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夢の不思議

2018年02月28日
朝、ケータイの「グリーンスリーブス」で目が覚めた。背中の「この辺りが痛い」
と医者に言ったところでその夢は途切れた。この頃、そういえば背中の右側が
痛いので枕元に置いてあるテニスボールを背中に当てて眠ることが多かった。
自慢ではないが、今まで数多くの病院を受診してきたため、出会った医者も
数えきれないほどだが、夢の中の医者も病院もまったく記憶にない・・・。

最近の夢にKさんが登場した。先月、郷土博物館でお会いしたときのコート姿で
突然、わが家にみえた。といっても30年も前になくなった旧宅、それも離れに。
部屋に案内しようとするが、どの部屋も足の踏み場もない。目が覚めるときに
居たのは今のわが家のリビングで、テーブルの上は呆れるほど散らかっていた。
わが夢は、時間と場所を飛び越えて、今の精神状態を表しているかもしれない。

     母屋と離れ
                 池を挟んで離れと母屋   ~1990年

ひと晩に3つから5つの夢を見ているといわれるが、現実に起こったことでない
ことから記憶するのは難しく、朝起きた時には忘れてしまっていることが多い。
数人で旅先にいたはずが、場所はいつのまにか旧宅の縁側、茶の間や座敷、
または庭に移っている。そこにいるはずの父母も出てこないということは、旅から
戻ったといった旅の夢ではないらしい。

      座敷
                    旧宅の座敷          

何のラジオだったか、リスナーから当日のテーマの「睡眠」に寄せられたメールに
「禁煙外来で処方された薬を飲むと悪夢をみる」というのがあった。注意書には
副作用として「悪夢」も書かれていたとか。しばらくして別のリスナーから「花粉症の
薬でも悪夢をみますよ」というメールが入った。胃腸障害、頭痛、めまい、眠気など、
どんな薬にも副作用はあるが、悪夢とは驚いた。高熱を出すといつも同じような
嫌な夢をみるという人もいるようだ。

悪夢ってどんな夢をいうのだろう。お化けに追いかけられたり、崖っぷちに立つ?
といった恐怖の夢はあまり記憶にない。残念ながら素敵な人は現れることもなく、
自分ひとりが焦っている、困っている、迷っている・・・といった夢がほとんどだ。

         小学校

繰り返し見る夢の中でもっとも多いのは学校、それも昇降口、階段、廊下などで
ひとり焦っている夢だ。パジャマ姿で教室にいる、という夢は減ったが、遅刻して
教室になかなか辿り着けずに焦っている夢はいまだによく見る。(今朝見た夢)

速足で階段を上り廊下を行くが、教室はどこだろう、2階にいたのにいつの間にか
1階にいたり、よく見るとどの教室も空っぽ、訊ねる人どころかすれ違う人もいない。
気がつくと昇降口、フリダシに戻っている・・・、学校は休みなのだろうか?みんな
どこへ行ったのだろうか?ひとり取り残されて途方に暮れるところで目が覚める。
こういった夢はいまだに終活できずにいるわが人生のようにも思える。

「夢は人が記憶を整理しているときに見るもの」といわれるが、支離滅裂のまま
夢が終わるということは、わが頭の中はいつまでも未整理状態ということになる。
整理すべきものが多く、すでに許容量を超えているため、学校で焦っている夢を
見つづけるのかもしれない。
身近な人びと

ペリー提督もみた「たまくす」の木

2018年02月27日
Mさんに誘われて「横浜三塔巡り」をした折に、横浜開港資料館に立ち寄った。
この資料館は、1981年、横浜開港百年を記念して編纂された『横浜市史』の
収集資料を基礎に「日米和親条約が締結」された地に開館した。

1931年に英国領事館として建てられた旧館(横浜市指定文化財)は、近代化
産業遺産に指定されている。幕末から昭和初期にかけての横浜の歴史や文化に
関する資料を25万点以上揃え、横浜の歴史を知ることができる資料館。

まず目に入ったのは、新館(展示室・閲覧室・講堂)と旧館の中庭に聳え立つ樹。
「ハマの歴史の生き証人」といわれるこの樹は、江戸時代、横浜が小さな農漁村
だったころからこの地にあったタブノキ。通称「玉楠」。
   
         ペリー ↖たまくす
               「ペリー提督横濱上陸」      

横浜開港資料館のサイトによると、1854(嘉永7)年のペリー来航時に艦隊に
随行してきた画家ハイネの「横浜上陸」「水神の祠」などに描かれた樹がそれに
あたると考えられている。さらに1859(安政6)年、横浜は開港場となった。
浮世絵にも登場したこの樹は外国人居留地と日本人市街とをわける位置にある。

      3569no4.jpg
       開港資料館    中庭に残る明治の「獅子頭共用栓とブラフ溝」

関内地区に大きな被害をもたらした1866(慶応2)年の大火によってその樹形が
変わるほど焼失したが、でやがて新たな芽をふき、明治・大正期を通じて横浜を
代表する名木に成長した。「開港の当時ペルリ提督初めて上陸せしハ此玉楠の
下なり、今は英国領事館構内にあり、横浜市の記念名木として市の保存に係る、
数百年を経たる大樹なり」
と資料に記録されている。
  
     たまくす
      横浜市地域史跡 玉楠(日米和親条約締結の地に残るタブノキ)
      
1923(大正12)年の関東大震災で、「たまくす」は領事館もろとも焼けたが、
並外れた暖かさに根元から小さな双葉が萌え出したという。再生した若樹は、
1930年、領事館再建のため、海寄り約10m先の現在地に移植された。

2度の大きな被害をくぐり抜けた樹は、1981年、「日米和親条約締結」の地に
開館した横浜開港資料館を象徴する有形文化財として、今なお豊かな葉を
繁らせている。初代「玉楠」の黒こげの廃材で作られた「ペルリの黒船」を象る
壁掛けが資料館2階の展示室通路から2代目の成長を見守っていた。
植物など

「咸臨丸」の日

2018年02月26日
今日は「咸臨丸の日」。万延元年(1860)、江戸幕府がオランダに作らせた
日本初の本格的な洋式軍艦である「咸臨丸」が、初めて太平洋を横断して
サンフランシスコに到着した日。「咸臨丸出航記念日」は1月13日。

  模型
                  咸臨丸模型    

幕府は嘉永6年(1853)のペリー艦隊来航をきっかけに、大船建造禁止令を
解いて洋式軍艦の建造を始めた。海外に新造艦を発注、欧米の中古艦を
買い入れ海軍力の増強をはかる政策に転じた。

幕府が最初にオランダに発注した木造コルベット2隻の第1艦が「咸臨丸」。
スクリュープロペラ推進の蒸気エンジンを装備、バーク型の帆装も備えていた。
汽走と帆走を併用できる3本マストの木造蒸気船。
安政4年(1857)、完成した咸臨丸はオランダのロッテルダムを出港、長崎に
回航され、海軍伝習所の練習艦となった。

日米修好通商条約批准書交換のため外国奉行の新見正興らが、米艦の
ポータン号で渡米する際、日本の軍艦咸臨丸で使節を護衛し、また使節に
事故があった場合には軍艦奉行が代理をつとめることになっていた。
艦長は勝海舟、提督は軍艦奉行木村喜毅、福澤諭吉やジョン万次郎らも
乗船していた。「咸臨」とは、「君臣が互いに親しみ合うこと」。

        咸臨丸難航図
            「咸臨丸難航図」 鈴藤勇次郎原画  
     
この航海では往航で冬の北太平洋を走ったため難しい操船を余儀なくされた。
38日間の航海の内、34日間は荒天だったようだ。蒸気機関を装備していたが、
石炭はわずか3日分。太平洋航海経験豊富なジョン万次郎を除いて勝海舟以下
日本人乗組員は暴風雨と荒れ狂う太平洋を航行する技量はまったくなかったとか。

海舟は出港の翌日から第9日までの8日間、船酔いで艦長室に閉じ籠もって
デッキに出てこなかった。技術アドバイザーの米国人のブルック大尉が操艦を
指揮し米国人水兵10人を中心に航行させたという。 (海舟のヒューマニズム
海舟の眼差し 氷川神社と海舟 海舟と龍馬の師弟像)

『勝海舟 航海日誌』には、その航海の様子が書かれている。 
我、10日前より風邪腹痛ありしが、出帆前、多事なりを以て、病を養うの暇なく、
勉強して今日に到りしに、この風涛に当りて発熱苦悩甚し。
亜船主これを見て、我、ここにあり、病に激して宜しからず、必ず一睡して可ならんと、
せわし立って置かず、其親切なりしかば、臥床申に入りしに、忽ち悪熱肉皮間に
発し上発せず、胸間閉塞甚しく、支体心の如くならず、嘔吐せんと成すも能わず。
  
