FC2ブログ

街の落書き

2018年10月31日
東急電鉄が「渋谷の街をジャックする」というキャッチコピーに驚いた。ラジオをきいていて、最初は何のことかよくわからなかった。渋谷エリアに点在する住居や店舗などの未活用壁面を東急が一括して借用し、壁の所有者の代わりに管理する。壁を提供すれば、落書きされても東急が消してくれる上、面積や期間に応じて使用料が入る仕組みだとか。

渋谷駅周辺の30ヶ所で7月から始まっていて、来年4月までに100ヶ所の壁面を活用し、新たな情報発信の場にするとともに、落書きが絶えず、暗くて怖いといった都会の路地裏のイメージを払拭する狙いもあるという。若手ストリートアーティストによる街を美術館に見立てた「ストリート美術展」を開催する予定で、渋谷以外での「壁ジャック」も検討するという。

街でみかけた落書き 
     2010
  「・・・この土地は・・・立入禁止 ・・・」
       
    2011
  2013 border=
    2015
    2015

煙草やゴミのポイ捨ても決して許されることではないが、他人の所有物への落書きは悪ふざけや悪意や害意をもって物品を汚損する悪戯。歴史的建造物に来訪者が落書きを残すケースは多く、万里の長城でも観光客らによる落書きなどにより、風化が進むことが懸念されている。落書といえば、電子掲示板、個人や団体のウェブサイト上にもさまざまな落書きがみられる。

最近はあまり渋谷の街を歩くことはないが、I さんの個展やグループ展や大和田のプラネタリウムに行くときに見かけるシャッターや塀の落書き。次に渋谷の街に行ったときには、どんなアートの壁がみられるだろうか。
旅・散策・イベント

「群馬HAN I-1」グランプリ

2018年10月30日
群馬県は東日本随一の古墳大国であり、古代東国文化の中心地。このことを県内外に広く知ってもらおうと、今月14日に「群馬古墳フェスタ2018」が藤岡市で開かれた。そのフェスタの中で、群馬県主催の「群馬HANI-1(はにわん)グランプリ」(7/18~ 9/17)の結果発表があった。

群馬HAN I-1グランプリ」は、「県内で出土した埴輪にスポットを当て、県内外の方々の投票により、最も人気のある埴輪を決定するイベント」。グランプリには県内14市町村で出土した人物、動物、器財、家形、円筒の5ジャンルの計100体がエントリー。群馬からは国宝・国指定重要文化財の埴輪42件のうち45%にあたる19件が出土している。

埴輪は、古墳に並べるために作られた素焼の焼き物のことで、当初、古墳に葬られる人物の生前の様子やその権威を示すもの、死者の霊に対しての捧げものだったが、5世紀以降は、葬儀の様子などを表すものへと性格が変化していった。

 埴輪
       國學院大學博物館

大きく分けると、円筒埴輪と形象埴輪がある。円筒埴輪は、もともと壺を乗せる筒型の飾り台から発生したもので、壺と台が一体化した朝顔形埴輪などもある。形象埴輪は、住居や倉庫などの家形埴輪、大刀やよろい、日傘などの器財埴輪、馬や鶏などの動物埴輪、巫女、貴人、武人などの人物埴輪などがある。4世紀には古墳の頂上の埋葬施設やその周辺に家や器財の埴輪が並べられたが、5世紀以降は人物埴輪や動物埴輪が多くなった。

このイベントを知ったのは、國學院大學博物館で、エントリーしている「長久手出土の人物埴輪」(太田市出土)とこのイベントのポスターを見たからだが、その日からほぼ毎日(1日1回)、スマホ、パソコン、2台のタブレットからこの埴輪に投票し続けた。
結果発表を見ると、1位は藤岡市出土の「笑う埴輪」(7,969)、2位は前橋市の「ぐんまちゃん埴輪」(5,536)、3位は高崎市出土「楯持ち埴輪」(4,982)。それにしても動物埴輪の中には、群馬県だけあって「ぐんまちゃん埴輪」と呼ばれている馬型の埴輪が多いこと!

   埴輪
 「埴輪グランプリ」の「長久手埴輪」(中央)

「長久手出土の人物埴輪」は、100のうちの総合順位17位。59,261票のうち、669票獲得。15位から20位のあたりはわずかの差。シェイプ別では、人物埴輪その他では3位を獲得。毎日投票した埴輪は10位以内に入らなかったが、このイベント、しばらくの間、楽しんだことは間違いない。

ちなみに、土偶は縄文時代に使用された、人物や動物の形に作った土製品で、現在のところ、北は北海道から南は九州まで、約15,000点が出土している。大きさは、数cmの小型のものから40cm以上のものまでさまざま。最古の土偶は縄文時代草創期の三重県から出土したものとか。
前期は板状で小型のもの、中期は立体的で脚のあるものや円錐形のもの、後期は筒形、ハート形、山形、ミミズクと分類されるもの、晩期は遮光器などの土偶が作られた。

