・戦場に叙情なし。あるはただ非情のみ。
この拙い一編を、戦死・戦病死した部下と同僚に捧げる。願うは、ただ平安のみ。」とある。

中国へ行く機会があるならば、まず、父が赴いた戦地、広東省の雷州半島や九龍半島を、
この本とともに訪ねることが先だろうと思ったりもする。
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数枚のスナップ写真から

2009年01月06日
<歳末の駅>
  30日午前 都内    31日午前 都内
     30日昼 緑の窓口 10分並ぶ              31日朝 駅係員も手持無沙汰

<元日の駅>
元日 朝  元日 昼
    日祝日は休業 都内の駅                   新潟駅 

            元日午後 とき自由席
            元日の昼  新潟発 MAXとき 自由席

元日の昼過ぎ、新潟から「MAXとき」に乗り、越後湯沢で「MAXたにがわ」に乗り換えた。
越後湯沢で「MAXとき」に乗って東京へ向かった人はかなりいたが、降りたのは私だけ。
この駅から1駅先の上毛高原駅で降りたが、
やはりここでも乗った人は何人かいたが、降りたのは1人。
ホームを見回しても、改札口で振り返っても、私以外に誰もいなかった。

元日 展望台 迦葉山への道
   初日の出 69階の展望フロアから      初詣のため 迦葉山へ・・・
     人・人・人・・・                 車・車・車・・・(この先渋滞)
     神奈川県横浜市               群馬県沼田市
                       
右上の写真、カーブを曲がると、車の列がみえた。すかさず、バックして渋滞を免れた。
どちらも、例年に比べて人の出が多いのか少ないのか分らないが、
どこへ行っても、あまり、お正月だという気分にはならなかった。

都会では、参道脇の店以外にも、元日から開くコンビニやスーパーが年々増えて、
ファーストフード店、ファミレスなども開いているところが多く、また、映画も見られるし、
水族館だって遊べるし、・・・普段の休みとどこが違うのだろう。

水族館で思い出したが、2年前、入院中の父を見舞った後、母と品川のホテルに1泊した。
大晦日には、映画をみて、元旦は、レストランから(ビルの谷間からの)初日の出を拝み、
おせち料理のバイキング、そして、水族館、ホテル内で獅子舞をみて・・・。
少し前までの母のお正月が、訪問客の接待に追われる日々だったことを考えると、
それまでで、もっとも愉しい楽なお正月だったに違いない。 
ちなみに、何本かの中から選んだ映画は、何とも重たい、「硫黄島からの手紙」だった。 
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正月の猫たち

2009年01月05日
今日は24節気の「小寒」。 
猫たちには暮れも正月もあるはずもなく、いつもと変わらぬ生活を送っているが、
たまには、狩りをしたり、梯子から2階のベランダまで上って来たりもする。

       2階のベランダから 年賀のごあいさつ  
       クマと硝子越しの対面

        あいさつも済んで 庭へもどる
      見ている方が怖い
          
        よいしょっ 
       デッキの手すりで  爪を磨ぐ  

ある朝、2階からみると、チャトランケシの姿があった。 
鳩を捕まえたらしいが、鳩の姿はどこにも見えない。逃げられたのか、
それとも、自分の狩りの腕前に満足したので、あえて逃がしたのか?
          満足そうな背中

去年、痛めたチャトランの前脚はすっかり良くなったようで、
狩りの成功は9月に続いて2回目だ。 まだまだ、彼の腕は鈍っていない。 
チャトランは、この庭を守ってきたオス猫としての務めを
ケシにバトンタッチしたはずだが、まだまだ、教えることもあるようだ。

すぐ横には、トラと、おとなりのターノの見物する姿があった。 
この庭は、猫の学校でもある。 最近は、おとなりの猫たちも来るようになった。            
               
                     お腹すいたよ    
   ガラス戸越しの要求 ケシが代表
                        みんなで揃って直接交渉!       
           勢揃い
                   
すっかり大きくなった4匹。 硝子戸は開いているが、さすがに遠慮して入って来ない。
左から ククとケシ 2007年11月生れ。 トラとアミ 2008年5月生れ。
ケシだけがオス、少々、太り気味。
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冬、北京に寄り道

2009年01月04日
6年前、中国語学習会のSさんと、江蘇省常州の大学に1週間の短期留学をした。
はじめて中国の旅をした時に通訳兼ガイドをしてくれた張さんに強く勧められたからだ。