1860年2月11日 *亜船主はブルック大尉のこと

    海舟の日誌
             勝海舟の後悔日誌「掌記二」 

一行は造船所などを視察後、再び太平洋を横断、5月5日、浦賀に無事帰着。
勝海舟らがサンフランシスコで目にした光景や先進文明などが、坂本龍馬など
海援隊士に伝えられ、その後の彼らの原動力となったといわれる。

その後の咸臨丸は小笠原諸島の開拓に派遣などに使われ、建造から10年余で
蒸気機関を取り外し純帆船の輸送船となっていたが、明治4年(1871)北海道沖で
座礁沈没し、14年の短い生涯を閉じた。  

(画像はすべて横浜開港資料館蔵の『咸臨丸 太平洋を渡る』より)
旅・散策・イベント

リュックにしたら・・・

2018年02月25日
今日は「ひざ関節の日」。2=ニー(Knee:ひざ)、25=「にっこり」の語呂合わせ。
自立した生活には健康な歩みを支える「ひざ関節」を元気にすることが不可欠と、
キューサイが登録した。
30~60代の男女824名に調査したところ「膝などの関節に不調を感じたことが
ある」人は約4割に及び、40代までに不調を感じている人が、約7割になったという。

         駅
               膝への負担       目黒駅ホーム

膝も腰も決してよくないが、左膝が階段を降りるときに痛む程度ですんでいるため、
なるべく歩くようにしている。ここ数年、あまり無理をしないせいか、腰痛も落ち着き、
リュックを背負えるようになって有難い。ショルダー兼リュックのバッグが草臥れた
ときにリュックにシフトした。よく使うリュックは外ポケットが少なく、使い勝手が悪い。

     リュック
                   重たそう・・・
   
駅ビルの書店に行くときなど、カバン店の前を通るときに何となくリュックを
探すようになった。先日、「50%オフ」の文字につられリュックを見ていたところ
外ポケットがあり、軽い素材、「正しい姿勢をサポート」のリュックが目に入った。
50%オフの対象外だったが、A4が入る縦型収納というのも気に入った。

レジでは「これはいいですよ。入ってきたばかりです・・・」と言われてみると、
ACEの「B-FORM」(開発協力:千葉工業大学工学部デザイン科学科松崎元博士)のリュック。
「荷物の重量が、背面のS字カーブによって背中に働きかけ、理想の姿勢作りを
サポート」「ショルダーパッドが、肩が自然と外に開くため胸を圧迫しない」とか。

    リュック
                 腰のラインにフィット
                  
帰宅後、背負ってみて良さを実感。いろいろ詰めたリュックを提げると重たいが、
背負うと実に軽い。りんりんも気に入ったので、高校入学祝にと約束した。
早速、翌日からこのリュックで出かけた。この日の歩数は5000歩程度だったが、
帰り道にいつも感じる腰や膝の痛みはほとんどなかったことに驚いた。

それにしても小学生のランドセルは重たそうだ。ラジオできいたが、月曜日は
7㎏になることもあるとか。これにサブバッグなどを持つことになると・・・。
小学生たちに、このリュックをススメてあげたいと思ってしまう。
つれづれ

春節の浅草

2018年02月24日
中国の旧正月に当たる春節(今年は2月15日~21日)の大型連休を利用して、
多くの中国人観光客が日本を訪れているという。3年ほど前までは「大都市」での
「爆買い」が定番だったが、行き先は地方へ、目的は「体験」へとシフト。

先日久しぶりに浅草へ出かけた。春節だということもあるだろうが、仲見世を
歩くときこえてくるのは中国語がほとんど。日本語はあまり聞こえてこない。
もっとも日本人は大声で話さないこともあるが。
浅草観光を楽しむ和服姿の女性たちの多いことに驚く。男性の袴姿もチラホラ。
着物一式のレンタル、着付けもするといった店も増えたようだ。

            仲見世
      浅草寺

      境内      
       着物姿
        レンタル店
       
浅草の外国人観光客は下調べしていたり、スマホ片手の観光が多いようだが、
駅員は道案内する機会はなくならない。東京メトロ浅草駅雷門改札近くに立つ
ぺッパーは4月10日までの試験導入。以前、上野で話題になったパンダが
法被を着ている。物憂げな顔が強烈。        (手話という言語)

      ペッパー 

4歳くらいの男の子がペーパーの手を掴んだり、あちこち触って楽しんでいた。
子どもたちには人気があるようだ。   
頼りなさそうな顔に似合わず日本語、英語、中国語でしっかり案内している。
いかにも中国人らしきファミリーが近づき、「中国語(簡体字)」をタッチした。
ペッパーの案内するのは「雷門」「浅草花やしき」「東武浅草駅」「都営浅草駅」の
4ヶ所なのだが、聴き取れた中国語は6割くらいだろうか、情けない。
旅・散策・イベント

唐草模様の風呂敷

2018年02月23日
今日は「風呂敷の日」。つつみ(2・2・3)の語呂合わせから。
風呂に敷くから「風呂敷」、衣服を脱ぎ着するのに床に敷いたことから転じた。
「室町時代、将軍足利義満が大湯殿を建てた折、近習の大名たちをいっしょに
風呂に入れたところ、大名たちは他人の衣服と紛れないように脱いだ衣服を
家紋入の絹布に包み、風呂から上ってからはこの絹布の上で身繕いをした」

という記録が残る。この頃の風呂とは「蒸気風呂」(サウナ)を指す。

風呂敷は変幻自在。1枚の布が包む物の大きさや形状に拘らない、包装運搬の
ための万能の小道具となる。しかも、軽くて綺麗で、TPOに合わせて利用でき、
環境問題解決の一助にもなると見直されている。 

1反の布を無駄なく裁断し縫い合わせるので、厳密には正方形ではないそうだ。
最近では用途も多様化し、大きい風呂敷をテーブル掛け、タペストリーなどとして
利用する人も増えている。

風呂敷の模様でまず思い浮かべるのは「唐草模様」。その原型はギリシャで、
国花である「アカンサス」の葉がギリシャ建築のモチーフになっているのだと、
今は亡きF先生に伺った。以来、アカンサスを見ると、先生を懐かしく想い出す。

    アカンサス 2010.6           
                 アカンサス    横浜山手

アカンサス(葉薊)は、広義にはキツネノマゴ科ハアザミ属の植物の総称。
薊に似た形の葉は古代ギリシア以来、建築や内装などの装飾のモチーフとされ、
コリント式オーダーはアカンサスを意匠化した柱頭を特色としている。

日本には中国を経て奈良時代に渡来した。法隆寺金堂の瓦、仏像の台座など、
有職文様に用いられるようになった。唐草という植物はなく、中国渡来の蔓草に
由来する。蔓草の生命力を発展に結び付けて吉祥文様として使用される。

緑地に白の「唐草模様」の風呂敷は大判サイズで、明治30年から40年代に
かけて大量生産されるようになり、どの家庭にも必ず1枚はあったという。
この頃の泥棒は手ぶらで留守宅に上がり込んで、まず大判風呂敷を探して
仕事に取り掛かったのだとか。頬かむりした泥棒が唐草風呂敷の大包みを
背負っているイメージは、戦前から漫画などで多くみられるようになった。

 風呂敷
         泥棒猫?               唐草模様      

わが家にも母が茶道具を包んだ大判の唐草模様の風呂敷がある。以前は、
50号などの大きな画を描いていた頃は重宝したが、派手な模様はテーブル
掛けに使うわけにもいかず、今は押入れに仕舞ったままになっている。
つれづれ

猫の日

2018年02月22日
今日は「猫の日」。「ニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)」という猫の鳴き声の語呂合せ。
ペットフード工業会が全国の愛猫家から公募、「猫の日制定委員会が制定。

犬は尻尾を振ることで「喜び」を表すが、猫は「警戒」するときに尻尾を振るらしい。
猫同士の喧嘩には、雌猫の争奪戦もあるが、現在、近所のノラ猫または外猫は
すべて手術済み。縄張り争いに関しても、そこそこ棲み分けルールができていて、
喧嘩もめったにしないようだ。