  土偶
      遮光土偶     山形土偶

土偶は手や足など、どこかが欠けて出土することが多く、また、乳房や妊婦を表現し女性像が多いことなどが特徴。このことから、出産・豊穣や再生にかかわる用途であると考えられているが、さまざまな土偶が多く、用途や役割については、結論が出ていないといいう。
旅・散策・イベント

大田区の縄文遺跡

2018年10月29日
大田区には現在236ヶ所の遺跡が存在しているが、その9割が台地上から発見されている。大田区立郷土博物館の常設展示は、考古遺物の展示が充実している。日本の考古学発祥とされる大森貝塚が近いからだろうか。全国の貝塚は、2500~3000で、その4分の1が関東地方にある。
区内の縄文時代の遺跡36の中で貝塚は20遺跡が確認されていることを知った。貝塚は大森貝塚だけでなく、あちこちの地点に散らばっている。(郷土博物館縄文海進

田園調布南遺跡は、多摩川線沼部駅の東北、多摩川に面した標高17~19mの武蔵野台地上にある。都立田園調布高校の校舎改築工事に伴い発掘調査が行われた。(1987-1988)
縄文時代前期の第7土坑には、ブロック状の貝層が認められ、「地点貝塚」的性格を持つとされる。中の土壌分析中に天然真珠、孔雀石製装飾品が発見された。また、弥生時代後期の墓や住居址も周溝内から出土している。

   田園調布南
   田園調布南遺跡   第7土坑

雪谷貝塚は、池上線雪が谷大塚駅の東南、呑川に面した舌状台地先端部に位置する。縄文時代前期、大規模な集落が営まれていたことが想像される。貝塚の存在も知られていたが、周辺の宅地化により遺跡の発掘は不可能になった。
 
雪谷
       上池上     雪谷貝塚 

庄仙貝塚は、池上線御岳山駅の東方、呑川の支谷に面した台地上にある。

  下沼部
     下沼部        庄仙 
 庄仙
    大谷 下谷

千鳥窪遺跡は、久が原台地の南西の奥まった台地にある。この貝塚でとくに注目されるのは、中期の男性の人骨。中期から後期の土器をはじめとして打製石斧など。人骨も多く出土している。

 千鳥窪
    千鳥窪 縄文時代中期

大田区 縄文時代の遺跡 時代順(『大昔の大田区』による)
下沼部貝塚(早期〰晩期 約9000~2300前)雪ヶ谷貝塚(前期 約6500~5000年前)山王三丁目遺跡(前期 約6000年前/先土器時代/弥生時代/古墳時代)田園調布南遺跡(前期中葉 約6000年前)馬込貝塚(中期〰晩期 約5000~2300年前)千鳥久保貝塚(中期~後期 約5000~3000年前)綱島園内遺跡(中期 約5000~4000年前/先土器時代 約15000年前)南馬込1丁目55番遺跡(中期)庄仙貝塚(中期)久原小学校内遺跡(後期 約4000年前/武蔵野台地最南端で初の先土器時代遺跡)大森貝塚(後期 約4000年前)
絵画・博物館

「縄文海進・海退」

2018年10月28日
大田区立郷土博物館のミニ展示「大田区の縄文貝塚と集落」に関連して行われた、学芸員によるミュージアム・トークに参加した。集まったのは約20名。その中には友の会の会員4人の姿も。(郷土博物館

   ミニ展示

大田区には世田谷に次いで多くの遺跡が存在する。『大昔の大田区』(1997年度版)には「約180ヶ所」と書かれているが、現在は約236ヶ所あるとか。
区内の縄文時代の遺跡は36、その中で貝塚は20遺跡で確認されていることを知った。貝塚は大森貝塚のほか、あちこちの地点に散らばっているという。ちなみに、全国の貝塚は2500~3000で、その4分の1が関東地方にある。

貝塚とは、当時の人々が食べた貝を捨てた場所だが、それだけではないらしい。興味深いのは、貝がどのような状態で見つかったか、貝殻や動物の骨など、常設展示にはない資料も展示されていた。

   海進と海退
 海進の始まり*Click!   海進がもっとも進んだ頃
 1万年~6500年前  6500~5500年前 
 
  縄文海進と海退
  わずかな海退 *Click!  再びの海進と大きな海退
 5500~4500年前 4500~2500年前

縄文といえば、土器や土偶を思い浮かべるが、「縄文海進―海退」も気になる。大田区の地図で、「縄文海進」のランプをつけると、当時の海岸線がわかる。(左に多摩川、上方に洗足池)
わが住まいのすぐ下まで海だったときがあったことに驚く。もっとも6500年から5500年も前のことだが。 

 縄文海進
    海進がもっとも進んだころ
  
その後、2階の「大田区の地中の歴史」で、大森貝塚や縄文時代までの展示をゆっくり観た。学芸員と友の会の方たちと話が盛り上がり、あっという間に閉館の時間になった。実はこの展示を観たのは今月になって3度目。その度に新しい発見がある。