クリスマスイブに上海の空港に着き、大学からの迎えの車で常州へ向かった。 
遅い「歓迎夕食会」の後、宿舎へ入った。 その夜から1週間、留学生生活を送った。
最終日31日、街は静か。つけていたTVがいつの間にか朱首相の新年の挨拶になっていた。

さて、1月1日、張さんに常州の空港まで送ってもらった。 
中国語学習会でお世話になった李さんが、北京で仕事をしておられたので、
李さんにホテルを紹介してもらい、北京空港の送迎もお願いしていたのだが、
その彼が、数日前に交通事故に遭って、迎えに行けないのだと、常州で連絡をもらった。
旅にハプニングはつきものではあるが・・・。

この短い旅はまさしく、ハプニングだらけだった。 
1日の夜、北京空港着。 雪が凍り始めて滑りそうな道をトランクを引っ張りながら、
タクシーの誘いを振り切ってバスに乗り、やっとのことでホテルに辿り着いたのだが・・・。
チェックインのときにトラブル。 3日の朝、「空港行バス乗場まで」と乗ったハイヤーに、
空港まで連れて行かれそうになった時の恐怖・・・。この時は、中国語もスラスラ出てきた。 
このような破れかぶれでスリリングな旅は、後にも先にもない。 
 
話は戻るが、2日の朝、ホテル前から地下鉄に乗り、鼓楼前で下りた。
鐘楼に上って、眼下にみえる雪を冠った四合院の屋根をスケッチした。(「除夜の鐘」)     
 
         必携 「北京実用地図冊」
             青ラインは 鐘楼から辿った道

その後、遠回りして、胡同といわれる路地を通り、景山公園、老舎故居などにも行ったが、
后海がスケート場になっていて、「冬になると后海でアイススケートを愉しむ」と、
教科書で読んだ通りだったので、何だか嬉しくなったことを覚えている。 
夜、有名な書店で、偶然みつけた日本の岩本公夫氏が北京で出版した本を買って、
賑やかな王府井大街の電光掲示板に見たのは、「零下10度」の文字だった。  

ホテルに戻ったのは9時。 朝からほぼ12時間、北京の街を歩き回っていたことになる。
そのために、クロッキーに近いスケッチが4枚しかできなかったが、
これほど、充実した日は珍しい。
 
           豊富胡同 老舎故居近くclick! 2003.1.2
           門の上の紙には「恭賀新禧」
 
老舎の故居を訪ねた後、すぐ近くでスケッチしていると、いろいろ話しかけられた。
黙っていると、私は北京人に見えるらしい。
40年ぶりの大雪が降ったという北京。 「雪が降ったのはいつですか?」「4、5日前かな」
「この門の中には何戸あって、何人が住んでいますか?」「6戸、21人住んでいる」
こんな会話を愉しんだ?のだが・・・。
昔は中庭をはさんで、両親、長男一家、次男一家など親戚が暮らしていた四合院も、
最近は、雑院と呼ばれるように、中庭をつぶして増築を重ねて、沢山の人たちが
住んでいるところが多い。 

             「北京の冬」50号 click!

この旅から1年後の夏、苦手なクーラーをつけ、冬の寒さを想い出しながら、
「北京の冬」を描いた。
鐘楼付近の胡同を歩いていて、あっちでもこっちでも「拆」 「拆」(タク/チャク)と
解体を意味する漢字が壁に書かれていた光景が今でも眼に浮かぶ。 
私が描いたた鼓楼や鐘楼付近は、北京オリンピック開催のために整備され、
恐らく、ほとんどの四合院が跡形もなく消えてしまったことだろう。 
「老北京」といわれる、古きよき北京をこの眼で見ることができて幸せだった。 
つくづく、描いておいてよかったと思う。       
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今年の旅はじめ Ⅱ 初詣

2009年01月03日
元日の旅の後半は、上毛高原駅に迎えに来てくれた呉さん一家と過ごした。
今年は去年に比べて、雪は少ないそうだ。 

東京でも滅多にお目にかかれない素敵な珈琲店で、彼らは食事、私はコーヒー。
そして、天狗で有名な「迦葉(かしょう)山」へ行こうと山道を上り始めたが、
先の方で渋滞しているのを見ると、彼はすかさず、バック。 
上ってくる車とすれ違いながらの雪の山道でのバックは助手席でみていても恐かったが、
彼の即断のお陰で、渋滞に巻き込まれて列車に乗遅れることがなかっただけでなく、
禅宗の「吉祥寺」という素晴らしい古刹に初詣をすることができた。