     猫壺
                    晴の日も雪の日も       

彼らの日常はいたって平和。寒い日は猫壺風の暖かい部屋でのんびりと過ごす。
昨年、ウーパールーパーは死んだが、金魚はいたって元気。寒さのせいにして
水槽の水替えをだいぶサボった。比較的暖かい日、水替えの前に水槽を窓側に
置いていると、トモが動く赤い金魚に興味津々。その様子がおかしかった。
外にずっと置いていると、猫パンチで犠牲になる金魚がいるかもしれない。

    トモ border=
    トモ
     
猫には個人的な距離、臨界距離、逃走距離、社会的距離、縄張り、生活圏
日常的に行き来する「ホームレンジ」とも呼ばれる猫の生活圏は驚くほど広い。
屋外で暮らす雌猫の平均生活圏は日本のディズニーランド3.5個分、雄猫は
13個分の広さに相当するというが、食料の豊かさによって大きく変わるらしい。

ふだん室内にいる隣家の猫が最近は庭に入ってくるようになった。散歩の途中で
寄り道するというより、テリトリーを広げるという計画なのか、楓落葉でフワフワの
場所をトイレに決めたようだ。彼?の家にも庭はあるのだが・・・。

「シャー!」「グワー!」といった威嚇する声がきこえることもあるが、たいていは
塀のそばでククと至近距離で睨みあっていることが多い。そのとき、ほかの猫は、
といってもケシトモだが、遠くから見守っているだけだが、威嚇になるのだろう。
たいていは侵入者は退散していく。このとき彼らの尻尾がどうなっているか、
今度は注意して見てみようと思う。彼らは無駄な喧嘩、攻撃は好まないらしい。
動物など

『大江戸鳥瞰図』

2018年02月21日
このところ『大江戸鳥瞰図』(立川 博章 画 / 竹内 誠 ・ 西川 武臣 監修)を
まさに鳥の目になったつもりで150年以上も前の江戸を眺めて楽しんでいる。
もとはといえば、この本との出会いは、同じく勝海舟ファンでもあるUさんと
海舟の洗足池畔の別荘に話が及んだことからだったように思う。

勝海舟が西郷隆盛との会談のために池上本門寺に向かうときに通った洗足池を
気に入り、明治42年に洗足池畔に別荘を建てた。 (西郷さんは大の犬好き
「富士を見ながら土に入りたい」という遺言のように富士山の見えるこの地が
気に入っていたそうだ。晩年、洗足軒によく足を運びこの地で過ごしたという。

     洗足軒
       大正3年頃の洗足軒 スケッチ    洗足軒      (大田区HP)

「別荘からきっと海もみえたでしょうね。そのころの地図を見たい」とUさん。
航海術を学んで咸臨丸太平洋横断し、維新後は海軍卿なども歴任した海舟、
洗足池畔から海を眺めていた姿が目に浮かんだ。

翌日、たまたま書店に行った。江戸~明治の古地図を探したが、見つからず、
Amazonで検索して見つけたのがこの『大江戸鳥瞰図』(¥2600 )だが、高い!
まずは、図書館で予約して借りてきた。

「誰も見たことのない、空から見た江戸──江戸時代の東京・神奈川中心部を
29区画+5つの拡大図に分け、すべて手書きで書き起こした前人未踏の鳥瞰図。
著者の入念な時代考証と想像力によって、150年前の江戸の町並みが蘇る!
江戸時代の地名+現代のランドマークで時代変遷の対比ができる!
49cm×74mの大江戸鳥瞰全図・御府内中心部大判絵図付き


2007年から13年にかけて鳥瞰図絵師の立川博章氏により制作されたこの
鳥瞰図の作成法が写真付きで紹介されていた。高度66,000mから眺めた
文久2年(1862)の江戸時代の町並みが描かれている。

もとになったのは「第一軍管区地方2万分の1迅速測図原図」(1880~1886年)
というフランス式彩色地図。もっとも苦労したのは武家屋敷だとか。フランス式
彩色地図の情報をもとに、田・畑・葦・松・杉・竹・雑樹などを描き分けている。
初夏、晴れた日の午後3時の設定だという。

         鳥瞰図

欲しくなってAmazonで購入した。早速、洗足池を探した。海舟は赤坂氷川邸と
洗足池を何度も往復したことだろう。本門寺へはどんな思いで向かったのだろう。
多摩川も海も近い。海には船、多摩川の向こうには富士山が見えたことだろう。
この鳥瞰図を見ているといろいろと想像は膨らむ。 

   鳥瞰図
    洗足池  小池              
   鳥瞰図
    多摩川       池上本門寺

拡大鏡で見てみると、寺院、商家らしきものは池上本門寺周辺に集まっている。
林がところどころにあり、多摩川から引いた六郷用水のおかげで田圃、畑が
広がっていたようだが、農家らしきものはわが家近くにはない。

新政府が東京を首都に選んだ理由は、この絵図をみるとよくわかる。インフラ
整備するには、江戸城を囲むように点在する有力大名の上屋敷、中屋敷ほど
没収しやすいものはなかった。明治以後に建てられた都内の巨大な施設の
多くは当時の有力大名の屋敷だった。加賀前田藩の上屋敷は現在の東京大学、
尾張徳川家上屋敷は陸軍御用地から防衛省へ、信濃高遠藩内藤家下屋敷は
現在は新宿御苑となっている・・・。興味は尽きない。楽しみが増えた。
旅・散策・イベント

戻ってこない図書館の本

2018年02月20日
図書館は比較的よく利用する方だが、先日ラジオをきいていて驚いたのは、
借りた本を返さない人の多さ。図書館では頭を悩ませているという。

足立区の図書館では、2016年~17年に10年以上返却されなかった本に
ついて返還請求権を放棄したという。その数約2万冊。総額約2500万円、
中には2万円以上の本が7冊も。未返却の理由については返し忘れや返した
つもりだったケースが大半で、入院や急な転居で連絡がとれなくなる人もいる。

これまで年4回のはがき、電話やメールなどで督促してきたが、費用や手間が
かかる割に効果が薄い。代わって未返却期間が1年未満の利用者への督促を
強化して、業者に委託して戸別訪問を行ったところ、4割ほどが戻ったというが、
16、17年度の2年間で計210万円かかったという。

これは足立区だけの問題ではなく、図書館共通の悩み。図書館の本は区民
共通の大切な財産。返却期限を守るのは最低限のルールなのだが。 
昨年秋、「あだち広報」読んだ小学生が長期未返却を除籍扱いにしたことに
ついての感想が新聞に投稿したことや、「返却期限を守ろう標語」コンテストの
最優秀賞が「まーだかな?ワクワク待ってる次の人」に決まったということから
約2万冊分の返却を断念したという足立区がクローズアップされたのだという。

貸出総数の未返却分は0.1%、公立図書館では延滞料を課せないために
利用者のモラル頼みになっているのが現状。米国のように延滞料を徴収する
国もあるが、日本の図書館法では「公立図書館は、入館料その他図書館資料の
利用に対するいかなる対価をも徴収してはならない」のだそうだ。

    洗足池図書館
                   洗足池図書館

いくつもある大田区立図書館の中でもっとも好きなのは洗足池図書館。さほど
古くはないこともあるが、洗足池畔にあり、窓からも池や樹々がみえ、図書館から
メタセコイア脇の小路を通って池畔に出ることもできる。

       洗足池

返却期限は2週間、一度に数冊借りてきたりすると、あっという間に期限がくる。
今まで返却が1日遅れたことはたまにあるが、たいていはネットで貸出延長する。
予約者がいない場合だが。さらに、貸出延長をすることもできるが、このときは
図書館のカウンターまで直接持って行くことになる。

昨年末、大田区立図書館HPが新しくなり、資料検索などがカナ、英語、中国語、
ハングルでも可能になった。SuicaやPasmoなどやおサイフケータイ機能搭載の
スマホを2枚目の「共通かしだしカード」として利用できるという。これは便利だ。 
今の貸出カードの更新月が4月なので、この新しいカードも登録しようと思う。
旅・散策・イベント

庭の紅梅

2018年02月19日
今日は24節気の1つ「雨水」。雪から雨に変わり、氷が溶けて水になるという
意味。草木が芽生える頃で、昔から農耕の準備を始める目安とされてきた。
春一番が吹くのもこの頃。本格的な春の訪れにはまだ遠く、大雪が降ったり、
三寒四温を繰り返しながら春に向かっていく。

地域にもよるが、この日に雛人形を飾ると良縁に恵まれるといわれている。
水は命の源とされ、母と考えられていたことから水の神は子宝、安産の神様
として、お雛様を雨水に飾ると良縁に恵まれると言われるようになったらしい。
他には、新緑が芽吹くように 良い縁が芽吹くといった説も。