「郷土博物館 友の会」に入会した。「考古の会」「水路の会」「大田の歴史地図の会」「江戸時代の交通と旅の会」などいくつも分科会がある。「考古の会」は、旧石器、縄文、弥生、古墳時代の石器や土器、玉類、人骨、獣骨などの大田区の考古発掘資料を、学芸員の指導のもとに、実物に触れて整理、記録しながら楽しく学ぶ会。毎会は無理だが、できるだけ参加したいと思っている。
絵画・博物館

郷土博物館

2018年10月27日
狛犬、巨樹、風景印集印など、この10年近くのマイブームは、ほぼ終わった。大田区内の狛犬はもれなくクロッキーをしたが、風景印は途中で飽きて中断した。巨樹は23区内はおそらくほとんどクリアしたと思う。

美術館や博物館はよく行く方かもしれない。トーハク(東京国立博物館)には年に5回くらいだろうか。科学博物館や江戸東京博物館にはりんりんをはじめ孫たちを連れて行った。
郷土博物館では、りんりんと行った港区立港郷土資料館がもっとも記憶に残っている。ミンククジラの骨格標本をみて興奮していた彼が急に具合悪くなり、帰りに寄ったクリニックでインフルエンザとわかった。

世田谷区、杉並区、渋谷区の郷土博物館も訪れたが、大田区立郷土博物館には今年になって、度々足を運んでいる。以前は特別展を観に行っても、常設展「大田区の地中の歴史」といった遺跡や遺物の展示にはほとんど興味なかった。だが、今年夏、トーハクの『縄文』や『縄文にハマる人々』の映画を見たり、國學院大學博物館、明治大学博物館で考古の展示をみてからは、大田区の考古にも俄然興味がわいてきた。

   博物館

大田区立郷土博物館は区の産業の変遷や暮らしの歴史、さらに区内で発掘された遺跡が展示されている。(入場無料)
川瀬巴水の作品を月毎に展示しているコーナーもある。
巴水(1883~1957)は、日本画家鏑木清方の弟子になり、伊東深水の影響で版画家に転向。浮世絵版画の新たな世界を切り開き、雪、月、雨など詩情的な風景版画で「旅情詩人」などと呼ばれる。

    パンフ
   「馬込の月」  「池上本門寺」  「矢口」

巴水は全国を歩き日本の風景を版画にした。1926年、大森(現・大田区中央)に住み、その後、馬込町(現・大田区南馬込)に移り住んだ。池上本門寺など、大田の風景版画は多い。国内より海外での評価が高く、葛飾北斎や歌川広重と並び称される人気がある。

2階には「大田区の地中の歴史と」して、遺跡と発掘品が展示されている。「大森貝塚」は有名だが、ほかにも大田区だけでもいくつも貝塚が発見されていることを知った。

    散歩道

「大田区遺跡の散歩道」として、区内の遺跡や古墳、貝塚など合わせて50ヶ所もの散策ルートが紹介されている。かつて訪れたところが多いが、郷土博物館からのスタートはともかく、このコース通りに歩いてみてもいいかもしれない。

3階には、かつて大森の名産であった海苔養殖や町工場のモノづくりの歩み、「馬込文士村」の文士たちの原稿や遺品の展示のほか、芸術家や思想家たちの写真などのパネルが間近で見ることができる。

昭和38年まで大森を中心に海苔養殖産業が栄えていた。現在も大森駅周辺には海苔問屋がたくさん店を構えている。
明治時代から使われていた海苔養殖で使用した道具の多くは、現在は「大森 海苔のふるさと館」に移されている。
海苔養殖時期の冬から春にかけては、男女に関わらず子どもたちまで手伝いをするほどの産業だったが、夏から秋は「麦わら細工」の内職をするようになったとか。麦わら細工も海苔と同様、大森土産として知られ、「江戸名所図会」にも残っている。(海苔のふるさと館
絵画・博物館

地域猫とはいえ

2018年10月26日
このところいわゆるノラ猫の姿を見かけなくなった。お向かいのSさんのように、飼い主のいない猫を「地域猫」として世話している人たちのお陰で、数年前に比べると近所では地域猫も激減したように思う。Sさんは室内に数匹の飼い猫がいるが、ノラ猫に不妊・去勢手術をして、怪我や病気の猫は動物病院に連れて行き、最後は葬式、墓地まで世話をする。手術など区の助成はあるものの、治療にかかる費用は実費。

公園などでの餌やりなどが問題になっているが、地域猫の考え方は、「生命を受けてしまった猫たちは、地域環境の中で出来るだけ快適に長生きできるように」と、猫を放置するのではなく、猫の嫌いな人にもある程度許容してもらえる「地域猫」として一定の管理をして見守り、将来的には飼い主のいない猫を減らしていこうもの。

11年前、Sさんのところに集まる猫の1匹がわが庭で4匹産んだため、親猫と子猫計5匹を手術(一部区の補助)をした。その後、親猫は姿を消したが、4匹の猫たちは長い間わが庭を住処にしていた。今はククだけが、Sさんのところとわが庭を往き来している。1匹は病死、1匹は2度目の長期不在(どこかで飼われているか)、1匹は近所のNさんのお宅で見かけるが。