           楼門

楼門などの傍に篝火を焚いた跡があったが、元日の夕方だったからなのだろうか、
入場券売場は閉じられ(実は立入り禁止、ゴメンナサイ)、境内には人っ子一人いなかった。 
禅宗の古刹(臨済宗建長寺派)というだけあって、釈迦堂や鐘楼も落ち着いた風情がある。   
静かな境内を歩いていくと、まるで深山の奥に入っていくようで、心まで洗われる心地だった。 
雪が舞い始めた。        
           鐘楼

        石仏     姫小松脇の石仏

水芭蕉の里としても知らていて、とても魅力のあるお寺だ。
林さんとU君が車で待っているので、早々に引上げたが、また、機会をつくって行きたい。

途中、沼田公園や「なめこセンター」に寄って、特産品のなめこや蒟蒻をお土産に買った。 
少し、時間に余裕があったので、呉さんのお宅にお邪魔して、U君のお相手をしたり、
美味しい烏龍茶をご馳走になった。
ちなみに、この辺りは赤城山、吹割の滝、玉原高原、老神温泉などにも近く、
農産物のほかハーブ、果樹栽培も盛んで、ゆっくりと行ってみたくなるところだ。
   
          足跡私の足跡 
            
呉さんは、農業関係の事務所に車で通勤しているとのこと。 
林さんも、最近、免許をとって、軽自動車でU君を保育園に送り迎えをしているという。 
彼女はほとんど日本語がわからないときに来日したのだが、今はすっかり、
こちらの生活にも慣れた様子だった。                   (「呉さんのこと」)

彼らが春節頃にアモイで挙げた結婚式には、新潟で会ったKさんと2人で出席したが、
あれからもう、2年が経ったことになる。
家族3人での初帰省(U君にとっては初めての故国訪問)は1月20日の予定。
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今年の旅はじめ Ⅰ 景色

2009年01月03日
<車内で>
          旅の始まり

トンネルが多いだろうから景色は楽しめないかなと、寅彦のエッセイ集を持って行ったが、
電光ニュースを見たり、トンネル以外は写真を撮ったり、「トランヴェール」を読んだり、
クロッキーしたりしていたら、いつの間にか新潟に着いてしまった。

          車内クロッキーclick!

メモ帳代わりに持参した小さいバインダーに、熊谷付近までみえていた富士山と
高崎付近でみえた榛名山をクロッキー。 
あとは、隣で眠り込んでいるお嬢さんの耳と指を。 ピアスを3種、流行のネイルアートを
施したカラフルな爪を間近に見て、少々、戸惑いながら描いた。
 
左上の2枚は、桜木町から東京までのガラ空きの京浜東北線の車内で描いたもの。
きっと大晦日まで、忙しく働いていたのだろう。ブーツの女性はヨドバシカメラの紙袋を
大事そうに抱えたまま、ぐっすりと夢の国だった。
この時勢を反映してか、元旦だというのに、車内には暗い顔をした人が多く見受けられた。

      ekibenn.jpg
      新潟ー越後湯沢 MAXときの車内で 
      村上 「牛肉しぐれ」¥1,100 
              
                 正月パス

09-01-01 8:08 東京入場 09-01-01 10:42 新潟出場 09-01-01 12:02 新潟入場
赤い印字がされた正月パス「東日本旅客鉄道会社線全線および中小国~函館間」

<車窓から>
         熊谷付近   高崎付近
          富士山  熊谷付近       榛名富士  高崎付近

越後湯沢   浦佐付近 yugaderu.jpg
   越後湯沢             浦佐付近          浦佐付近のスプリンクラー 

          燕三条付近    新潟付近
             燕三条付近           新潟付近

浦佐駅付近で、線路沿いに設置されたスプリンクラーから水が噴き出していた。
今までに、冬の福井県の三方五湖の旅だったか、車で走っているときに
道路から噴き出すのを見て驚いたが、新幹線にもこうした対策が採られているとは・・・。

調べてみると、
上越新幹線は「群馬県から新潟県にかけての区間は三国山脈を通過するため、
大部分がトンネルで、また、スプリンクラーによる融雪設備を備えたり、新潟県の新幹線駅に
屋根を設置するなど雪害対策が入念に施されている。 平野部(関東平野、越後平野)では、
大部分が高架上を走る」
ために、滅多なことでは雪による遅れは発生しないという。
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