庭の紅梅は樹齢100年を超えているだろう。30年前の改築の際、石や蹲踞、
石灯籠、樹などが移されたが、藤や枝垂桜、赤松など諦めた樹も多かった。
        
  2.6 2018.2.16
               2.6

数年前、唯一動くことのなかった紅梅に空洞が出来ていることに気が付いた。
植木屋さんにもう寿命と言われてからも花咲き実がなる。今年は咲くのも遅く、
2階で眺める紅梅は満開でも、下の枝には数えられるほど。(さびしくなった庭

             1.181.18
             1.221.22
             1.291.29
             2.22.2
             2.62.6

実梅の場合、収穫量が落ちるのは25年ほどといわれる。庭の紅梅は梅干にも
梅酒にもしないが、父も母もいなくなった今年も実をつけることだろう。  
植物など

楽しいメトロのホーム Ⅱ

2018年02月18日
丸の内線の東京駅ホームの壁画は楽しい。丸の内界隈の風景と丸の内線の
歴史がわかるようになっている。        (楽しいメトロのホーム Ⅰ

      皇居外苑
1962.1  南阿佐ヶ谷~荻窪間(1.5km)開業
1961.2 新宿~新中野間(3.0km)・中野坂上~中野富士見町間(1.9km)
       鳥
1962.3  中野富士見町~方南町間(1.3km)開業
      白鳥
1964.8  銀座総合駅誕生(西銀座駅を銀座駅に改称)
       皇居外苑
1964.9 東高円寺駅開業(新中野~新高円寺間)
      鳥
1972.4  荻窪線(新宿~荻窪間) 「丸の内線」に統一
       樹
1996.5  西新宿駅開業(新宿~中野坂上間)
        皇居外苑
旅・散策・イベント

楽しいメトロのホーム Ⅰ

2018年02月17日
東京メトロの駅ホームの多くは壁画が描かれていることが多い。
丸の内線は池袋駅~荻窪駅の本線と中野坂上~峰南町駅の分線からなる。
東京駅の壁画には丸の内ビル群、二重橋、皇居外苑、和田倉濠などの風景、
鳥、月や太陽などがの画のほかに丸ノ内線の開業年と区間が記され、開業から
今に至る歴史がわかるようになっている。

1954.1  池袋~お茶ノ水間(6.4km)開業
    丸の内ビル群
        鳥
1957.12 東京~西銀座間(1.1km)開業 
    丸の内ビル群
1958.10 西銀座~霞が関間(1.0km)開業
    和田倉濠
    皇居二重橋
1959.3 霞が関~新宿間(5.8㎞)開業
       鳥
1961.11 新中野~南阿佐ヶ谷間(3.1km)開業
       1961
1962.1  南阿佐ヶ谷~荻窪間(1.5km)開業
       ビル
1964.8  銀座総合駅誕生(西銀座駅を銀座駅に改称) 
        1964
1964.9  東高円寺駅開業(新中野~新高円寺間)
旅・散策・イベント

気になる狛犬たち Ⅲ

2018年02月16日
江戸時代初期の狛犬は角と宝珠があるもの、河童のように頭にくぼみがある
シンプルな狛犬が意外に多く残っている。  (気になる狛犬たち Ⅰ 」)

鹿嶋神社   品川区
       鹿嶋神社
                   天明 5年(1785)               

寄木神社 品川区 
寄木(よせぎ)神社の拝殿前には、昭和、江戸、大正生まれの3対の狛犬たちが
並んでいるほか、石段脇には年代不詳の狛犬も残っている。
かつてこの神社の目の前は海で、海苔を採っていた。浦安沖より早く、東京
オリンピックを目前にした昭和37年、高速道路やモノレールが出来て浅瀬は
埋まってしまったそうだ。

昔、神社前に海が広がっていた頃、海苔採りのために暗いうちに海に出た。
狛犬の頭の皿にロウソクを立 て火を灯し、灯台の代わりにして沖にいる船の
目印としたと言われている。             (寄木神社の狛犬
 寄木神社
                   文政11年(1828)
  
 品川神社   品川区      
品川神社には江戸から平成までの6対の狛犬がいる。二の鳥居前には宝珠と
角のある狛犬、御嶽神社前には河童のような狛犬。 (品川神社の狛犬
      品川神社
                    寛政4年(1792) 
  
      品川神社
                    年代不詳   御嶽神社 
           
小石川後楽園  西行堂   文京区
かつての水戸徳川家の江戸屋敷の庭に武士であり僧侶であり、歌人でもあった
西行の木像を安置した「西行堂」があったが、戦火で焼失した。狛犬と歌碑が
往時を偲ばせる。
      西行堂
                    年代不詳
旅・散策・イベント

干支はここにも

2018年02月15日
成人の日、本門寺で恒例の「はしご乗り」があった。 (三間三尺のはしご
此経難持坂(しきょうなんじざか)を上がらずに池上会館のエレベーターで境内へ。
池上の街も寺も初めてのOさん、五重塔の下で珍しそうに蟇股に見入っていた。
はしご乗り、雪灯籠、桜の時季、キャンドルナイト、風鈴、お会式・・・お馴染みの
寺だが、五重塔の蟇股が干支の意匠だとOさんにいわれて初めて気づいた。

       五重塔
         南面   2018.1        西面    2012.4                  

五重塔は、将軍秀忠の病気快方を願い、乳母の岡部局の発願で慶長13年
(1608)に建立された。関東最古の極めて貴重な塔建築。国の重要文化財指定。
特徴としては、初層のみを和様(二重平行垂木・十二支彫刻付蟇股など)とし、
二層以上を唐様(扇垂木・高欄付廻縁)とする点、上層への逓減率が少ない点、
相輪長が短い点、心柱が初層天井の梁上に立つことなどがあげられる。

五重塔は度々修理が行われた。1997年から5年をかけての修理で塔全体は
弁柄塗となり、彫刻なども彩色され、初層内の全体は黒漆塗とするなど輝きを
取り戻した。塔内の一塔両尊像と四菩薩像も金箔仕上げとなった。

     垂木

「蟇股」は、社寺建築などで、頭貫または梁上、桁との間に置かれる山型の部材。
本来は上部構造の重みを支えるもの。後に装飾化して破風などにつけられた。
十二支の絵は塔を上から見たときに右回りに、各面から見ると右から左に。
[北]     -  - 丑      [東]   
     (10月-11月-12月)         (1月-2月-3月)
[南]     未         [西]      
      (4月-5月-6月)           (7月-8月-9月)                         

  子牛
       寅卯
  辰巳
       午未
  申酉
      戌亥

ちなみに寺の北側にある松濤園(現 朗報会館)の庭園は小堀遠州が設計したと
伝えられる回遊式庭園で、慶応4年(1868)3月に西郷隆盛と勝海舟が「江戸城
無血開城」に関する会見をしたとされ、庭に記念碑が建てられている。 
旅・散策・イベント

霜柱の庭

2018年02月14日
1月22日の大雪には驚いたが、その後も寒い日がつづいた。(霜の結晶
1週間経っても北側の屋根や道路にはカチカチになった雪が残っていた。

1.13
        1.13
     1.13

久しぶりにタブレットとマクロレンズを持って庭に出た。霜柱が立っている。                      
霜柱は、地中の水分が毛細管現象によって地表にしみ出して柱状に凍結した
もので、空気中の水蒸気が昇華して凍った霜とは別の現象だという。
霜柱は、固まった土では起りにくく、畑の土などで起こりやすい。関東ロームは
土の粒子が霜柱を起こしやすい大きさであるため、霜柱ができやすいという。
地表と地中の温度差が必要なため、霜より短い期間しか起こらない。冬の季語。

1.27
        1.27
     1.27
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      1.27
       1.27

立春の境内

2018年02月13日
立春の午後、新田神社周辺で「武者パレード」が行われた。昨年の秋から
「甲冑づくり」に参加してつくった甲冑に身をまとった武者たちが1時間半ほど
かけてパレードする。最初の年に訪れたときにくらべ、参加する老若男女は
ずいぶんと増えたように思った。外国人も目立つ。(立春の武者パレード

   欅
     2015.4        樹齢700年のケヤキ         2018.1

この日知り合って意気投合したMさんと新田神社へ向かった。境内では大道芸、
神社前の道や公園では縁日が開かれていた。

      のぞきからくり

「手品」「南京玉すだれ」「覗きからくり」「大道易学六魔」のときは話をしていたが、
「ガマの油売り」が始まったときは観客席でみた。口上の面白さに魅かれた。

        口上
          陣中膏 がまの油   「筑波山ガマ口上保存会」

      ガマ

手に持ったガマがピーピー鳴くのが可笑しかった。昔は本物のガマだったのだろう。
刀で半紙大の和紙を二つ折りにし、「一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、
八枚が十六枚・・・」とよく切れること。刀は真剣なのだろうかと気になり始めた。