数年前、ククはSさんのところから他の猫と折り合いが悪かった猫を連れてきた。それがトモ。庭での滞在時間がもっとも多いこの猫が。先週、フードを食べに来なくなり、樹の下にうずくまっていた。半身がマヒしているのか、まともに歩けない。ダンボール箱にタオルを敷いて入れた。

   トモ
    Sさんに食べさせてもらうトモ

様子を見に来たSさんは「脳がやられているかもしれない」と。翌日、動物病院へ連れて行くことになった。とりあえず、貸してもらった大きなケージを玄関に組み立てた。

    玄関

ところが、ノラ猫の習性が残っていてふだん声を出したことがないトモは、ケージの中で不安そうにニャア~ニャア~!と騒ぐ。小一時間もしないうち、ほとんど歩けないはずなのに1m近い高さのケージを跳び越えて、窓に向かってヨタヨタと駆けてきた。窓を開けると飛び出し、塀際の樹の下までなんとか歩いて行きうずくまった。

   クク
          心配するクク

翌朝、Sさんとごんさんは動物病院へ連れて行き、検査、抗生剤の点滴などの処置後、経過観察のために入院させた。ノラ猫であるという手続きをして1泊400円余になったが、5日間の費用は折半したが、想像以上に高額。地域猫の世話もなかなか大変だ。

退院し、庭でケージを開けると、塀近くの樹の下へ。夕方、やって来たククトモの存在に気づき、1mほど離れたところでしばらく見守っていた。猫同士、どういう会話をしたのかわからないが、安心したことだろう。

   間
しばらくはごんさんが改造した木の家には入らず、段ボール箱が気に入っているようだった。退院翌日から食欲もあり、水飲み場やトイレに移動することもできた。半身まひがあるのか、歩き方は今も少しおかしいが、肝臓などには問題ないので、とりあえずは生活に支障はなさそうだ。
動物など

「始める」秋

2018年10月25日
「おおた区民大学」の3回目は蒲田の消費生活センターの集会室が会場。4グループに分かれて「大田の歴史と街歩きの愉しみ方、おおたの魅力」を語りあった。「洗足池と勝海舟」について「田園調布に古墳がある」ことを知らない人たちにそれらの魅力をどう伝えるかがテーマ。(まちあるき 洗足池まちあるき 田園調布

1回目の「洗足池~勝海舟が愛した千束の池~」と2回目の「田園調布~古墳時代から都市開発まで~」について、それぞれ発見したこと、気づいたことを付箋紙に書いて貼っていき、各グループの代表が感想や意見をまとめて発表した。

2回目の「まちあるき」で意気投合したOさん、I さんと「区民大学」が始まる前に1階の「歓迎(Huangying)」でランチをした。センターも「歓迎」も思い出深い場所。20年ほど前、初めて中国語学習(夜の講座)をスタートしたのが、センターの集会室。学習終了後、クラスの半分くらいの人たちと遅い夕食をとったのがこの「歓迎」だった。
その後、メンバーの1人、Oさんに誘われて新橋の中国語講座に行くようになった。沈老師、そして黄老師が亡くなり、この講座はなくなったが、今は桂花会として、年数回の集まりには元のメンバーほとんどが参加し、わが家での中国茶会も5年以上続いている。

4回目は「池上コース」「六郷コース」「下丸子コース」の3グループに分かれての「まちあるき」。どのコースも何度か歩いたところだが、「池上コース」は13:30に本門寺総門からスタート、理境院、多宝塔など境内を勝海舟と西郷隆盛の足跡周辿り、16:30に松濤園で解散予定。
以前から是非訪れたかった松濤園が最後とは!実は、この日は桂花会の日のため参加を諦めていたが、途中参加で申し込んで、桂花会が終わり次第、池上へ駆けつけることにした。もし、スタートが松濤園なら途中参加はしなかっただろう。

「下丸子コース」オープンファクトリ―  
大田区の町工場を周る1日。一昨年はOさんと、昨年はじゅんじゅんと。(モノづくりのまち今年のオープンファクトリーお皿になった
  下丸子コース
      へら絞りの体験

「六郷コース」六郷水門など(下町ボブスレーの町)     
     水門
        六郷水門

「池上コース」 本門寺に残る勝海舟と西郷隆盛の足跡
   本門寺

松濤園は、池上本門寺の北側に位置し、本門寺旧本坊の奥庭として、桂離宮の建築と造園で名高い小堀遠州によって造園されたと伝えられている。作庭に当たり、湧き水が出る池を中心に、遠州茶道の極意を具現化するために4千坪の敷地の各所に茶室を配し、来賓者が回遊する屈指の名園となった。都旧跡指定。普段は非公開で、期間限定で公開される。今年は終了している。

慶応4年(1868)新政府軍の本陣が置かれていた本門寺の「松濤園」の四阿(あずまや)で江戸城総攻撃を前に西郷隆盛と勝海舟と「江戸無血開城」の交渉が行われたという。四阿は現存しないが、隆盛の甥にあたる西郷従徳が揮毫した「両雄会見碑」(1941)や「橋本雅邦筆塚」などがある。

歳を感じさせない「生涯学習リーダー」の方たちを見倣って、アンテナを張りめぐらせて、さまざまなイベントや講座に参加できたらいいと思っている。この講座ですっかり仲良くなったOさんと I さんと、早速、ランチをご一緒した。
驚いたのは3回目の会。たまたま隣の席に坐った人が、娘の小学校時代、たまに往き来していたあのSさんだったこと。こういうこともあるのだと嬉しなった。「六郷コース」を選んだ I さんとはこの日は会えないが、11月の「オープンファクトリー」にはご一緒することになっている。楽しい秋になりそうだ。
旅・散策・イベント

学校の話

2018年10月24日
今日は24節気の1つ「霜降」。露が冷気によって霜となって降り始めるころ。『暦便覧』では「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」と説明している。 次候は「霎時施(こさめ ときどき ふる)」、末候は「楓蔦黄(もみじ つた きばむ)」。

ついこの間まで素足でいられたが、このところ靴下が欠かせなくなってきた。東洋医学科で処方された漢方を飲み始めてひと月、まだ鍼灸は2回、効果のほどはまだわからないが、今年の冬は少しは楽になるような気がしている。

靴下で思い出したのは、最近めっきり話す機会が減ったりんりんの学校での話。ALT(Assistant LanguageTeacher)のJ先生と一緒に昼食をとることがあるという。先生は目下日本語を勉強中だが、校内では英語オンリーと決められているそうだ。(英語学習も楽しければ・・・) 
   
    靴下

たまたまりんりんと同じ机になったとき、靴の中、上なのになぜ「クツ下」というのかと訊かれたそうだ。りんりんが「underwear」を「下着」というのと同じようなものだといったそうだが、先生は納得できたのかどうか。
ちなみに、最近はあまり「アンダーウエア(underwear)」とはいわず、「インナーウェア(innerwear)」ということの方が多いようだ。
    
辞書(「大辞林」)で「下」を調べると、「位置関係で、あるものに比べて低い方」「表側に現れていないところ」「程度・地位・年齢・能力・数量などが劣っていること」の意味がある。「靴下」の「下」は「靴に隠れて表側に現れていない」になる。

 J先生と「上」と「下」の話になったらしい。ひと口に「上」といっても英語では、「on」「up」「above」「over」といった語が使われる。ジーニアス和英辞典には①位置・方向の前置詞だけでも on(表面に接触して)over(・・を覆って)above/over(・・上方に)/up/upward/upwards(上に向かって)とある。
日本語の助詞もむずかしいだろうが、英語の前置詞をネイティブ並みに使いこなせるようになるのは相当時間がかかるようだ。

   上

先日、りんりんの学校で発表会があり、英語スピーチをする生徒が数人いたが、帰国子女の英語はまるでネイティブ、予め配られた英文でなんとかわかったが、ほとんどききとれなかったとがっかりしていた。もっともたどたどしい英語スピーチの生徒もいたらしいが。こういった話をきいていると、英語が得意とまではいかなくとも、ほとんど抵抗がなくなったようにみえる。

英語の話がつづくかと思えば、突然、話題は変わる。「ササメユキって誰が書いたか知ってる?」と訊かれ、「谷崎潤一郎!」と答えると、「おーっ、知ってるんだ。僕、知らなかったなあ、クラスで誰も知らなかった。ホソユキってなんだ?って」「三島由紀夫なら『潮騒』も『金閣寺』も知っているんだけど・・・。三島由紀夫はクラスで2人知っていたかな」と彼はいう。とはいえ、読んだことはないのだが。「三島由紀夫は割腹したんでしょ。多いよね、自殺した文学者、芥川龍之介や太宰治、川端康成もでしょ・・・」 たしかに、有島武郎も・・・。

ひところ日本史が大好きだった彼も最近は世界に関心が移っている。世界の地理、歴史、政治経済・・・。ただでもヨーロッパやアフリカなどの国名、地名や人名などは苦手のところ、いろいろ解説してくれるが、彼の話についていかれない。3日もすれば、たいてい忘れてしまうこの頭。そろそろ相手にしてもらえなくなりそうだ。
身近な人びと

「まちあるき」 田園調布 古墳群

2018年10月23日
「おおた区民大学」の「歩いて発見!おおたの魅力」の2回目の会場は、東急多摩川駅前のせせらぎ公園の集会室。「田園調布 古墳時代から都市開発まで」というテーマで、東急電鉄の沿線企画課の平江氏と、田園調布八幡神社氏子会の赤羽氏の講座後はグループごとに歩いた。(「まちあるき」洗足池