         刀で
         
さらに、顔や腕などをガマの油を塗った刀で!目をそらした。傷つかなかったが、
油を拭きとった刀で腕を・・・!血が噴き出した。驚いた。そこで「ガマの油」を塗り
すぐに血が止まった。

パレードを終えて戻った武者たちを見ていると、「あの刀、ホンモノだって!」と
彼女が報告に来た。香具師(やし)本人に訊いてきたらという。
帰宅後、気になっていた「ガマの油売り」の刀について調べた。刀には仕掛けが
してあり、切っ先だけがよく切れるようになっていることがわかってほっとした。

ガマの油は、もともとは江戸時代に傷薬として用いられていた軟膏で、のちに、
筑波山名物として土産物として販売されるようになった。ワセリンなどを成分とする。
ガマの油の由来は大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山の中禅寺住職であった
光誉上人の陣中薬の効果が評判になったというもの。

主成分は不明であるが、「ガマの油売り」の口上の一節からみると、ガマガエルの
耳後腺および皮膚腺から分泌される蟾酥(せんそ)ともみられる。蟾酥は強心作用、
鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるが、光誉上人の顔が蝦蟇に似ていた
ことに由来し、その薬効成分は蝦蟇や蟾酥とは関係がないともいわれている。
主成分については植物のガマの花粉「蒲黄(ほおう)」とする説やムカデを煮詰めた
「蜈蚣(ごしょう)」、馬油とする説もある。

ガマの油売りの口上は今日まで伝承され伝統芸能となっているが、口上は流派や
地方により若干異なる。「筑波山ガマ口上保存会」はつくば市認定地域無形民俗
文化財第1号に認定された(2013年)。
 (Wikipedia)

好奇心旺盛、いろいろなことにチャレンジする彼女、昔からの知り合いではないか
と錯覚するほど。神社を出てからも話をつづけながら歩いた。気づくとわが家の近く。
彼女の家はさらに自転車で10分ほど。なんとも愉快な立春の午後になった。
旅・散策・イベント

立春の武者パレード

2018年02月12日
立春の4日はそれまでの寒い日とはちがって、温もりを感じさせる1日となった。
この日、南北朝の武将新田義興を祀る新田神社周辺で、今年で3回目となる
「武者パレード」が行われた。自ら作った甲冑を身にまとい10代から80代まで
「武者」となり行進する。2年前はUさんと楽しんだ。(武蔵新田の武者行列

新田義貞の子義興(よしおき)が武蔵国の矢口で謀殺された10年後、弟の義岑が
上野国で戦死、新田氏は事実上滅亡した。
義興の祟りを鎮めるために創建された(1358年)新田神社は、江戸時代に入ると、
新田氏は将軍徳川家の祖先であるとされ、武運長久の守り神として栄えた。
歌舞伎『神霊矢口渡』Ⅰ 破魔矢発祥の神社江戸期の道しるべ

新田神社は、初詣や「七福神めぐり」、「古武道演武」のイベント開催時のほか、
ホームドクターと決めたクリニックや図書館の帰りに立ち寄ることも少なくない。
樹齢700年といわれる欅パワーの充電も欠かせない。  (古武道演武

今年の「武者パレード」は行くつもりはなかったが、あまりにいい天気なので、
昼を過ぎになって急に出かける気になった。「頓兵衛地蔵尊」近く、新田神社で
出陣した行列がやって来るのが目に入った。この行列は何?と同年代らしき
女性に声をかけられた。彼女はたまたま自転車で通りかかったという。

   行列
         参拝
                        頓兵衛地蔵尊前

タブレットを構え、彼女に武者行列について、新田神社について知るかぎりの
説明をした。同じくらいの年だろうか、「以前、この辺りに住んでいたけどこんな
イベント知らなかった~!」と彼女。2年前に始まったのだから無理もない。
それにしても武者たちの列は2年前にくらべてずいぶんと長くなったように感じた。
女性も増え、中学生ぐらいの若者や外国人の武者も多くなった。
         
                行列
         行列

武者の一行は地蔵尊にお参り後、Uターンして次の稲荷神社へ行進を開始した。
ぞろぞろと行列についていき、次の神社へ向かった一行と離れて新田神社へ。  
神社前の道や公園内では縁日が開かれ、境内では大道芸などが行われていた。
お茶を飲みながら境内の石に腰かけて話をつづけた。   (立春の境内
旅・散策・イベント

モアイ像@南三陸

2018年02月11日
東日本大震災から6年11ヶ月。宮城県南三陸町の「南三陸さんさん商店街」に
友好都市であるチリから贈られたモアイ像が移設される。昨年、このモアイ像は
海沿いに移設されたが、今年1月、さんさん商店街への移設工事が開始された。
今回は仮置きで、2年後、この商店街の海側に本移設される予定。

モアイはチリ領イースター島にある、島で産出される凝灰岩でできた人面を模した
彫刻。島の海に面したアフと呼ばれる高台に、多くの場合海に背を向け、正確には
かつての住居跡を取り囲むように建てられている。建造中に放置されたものも
含め約900体。うち、約30体は近代以降に復元されたもの。大きさは3.5m、
重量20㌧程度のものが多いが、最大級のものは20m、重量は90㌧に達する。

1960年のチリ地震では、南三陸町を襲った大津波で41人が亡くなるなどの
甚大な被害を蒙った。1991年、チリ地震津波災害30周年の折、同じ被災国
チリとの友好のシンボルとして、チリ本土の黒色輝緑岩(凝灰岩)で造られた
レプリカを輸入した。船で46日かけて運ばれ、志津川湾に面した「チリプラザ」に
設置されていたが、2011年の東日本大震災の大津波で被災し損壊した。

2013年、チリから震災復興のシンボルとして イースター島の像が寄贈され、
当時の仮設の商店街に設置された。チリ政府がイースター島の石で造った像を
外国に寄贈するのは初めて。

      モアイ像
              (南三陸町観光協会サイトより)

この像を制作したのはイースター島でモアイ像のレプリカ造りを長年手掛けてきた
トゥキ一家。地震や津波に耐えるよう硬い玄武岩を4人がかりでノミなどで彫った
高さ約3m、重さ約2㌧のモアイ像で、目の入ったモアイは世界でもイースター島の
博物館と南三陸町の2体のみとか。

イースター島のモアイ像をモデルにした渋谷駅西口などのモヤイ像は、伊豆諸島
新島村名物の石像。軽く、また彫刻刀などで容易に加工できるという性質を持つ
新島産の「抗火石」という珍しい石を材料として作られたオブジェがモヤイ像。
昭和50年代、新島はモヤイ像を盛んに制作して日本各地に寄贈したという。

渋谷駅のモヤイ像は、1980年に新島の東京都移管100年記念に、新島から 
渋谷区へ寄贈されたもの。モアイ像に似ているが、胴体部分はなく、ウェーブの
かかった頭髪を加えたようなデザインで、2種類の顔を持つのも特徴となっている。
忠犬ハチ公像とともに待ち合わせスポットになっている。(姿を消したモヤイ像

      モヤイ像
            蒲田駅                渋谷駅

蒲田駅東口駅前広場のモヤイ像は、元々2体が寄贈されて置かれていたが、
現在は1体、裏表両面の顔。喫煙所に押されてモヤイスペースが手狭になった。
ほか竹芝桟橋や茨城県石岡市の柏原池公園にも置かれている。
旅・散策・イベント

鳥を描くのはむずかしい

2018年02月10日
2階のベランダの手すりに架けた餌台に毎日欠かさずやって来てパンのミミを
食べる常連さんはヒヨドリスズメに決まってきた。ヒヨドリは2羽だと思うが、
(いっしょには来ないので、見分ける自信がない。      (野鳥の訪問
    ヒヨドリ

庭にはムクドリの群れ、オナガの群れ、メジロ、シジュウカラもやってきているが、
ベランダまでは来ない。いつだったか、ムクドリが1羽で食べにきたこともあるが、
いつもはムクドリの集団は餌のすぐ近くにある電線に等間隔に並んでいる。
よく見ていると、数羽が飛び立ったと思うと、どこからか別の数羽が飛んでくる。