東京急行電鉄という会社は、鉄道事業、都市開発、生活サービスという3つの柱、つまり「まちづくりの会社」という。明治36年の玉川電気鉄道(現在の田園都市線)から始まる長い歴史、そしてこれからの東急電鉄について、平江氏はクイズなどを交えて詳しく話された。

田園調布という街がどうしてできたか、渋沢栄一、五島慶太の経営手腕、知っているようで知らない裏話も面白かった。小田急線、京急線など他の鉄道会社は、街と街を結ぶために鉄道を通すのに対し、東急は鉄道を通して街をつくるのだときいて、田園調布の田園都市構想から今もつづく理念なのだろうと納得した。

    フリー切符
           2017.10.9

それにしても池上線の認知率は低い。東横線が75.5%、田園都市線が74%なのに対し、池上線は54.3%だとか。東急池上線開通90周年記念イベントの一環で、体育の日であり東急(109)の日でもある昨年10月9日、池上線全線が1日乗り放題「池上線フリー乗車デー」となった。

ちなみにこの日19万枚発行したところ、いつもの3.7倍もの人たちが池上線を利用したとのこと。このイベントのおかげで、認知率が63.7%にまで伸びたそうだ。 (東急線のイベント 池上線の10.9)

   台公園

予定よりだいぶ遅れて「まちあるき」に出発した。せせらぎ公園から浅間神社、多摩川台公園、国史跡亀甲山古墳から8つの古墳群を通り多摩川古墳展示室へ。4時を過ぎて見学者が館を出るとすぐに展示室は閉まった。ここでグループごとに記念撮影後、都史跡宝来山古墳まで公園内を歩く。

   多摩川
          台公園から

大田区は遺跡が多い、いいところだと話ながら、近くにいた2人と歩いた。ちょうど娘くらいの I さんが「久が原土器」(弥生土器)が多く発掘された久が原小学校出身ということ、高校は都立田園調布出身だということには驚いた。田園調布高校も縄文前期から弥生時代後期の遺跡。
クヌギやナラの実をを拾って縄文人気分。多摩川に近く、はるか昔から人々が生活していた大田区は遺跡の宝庫。発見されているだけで180ヶ所とも。住みやすい土地なのだと盛り上がった。  

    古墳群 :Click !
         古墳群 Click !

田園調布駅で解散後、駅前の「ピネード」で3人ともそれぞれケーキや焼菓子を購入。池上線沿線のI さんは少し遠回りして、2人と同じ電車で途中まで。車内でまるで女学生のように連絡先の交換をした。もともと参加者は大田区民がほとんど、Oさんと最寄り駅が同じということは驚くことはないのかもしれないが、何かのご縁があるように感じた。早速、翌週の講座の前にランチを一緒にということに。

この講座の3本柱は「地域の歴史・文化を知る」「地域の魅力を感じ、地域の見方を考えあう」「新しい仲間と出会う」だが、かなりクリアしたように思う。
旅・散策・イベント

雪化粧

2018年10月22日
昨日、関東地方では今シーズン初めての冬日となった。浅間山や甲斐駒ヶ岳では初冠雪が観測されたという。浅間山の初冠雪は平年より7日早く、甲斐駒岳では6日早く、どちらも昨年より4日早い観測だったそうだ。

昨日朝、環八を瀬田方面に自転車で走っていたところ、ジョギング中の男性が、跨線橋の金網の隙間から雪化粧した富士山を撮っている姿が見えた。自転車を止め、縦に富士山と線路、横にビルの合間の山も入れて金網の間から数枚。

    2018
            2018.10.20

       2016
             2016.1.25

この跨線橋の下は、東海道新幹線(品川新横浜)や横須賀線(西大井-武蔵小杉)などが走っている。数年の間に多摩川を挟んだ神奈川県側には超高層ビルが建った。近いうちにこの場所は富士見スポットでなくなるかもしれない。

この日はじゅんじゅんの保育園最後の運動会だが、予定が入っていて行かれず。ごんさんは敬老席で応援。
行きの車内で富士山の画像を皆に送った。富士山はいつになく真っ白、ビルが気にならないほど。

その後、早速、Kさんから「うわ~綺麗な富士山」と。西荻のFさんからは「うちの窓からも。富士山が真っ白!寒いはずですね」。
11時近く、「今、陣馬山頂上」と、Sさんから。「凄い、絶景!」とFさん。Sさんの画像には富士の手前の山々までくっきりと映っている。

   西荻
      Fさんから    杉並区

前日に送られてきた四川省の標高4600m、零下8度の山頂に立つ彼女の姿に驚いたばかりだったが、昨日は「今日は3300mの山小屋で過ごすことになりました」。そして、昨日の朝、陣馬山山頂からの富士山を拝んだという。

     陣馬山
     Sさんから  陣馬山頂上

陣馬山は、八王子と相模原市との境界にある標高854.8mの山。従来は陣場山の字が使われた。名前の由来は、北条氏の滝山城を攻めた武田氏が陣を張った「陣場」説、カヤ刈場であったことから「茅(チガヤ)場」から音が変化したとの説、馬の陣を張ったことから「陣馬」の文字が使われた説とがある。 1960年代後半に京王帝都電鉄(現:京王電鉄)が、観光地として売り出すために山頂に白馬の像を建てて象徴化した。 (Wikipedia)
旅・散策・イベント

「無尽燈」

2018年10月21日
今日は「あかりの日」。1879年の今日、エジソンによって開発された実用的な白熱電球が40時間点灯し実用的なものに至り、その偉業を称えて照明関係4団体により制定された。ちなみに電球を発明したのはジョセフ・スワンで、スワンの発明した白熱電球を「実用に耐えうる品」に改良したのがエジソン。

「あかり」とは、明るい光、光線。そしてともしび(灯)のこと。じゅんじゅんを連れて行った東芝未来科学館のサイエンスショーは小学生気分で楽しんだ。午後のテーマは「明かりのサイエンス」。アーク灯の仕組みを紹介、白熱電球の誕生とLEDの明かりとの違いを実験で解き明かしてくれた。(明かりのサイエンス) 

   サイエンスショー

絵の具やインクは色を混ぜると暗くなっていくが、無数にある光の色のうち、とくに「光の三原色」赤(Red)緑(Green)青(Blue)をあわせると白い光となるといわれる。これが不思議でならなかったが、「サイエンスショー」の実験を実際に観てやっと納得できた。

東芝未来科学館のヒストリーゾーンには、江戸末期から明治初期にかけて活躍した「東洋のエジソン」の異名も持つ芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者 田中久重が設計製作した「万年自鳴鐘」などが展示されていた。その中に、「無尽燈」もあった。

「無尽燈」は、田中儀右衛門久重(1799~1881)が製作、風砲の理(空気銃の原理)を適用した製品。無尽燈の発明は1837年頃であり、オランダ製空気銃の精妙な技術に新工夫を加えたために長年に渡り苦心を重ね、完成までに15年を費やした。その努力の結果、新しく作られた金属筒はオランダの機械の妙術を用い、さらに精密なものになった。ひとたび油を灯心に施せば、人体内の血液のように昇降循環して休むことはなく、そのため無尽灯と名付けたという。(東芝未来科学館 展示の栞より)

  無尽燈
      田中久重作  天保8年

これは夜でも仕事ができるような灯りが欲しいという悩みに対し、久重が作り出した今でいうオイルランプ。下部分は燃料の油を入れておくタンク。ここから空気圧で一気に灯芯まで油を送る仕組み。明るさはロウソクの約10倍。ガラスのカバーつきで風にも強い画期的な灯りで、京都や大阪の商人たちを中心に大ヒットしたという。

「無尽燈」には『維摩経』という大乗経典の中に説かれる寓話から「仏の教えが次々と伝わって尽きないこと、1つの灯火が無数の灯火の火種となる」という意味がある。「無尽燈」と名づけたことと関係あるのかもしれない。
「無尽燈」は庶民生活のニーズに応えて幕末期に流行ったらしい。『J IN- 仁』の中で、「無尽燈」が登場した手術の場面は強く印象に残っている。
旅・散策・イベント

大田区ゆかりの名馬の像

2018年10月20日
大田区の洗足池畔には千束八幡神社がある。神社の裏手の洗足池を望むところに、「池月」の像が、境内には大きな「池月」の絵馬が立っている。「池月」は「磨墨(するすみ)」と並ぶ名馬として平家物語にも登場する。

治承4年(1180)、源頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中、この千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。ある月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現れ、そのいななく声は天地を震わせるほどであった。家来たちがこれを捕らえて頼朝に献上した。馬体はたくましく、青毛に白い斑点を浮かべ、さながら池に映る月光のように美しかったので、池月と命名し頼朝の乗馬とした。(「名馬池月の由来」)

頼朝は先に「磨墨」を得て、さらにこの地で「池月」を得たのは平家討伐の吉兆であるとして、征旗を高らかに掲げたという。この故事から、千束八幡神社は「旗上げ八幡」とも。

「池月」像は、1997年に地元の人により建立された。父の入院中はよく母と外へ出たが、「池月」を見たいという母と洗足池を訪れたこともあった。像の下を通る度に「池月」を見上げていた母の姿を想い出す。句作に役立ったかどうかは訊きそこなった。
    
    池月像
       千束八幡の「池月」像
  
頼朝から佐々木高綱に与えられた「池月」は、同じく「磨墨」を与えられた梶原景季と宇治川の合戦(1184)で先陣争いをした。『平家物語』には、前方を行く景季に対し、池月に乗る高綱が磨墨の馬具の弛みを指摘、景季がそれを直している隙に高綱は先に川の中に馬を乗り入れ、向こう岸へと渡り、先陣の名乗りをあげたと書かれている。