     ムクドリ
        ムクドリ

これほど毎日鳥たちを見ているが、スケッチ、いや、クロッキーすら諦めている。
昔、デッサン教室で、カケス、フクロウ、コノハズクなど剥製は描いたことがあるが、
生きた鳥・・・?オリ越しにクロッキーで追いかけた鳥は何だったか思い出せない。
あまり動かないハシビロコウのような鳥ならともかく、鳥を描くのはむずかしい。

『堀越保二展』の作品目録の裏面に日本野鳥の会『野鳥』掲載の「これから絵を
描くあなたへ」という文(1994.11)が載っていた。(野鳥と自然を描いた画家
絵がうまくなる方法をきかれたら、「うまくなっても、ならないでも良いと思います。
絵を描くことを好きになって下さい。そうすれば何枚も何枚も描きつづけられます」

と答えるそうだ。

      図録
                        「野鳥八点」 日本野鳥の会「絵はがき」

「鳥を描いてみよう」では、「素描するときに私は何も考えずに頭の方から順番に
描く方です。・・・大きな固まりで見てください。頭、頸、胴体、足などのバランスを
観察し、描いてください。描いた絵には骨が入っているように見えますか?それが
できた後で、その鳥の特徴を描き込んでいけば、良い観察ノートになる」
そうだ。

「鳥でも植物でも、それ1つで存在しているものはなく、生態系の中に存在している。
正確に描かなくてはいけないというような標本画的な考え方を捨て、身の回りの、
自然も人間も含めて1つだけ取り出すことはできないという気持ちで対象をみる」

ことが大切だという。(「画面は自然界と同じ大きな宇宙」)

「絵を描くということは、その人の持つイメージや感動を定着すること」と堀越氏。
毎日やって来る鳥たちを眺めているだけで、クロッキーすらできそうにない。
絵画・博物館

気になる狛犬たち Ⅱ

2018年02月09日
バレンタインデーも近い。日本橋三越の狛犬らなぬライオンがバラの花を
食わえていた。よく見るとどちらも大きな口を開けているが、やさしい目が
眠たそうにも見える。三越が日本初の百貨店として、ルネッサンス式鉄筋
5階建の新店舗を建設したときに据えられたもので、100歳を超えている。

    ライオン 2.5
                    大正3年

江戸初期の狛犬には、頭に角や宝珠がのったもの、河童のようなくぼみが
あるもの、目が大きく愛嬌があるものが多い。  (気になる狛犬たち Ⅰ

十寄神社   大田区
延文3年(1358)に新田義興と共に矢口渡しで討ち死にした従者12人を祀る。
江戸時代には新田神社に参拝する前に寄る神社とされ大いに栄えたという。

      十寄神社
                      享保3年(1713)

鳩森神社  渋谷区   
       鳩森神社
                      享保20年(1735)

井の頭弁財天   三鷹市           
井の頭公園の池畔にある弁財天は源経基の創建。延歴8年(789)、伝教大師の
作という天女神を本尊に祀ったことに始まると伝えられる。
弁天堂は神社ではなく、階段を上がり右にある大盛寺というお寺に属している。
    
     明和8
                   明和8年(1771) 

穴八幡神社  新宿区  
      穴八幡
      穴八幡
                    宝暦5年(1755)  

小野照崎神社  台東区  
     明和元
                 拝殿前  明和元年(1764)   

白山神社  文京区
    安永9
               拝殿前  安永9年(1780) 
 
この画像の撮影日時をみたら、何と2011年3月11日の13時57分とある。
この神社を出て南北線駒込駅に向かっていたが、ふと六義園に寄ってみる
ことにした。そこで園内であの東日本大震災に遭った。日暮里に出てしまい、
夕方から歩き始めた。結果、わが家に辿り着いたのは12日未明になった。
今でも思う、あのとき寄り道しなければ・・・夕方には帰宅していただろうと。
旅・散策・イベント

雪のあと

2018年02月08日
立春を過ぎたものの春の訪れはほど遠いこの頃。3ヶ月予報でも「寒い2月」
「平年並みか低い3月」という予想が出ているという。春の訪れは、暖冬だった
昨年、一昨年より遅くなりそうだ。

1月22日の降雪は東京23cm、横浜18cm。2014年の降雪49cm(1日の
最大降雪22cm)以来、久しぶりの大雪となった。
東京の平年の降雪は10cm、昨年は積もらず、一昨年は6cmだったという。

1.23
   梅
               カエデ
       クチナシ
          ルリマツリ                   
1.25
      水仙    
          自転車
1.28         
           空地
2.1
         北側
             庭
旅・散策・イベント

「海苔のふるさと館」

2018年02月07日
先月、病院の帰り、一度訪れたかった大森 海苔ふるさと館に立ち寄った。
2008年、平和の森公園の海辺に開館したふるさと館は、海苔づくりの道具の
展示や海苔づくりを支えてきた伝統の手わざを体験できる施設。
大田区が保存する海苔資料は千点以上、うち881点の「大森及び周辺地域の
海苔生産用具」(国の重要民俗文化財)は海苔の歴史を伝えている。

海苔づくりは江戸享保頃に始まったと言われている。浅瀬の広がる大森周辺は
大きな産地として発展し、江戸の終わり頃、海苔づくりは各地へ伝わっていった。
だが、港湾整備計画や漁場環境悪化などの理由から昭和38年春の海苔採りを
最後に約300年の大田区の海苔養殖の歴史は幕を閉じた。(海苔のふるさと

        沿岸部 *Click!
           昭和35年の大田区沿岸部 *Click!

写真の白線内は、現在の空港の範囲。昭和38年春までは東京湾の海苔漁場、
昭和59年以降、東京国際空港沖合展開事業で埋め立てられた。

       舟
       大田区に唯一残る海苔船「伊藤丸」(国の重要文化財)

     海苔下駄
                         「海苔下駄をはいてみよう」

     道具
    国指定の重要有形民俗文化財「大森及び周辺地域の海苔生産用具」

海苔は冬になり寒くなるとよく育つ。冷たい北風の中、海の中に手を入れて
海苔を採るので、非常に大変なしごとだった。
「海苔つけ場」では採ってきた海苔を切って四角い枠の中に入れる。  
     
    海苔つけ場
                再現された「海苔つけ場」

            浅草海苔 *Click!
         「なんで?浅草海苔っていう名前なの?」 *Click!

説之壱-昔は浅草で採れたから 説之弐-浅草寺門前で売られていたから
説之参-浅草紙と同じ作り方だったから 「あなたは、どの説に賛成しますか?」
という展示があった。どれも正しいように思えてきた。

ちなみに、家康が江戸入りした頃の浅草寺門前で採れたアサクサノリを和紙の
技法で板海苔としたものを「浅草海苔」と呼ぶようになった。江戸時代に隅田川
下流域で養殖された名産の1つ。江戸の浅草で採取、販売、製造されたため、
など諸説ある。(Wikipedia)
   
      海苔
館を出てから体験学習室を覗いた。土日など、海苔つけ体験、海苔簀づくりなど
体験学習を行う部屋という。福岡だったか、特別に譲り受けたという海苔が水槽の
中で動いていた。11月に種子を付けたが、成長はゆっくりだとか。実際の海では
1週間もすれば採取できるのだそうだ。生きた海苔を見たのは初めてだ。
月に2度催される「海苔づけ体験」にじゅんじゅんを連れて来ようか。
旅・散策・イベント

海苔のふるさと

2018年02月06日
今日は「海苔の日」。全国海苔貝類漁業協同組合連合会は、日本最古の成文
法典「大宝律令」の施行された1月1日(702年) を西暦に換算した2月6日を
「海苔の日」として定めた(1966年)。

「大宝律令」によると、当時29種類の海産物が租税として納められており、
そのうち8種類が海藻で、海苔がその1つとして表記されていたという。
「海苔」が登場した当時は四角い形ではなく、海藻として食べられていたという。

海苔の養殖が始まったのは、江戸時代初期のことで、徳川家に献上する魚を
育てていた池を囲う「そだ(木の棒)」に付いていた海苔を偶然発見したことが
キッカケと言われている。当時は高級食材として扱われていたが、養殖によって
市場への流通量がこれまでの数十倍になり庶民にも親しまれる食べ物となった。

現在は有明や千葉などが海苔の産地として有名だが、初めて海苔の養殖が
行なわれたのは大森。『江戸砂子』には、「浅草海苔」の産地として「品川大森」、
大森村が海苔業税を江戸幕府に納め始める(1746年)との記述がある。

      弁天橋
              海老取川にかかる弁天橋

大森は多摩川河口にあり浅瀬が続く地形であったことから良い海苔が出来る
地理的条件が揃っていた。日本全国に先駆けて、江戸中期から昭和中期まで
海苔の生産がつづいた。              (海老取川に架かる橋Ⅰ

    ヒビ
    海苔
           弁天橋欄干   海苔づくり作業の様子

養殖の最盛期は大正末期から昭和初期(1920~1930年代頃)といわれる。
だが、東京五輪などに向けた東京湾埋め立てなど沿岸整備計画に応じて、
1962年冬に漁業権を放棄した。翌年春に最後の収穫を迎え、海苔養殖の
歴史は幕を閉じた。
旅・散策・イベント

赤銅色の月

2018年02月05日
1月31日の皆既月食、日本で観測できるのは約3年ぶりのことだという。
今回は、比較的観測がしやすい時間であり、しかも「見たら幸せになれる」と
言われる「ブルームーン」。さらにこの日の満月は「スーパームーン」にあたる。
そこで赤く染まる今回の皆既月食は「スーパー・ブルー・ブラッドムーン」とも
呼ばれるが、これは気象用語ではないという。

今回は全国で部分食の初めから終わりまでをみることができるという月食。
「20時48分に欠け始めて、21時51分には完全に欠けて皆既月食となり、
これが1時間17分続き、23時8分には輝きが戻り始め、0時12分に元の
丸い形となる」。
日本全国どこで見てもこの時刻は変わらない。

月食が始まる前、Uさんと電話していて、月のすぐ横にある星は何かしら?とか、
南の空にみえる星はオリオン?など、ベランダに出てはしゃいでいると、いつもは
猫の姿しかみられない燐家の東向きの窓から子どもたちの歓声がきこえた。
何だか恥ずかしくなり室内へ入ってLINEでグループトークを始め、撮った画像を
チェックした。「夜撮カメラ」アプリを使ったが、うまく撮れていなくてがっかりした。

19:34  今夜はラッキーにも月がみえています (Yさん)
19:34  たった今、夜撮カメラでとりました  
19:40  赤くなるのは21:51~22:29とか (Yさん)
19:41  それまで見えているといいのですが 
19:41  ほんとに (Yさん)
22:00  皆既月食がみえています  (Uさん)
22:00  うまく撮れず 
22:02  わたしのタブレットでは、点にしか写っていません。
       だんだん欠けてきました! 風邪ひきそう! (Uさん)

        ハワイ           
22:19  YouTubeの生中継  ハワイ島ワイコロアの皆既食  (Yさん)
22:21  スゴイ!寂しげな色合いがハワイでみるのと同じ、最高! (Uさん)  

翌朝6時、西の空には雲に見え隠れする月がみえた。前日は一晩中、大勢の
人たちに注視された月、「お疲れさま」のことばが思い浮かんだ。

9:58  我家は西側にある事務所棟の数百のあかりで星がほとんどダメで
      残念です。 (Yさん)
13:01 月の模様、南極で見ると反対だそうですが・・・  (Kさん)

皆既月食の翌日は月も星も見えなかった。皆既月食について詳しい解説が
載っている国立天文台のサイトで宇宙の神秘をあらためて思った。
     
   皆既食
                 国立天文台  動画から

          皆既月食*Click!
          22:30  国立天文台 三鷹キャンパス *Click!             

漆黒の空に欠けてゆく月とたくさんの冬の星座たちの共演、そしてグループ
トークをを楽しむことができた素晴しい夜だった。 
2015年の皆既食はわずか12分だったとか。あまり記憶にない。
次に日本全国で条件のよい皆既月食がみられるのは2022年11月だという。   
旅・散策・イベント

7年ぶりの「鬼問答」

2018年02月04日
今日は24節気の1つ「立春」。冬と春の分かれる節目の日である「節分」の
翌日で「寒さがあけて春に入る日」いわば春の初日。
早朝、禅寺では厄除けのために門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣がある。
これは、縦書きすると左右対称になり一年間災難にあわないというおまじない。

孫娘2人の書初めが「杉並区立小学校連合作品展」(於:セシオン杉並)に展示
(学年8名)されているというので、ごんさんと出かけた。比較的暖かい日だった。
午前中、節分祭が行われる喜多見氷川神社(世田谷区)に立ち寄ることにした。

      氷川神社

氷川神社では、節分に「一陽来復」を祈願し、追儺神事、豆まきが行われる。
7年前に訪れたときとほとんど変わっていなかったが、土曜ということもあって、
子ども連れやファミリー、一眼レフカメラを構える人も多い。 (珍しい節分祭

「鬼問答」「大国舞」「恵比寿舞」の一連の迫儺神事は、都内では珍しいため、
貴重な民俗行事として世田谷区の無形民俗文化財に指定されている。
まず神主や福の神や大黒様、参列者が鳥居をくぐって参道を進んで来る。

    観客
       9:45         10:25   地元の小学生たち 10:26

開始時刻近く、お囃子が始まる。観客も豆を撒くのだが、「手のひらを上にして
東を向いて『福はうち』を3回。拳から豆を差し出すように『鬼はそと』を1回・・・」
神事の流れなどについて宮司から説明があった。

祝詞、そして参列者による豆まきが行われると、突然、赤、青、黒、白色の鬼が
やって来る。参列者は慌てて社殿内に入る。宮司は社殿に入ろうとする鬼の前に
立ちはだかり、どうにか入ろうとする鬼を阻止する。
 
        問答 10:28

問答が始まる。鬼が鹿杖で床をたたきながら「そこどけ、そこどけ」と言うと、
「不思議なるものみえて候、何者ぞ、名のり候らへ。早く名のり候らへ」
宮司が訊ねる。「それがしに候か?」と鬼、「早く名のり候らへ」とせかす宮司。

      問答 10:28

「見るも聞くもそら恐ろし。それ、赤き息 ほっとつけば、七日七夜の病となる。
それ、青き息、ほっとつけば、疫病となる。よって節分毎にまかりいで、
人の命をねらい候。鬼は内と、声がした。よって、まかりいで候」
と鬼たち。
「言わぬ、言わぬ」と宮司。         
      
     問答 10:30 

「腹ぺこだ、腹ぺこだ!」とわめく鬼。「悪しき鬼どもだ。おのが住家にあらず。
もとの山へ帰り候らへ」
と宮司はスルメを与える。

     スルメ 10:31 

追い払われる鬼、参列者一同で「それ追い出せ! 鬼は外、鬼は外・・・」
と言い、桃の弓と炒り豆を投げて鬼追いをする。

      スルメ 10:32

         豆まき 10:33

鬼たちは「ゆるさせ給へ」と叫んで逃げていく。観客も参道で配られた豆を投げる。
帽子を被っていなかったごんさんはずいぶんと頭に豆が当たったとか。
   
   退散 10:35

鬼が去ると、再び参列者や神主が社殿前に並び、今度は東の空高くに向かって
「福は内」と豆を撒く。
恵比寿様、ひょっとこが社殿に上がり、「恵比寿舞」を舞う。大国様の祝詞のあと、
小槌から縁起物をばら撒きながら舞う。最後には全員で縁起物を撒くと神事は終了。

       福の神 

退散した鬼たちは人気者。小さな子どもたちの泣き声が響く中、一緒にカメラに
収まったり、スルメをちぎって子どもたちに配ったりと大サービス。中には「スルメ
ちょうだい」という年配の女性も。当て字で「寿留女」と書く「スルメ」は、寿が留まる
ようにという意味だとか。鬼たちはいつまでも山へ帰ることができそうになかった。
        
             黒 白
    青 赤

著名人が豆まきをする節分会とは大違い。いつまでも残してほしい神事だ。
邪気を払い、新らたな気持ちで春を迎えられたような気がしている。
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節分の豆

2018年02月03日
今日は節分。鬼に豆をぶつけて邪気を払い福を呼びこむ「豆まき」は、追儺
ついな)という宮中行事の1つで、「鬼やらい」や「厄払い」とも言われる。
「魔の目」(魔目=まめ) に 「豆」 (まめ) を投げて 「魔を滅する」(魔滅=まめ)。
豆まきが行われる寺社は、比較的近いところに池上本門寺、雪谷八幡などが
あるが、もっとも印象に残っているのは喜多見氷川神社。 (珍しい節分祭
    
     喜多見 2011.2
              喜多見氷川神社  節分祭  
        
豆は大豆が多いが、寺社などでは、最近は、お祓い済みの「福豆」が袋に
入っていたり、落花生やお菓子なども増えてきた。
豆まきの翌日、庭に散らばった豆もキジバトが食べるのか、数日もすると
なくなっているが、道端に落ちている豆を見かけると少し胸が痛む。

    福豆
        喜多見氷川神社     湯島天神      雪谷八幡神社       

この大豆もコーヒーやチョコレートなどと同様、フェアトレードの基準が設定され、
生産者もその基準に基づき、FLO認証会社の専門査察官によって認証され、
輸入業者や販売業者も監査される体制がつくられているという。

夜はNHKラジオ(第2)をバックグラウンドミュージック代わりにつけることが多い。
そんな中、耳に留まったのが、「高校講座 コミュニケーション英語Ⅱ」だった。
カカオ豆のフェアトレードについての「甘いチョコの苦い現実」だった。

カカオ豆の農場で働く子どもたちはカカオ豆でいっぱいの20kgの籠を頭の上に
乗せて運ぶという肉体的重労働を行っている。彼らのほとんど は、その豆が
何のためのものか知らないのは皮肉なこと。彼らは生まれてから一度も チョコ
レートを食べたことがないのだから。
     
           カカオ2012.11
             カカオ豆いろいろ  「科博チョコレート展」

この問題の1つの解決策は、フェアトレードシステム。それは貧しい農家がより
よ い収入を得ることを可能にし、彼らの子どもたちは農場で働く必要がな くなり、
学校に行くことができる。 「あなたがチョコレートを買 うとき、その苦い真実に
もう少し注意深く思いをはせるべきなのです」と。 (フェアトレードコーヒー

チョコレートはともかく、毎日の生活に欠かせない大豆の自給率の低いこと。
大豆の自給率は7%。ただし、サラダ油などの原料となる油糧用を除いて
食品用に限ると、自給率は25%。( 2015)
「大豆&豆類のフェアトレード基準」(FLJ)の導入で、開発途上国の多くの
小規模生産者(ブラジル、インド、中国、ウルグアイ、パラグアイ、エチオピア、
ミャンマーなど)が新たにフェアトレードに参加できることになった。
輸入大豆が75%を占める今、フェアトレード大豆を使う意味がそこにあるという。
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気になる狛犬たち Ⅰ

2018年02月02日
今日は「夫婦の日」。「ふう(2)ふ(2)」の語呂合わせから。
ちなみに、4月22日は「よい夫婦の日」、11月22日は「いい夫婦の日」。

      江戸時代
           「夫婦狛犬」  1600年代後半~1700年前年  

浅草神社(台東区)には赤い相合傘の下に「夫婦狛犬」が仲良く並んでいる。    
頭にははめ込み式の角がついていたが、今は残っていない。

神社の参道などの狛犬は中国皇帝の守護獣である「獅子像」が元になっている。
平安時代には、黄色で口を開けている「阿形」の「獅子」と、白色で口を閉じて
角を持つ「狛犬(胡摩犬)」の「吽形」とにはっきりと分かれていた。

時代を経てほとんどが「獅子」にの形なり、角を持たない像が多くなった。   
山門を守る仁王像と同じように考えられ「阿吽」の形になったといわれる。
江戸時代になり石工が自由に狛犬を造るようになると、自己流解釈や様々な
俗説が信じられるようになったという。

足元に「宝珠」や「子犬」を置かれることも多く、玉を置いた像を「玉取りの狛犬」、
子犬を置いた像を「子取りの狛犬」と呼ぶ。「阿」が宝珠を、「吽」が子犬を足元に
置くことが多いが、どちらも玉を持つ場合や「吽」像が玉を持つ狛犬も存在する。

たまたま立ち寄った神社に狛犬がいるのか、どんな狛犬だろうかと気になる。
江戸の初期の旧い狛犬たちに逢えた日は嬉しい。中でも1600年代の狛犬は
味わい深く印象に残るものが多い。

目黒不動尊(龍泉寺)  目黒区   都内最古
江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依を受け、塔伽藍の造営が行われ、
幕府の厚い保護を受けた。五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の1つ。
不動明王を本尊とする関東最古の不動霊場。熊本の木原不動尊、千葉の
成田不動尊と併せて日本三大不動の1つ。  (目黒不動尊の狛犬たち

江戸初期は制作年や寄進者名などが像に直接刻まれることが多かった。
目黒不動尊には6対の狛犬がいるが、この都内最古の狛犬の腹には
「奉献 不動尊霊前 唐獅子二匹」の文字が見られる。

     目黒不動
                    承応3年(1654)
 
鎌倉鶴岡八幡宮 大石段下  鎌倉市 
かつては石段上、楼門の手前にあったが、いつの頃からか石段下に降ろされた
ことから、狛犬マニアの間では「階段落ち狛犬」と呼ばれているのだとか。
寛文8年、四代将軍家綱の時代につくられた。当時の江戸の大半が焼失した
明暦の大火からおよそ10年経ったころだというから驚く。

      鎌倉
                   寛文8年(1668)

六郷神社   大田区   大田区最古 
大田区最古の狛犬は六郷神社の愛嬌のある狛犬。以前は社殿前にあったが、
現在は前庭に置かれている。             (大田区最古の狛犬
    
    六郷神社   
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野鳥と自然を描いた画家

2018年02月01日
立春を過ぎて「余寒」が厳しい。「春寒し」。日差しは日ごとに強くなっていくが、
まだ寒さが残る。『早春賦』の歌詞「春は名のみの風の寒さや・・・」が浮かぶ。

先日、S さんから電話があった。毎年暮、彼女が描かれた水彩画で年賀状を
つくるときにお目にかかる。外出時には杖が欠かせないが、94歳とは思えない
ほどお元気だ。そんな彼女が80歳を過ぎて始めたコーラス仲間のSさんの
「余寒見舞葉書」をつくってあげてとの電話だった。   (見守り不要?

直接の打ち合わせ後、待ち合わせ場所は西馬込駅にした。「グレーのコートに
チェックのスカートを履いていきます」と彼女に私は「ベージュのコートにグレーの
帽子で」と初対面の瞬間を思うとワクワクした。2日後、彼女はコーラスの練習後、
私は『堀越保二展』(大田区立郷土博物館)を観て西馬込駅まで歩くことになった。

当日の午前中、思いがけず博物館近くのKさんがつき合って下さることになった。
堀越氏に師事された先生に日本画を習うKさんは、この日すでに2回目、しかも
近いうち、教室の友人を案内することになっているとか。

       パンフ

博物館前の玄関は北向き、15日の雪は残り、通路に撒かれた塩化カルシウム
(融雪・凍結防止剤)の粒をジャリジャリと踏んで入った。館内は2人だけだった。
画の前で、よく一緒に旅した故Kさんのことに話が及ぶと「静かにして下さい」
と注意されてしまった。余談になるが、この後、ランチをご一緒したSさんも
やはり2人で話していたら注意されたという。

堀越保二氏は、当時の大森区入新井(現 大森北)で生まれ、埋め立て前の
大森海岸近くで育ち、ノリの養殖や海水浴、潮干狩りに親しんだ。東京藝大の
日本画専攻に進学、卒業制作の取材で久しぶりに海岸を訪れた際、埋め立てで
ゴミの山と化した姿に衝撃を受けたそうだ。その後、埋め立て地に通って鳥や
植物、水辺の風景をスケッチするようになったという。

       此岸
               「此岸にて」  1967年(28歳)

カラスの死骸と草花を描いた「此岸(しがん)にて」など優しい眼差しが伝わる。
「野鳥の会」の「野鳥絵はがき」の原画も展示されていたが、情けないことに
8種の鳥のうち半分の鳥の名がわからなかった。
大作もいいが、初期に描かれたという1月から各月ごとのテーマを描いた12点の
小色紙の小さな世界は印象的だ。箔の研ぎ出しが用いられているという。

     淡雪
      「白雨」  1967年(28歳)      「淡雪、坂」 1978年(39歳)
 
とくに幻想的な色彩の豊かな若いときの作品に魅かれた。「淡雪、坂」は、
三方五湖付近の集落だという。真冬の三方五湖スケッチ旅行に行ったときの
ことを懐かしく想い出した。

実は堀越保二という画家をよく知らなかった。院展、日展所属でないこともあるが、
東京藝大名誉教授ということも、何度か訪れた「東京港野鳥公園」の開園にあたり、
市民運動の立役者として貢献したということも。

     2005.1
                 冬の野鳥公園      2005.1

郷土博物館の特別展は3月4日までだが、その野鳥公園でも企画展「堀越保二の
残した野鳥公園今・昔」(~3/11)が開かれている。
3月にはだいぶ暖かくなるだろう。鳥は苦手だが、水辺の風景を描いてみたくなった。
絵画・博物館
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