  池月 磨墨
        池月       磨墨

「磨墨」は馬込の産といわれる。「馬込」というだけあって、馬込には馬にまつわる伝承が多く、馬の産地だったという説もある。「磨墨」は現在の南馬込辺りで死んだとされ墓も残っている。「磨墨」像があるのは南馬込の萬福寺。
萬福寺は、梶原景季の父、景時が源朝の命によって品川区大井に創建した萬福寺を前身とする。1320年(元応元年)の火災によって焼失したため、景時の墓と伝えられる五輪塔がある馬込に再建された。阿弥陀三尊、馬具、木造梶原景時座像は大田区の文化財。

義父の墓があるため、度々訪れている萬福寺だが、山門前の「磨墨」像にはほとんど関心を持たなかった。「磨墨」像が建ったのは、開創八百年記念の1986年、比較的新しい。

   磨墨像
       萬福寺の「磨墨」像

正治元年(1199)に頼朝が死去すると梶原一族の運命は暗転。景時は三浦義村、和田義盛ら御家人66人の連名の弾劾を受けて鎌倉から追放され、所領の相模国一ノ宮へ退いた。正治2年、景時、景季は一族とともに相模国一ノ宮を出て上洛を企てた。途中、駿河国清見関で在地の武士と諍いになり、弟たちは次々と討ち死。景季は景時とともに山中に退いて戦い、ここで一族とともに自害した。
なお、梶原氏と萬福寺の関係については、鎌倉時代の梶原氏ではなく、後北条氏の時代に馬込に勢を張った梶原氏と混同されているという説もある。
旅・散策・イベント

「高田馬場 流鏑馬」

2018年10月19日
体育の日、恒例の「高田馬場 流鏑馬」(新宿区指定無形文化財)が奉納された。戸山公園の近くに住むSさんに誘われて出かけた。まずは穴八幡宮へお参り。この神社は「1062年、源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀った」ことから始まり、1636年、ここに的場(高田馬場)が造られ、この八幡宮を守護神としたという。近くに的場の跡が残る。夏目坂上の来迎寺に墓参の折、穴八幡に一度だけ訪れたことがある。

   穴八幡宮
     流鏑馬像  穴八幡宮  

神事の間、待機している馬たちはサラブレッドだ。昔は一回り、二回り小型の馬だったのだろう。神事後、流鏑馬の会場となる都立戸山公園箱根山地区の馬場まで騎馬の練り行列がある。見物人は年毎に増えて5千人とも。前列で観たいので、学習院女子大学の煉瓦塀と色づき始めたトウカエデの並木の間を歩き会場へ先回りした。

  待機

「高田馬場 流鏑馬」は、八代将軍徳川吉宗が世継ぎの病気回復を祈願して奉納したのが始まり。明治維新後、長く中断されていたが、皇太子(今上天皇)誕生の際に再興。1979年からは毎年「体育の日」に都立戸山公園を会場として奉納されている。
ちなみに穴八幡宮の流鏑馬は小笠原流、ほかに武田流がある。6年前、りんりんと観た明治神宮の流鏑馬は武田流だった。(流鏑馬奉納

  戸山公園
    戸山公園 箱根山地区

神事、練り行列が長引いたせいで、午後2時開始予定から30分ほど遅れて始まった「流鏑馬」。立入禁止のテープと馬場の間に「若松町」「馬場下町」「高田町」などと書かれた招待席が用意されていたが、招待状がないので立ち見。2の的と3の的の間の前列、一眼レフカメラを構える2人のアマチュアカメラマンの後ろに陣取った。

   射手

水干(すいかん)を身に着けた射手が約200mの馬場(幅は約2mとか)を走り抜けながら3つの檜の的に向かって矢を放つ勇壮な神事。その勇壮な騎馬姿、的を射る快音が響き渡り歓声が上がった。皆中(3つ全て的中)した2人が褒美の羽二重を肩にかけ意気揚々と戻るのもみることができた。

  射手

流鏑馬とは的に射るのを競うだけではなく、矢をいかに素早く継ぐかも問われている。射手が矢を射るタイミングが遅れた場合はその矢で次の的を射るのではなく、矢は捨て去り、改めて矢を継ぎ次の的を射るのが作法だとか。このことから「矢継ぎ早」という言葉が生まれたのだとか。
旅・散策・イベント

治療の両輪

2018年10月18日
今までに大学付属病院、公立病院、いわゆる大病院から近所のクリニックまで、病院と縁が切れずにきたし、これからもお世話になることだろう。比較的遠くの漢方専門病院にも鍼灸院、整体院にも通ったものだった。  
  
漢方薬とのお付き合いは長い。自宅で煎じたこともあったが、内科などで処方されるのは保健適応のツムラの顆粒なので助かる。食間に飲むとされる漢方薬は、食後でも構わないといわれるが、外出先では飲めずに飲み残した漢方薬の多さに我ながら驚いている。その原因の1つはオブラートなしでは顆粒や粉薬が飲めないことにある。

  漢方薬 

最近は大学病院などにも東洋医学を専門とする科があることは知っていた。一般のクリニックなどでも漢方薬を併用する医師が多くなってきたように思う。8割にものぼるという調査もあるという。

先月、一時的な軽いめまいが1週間以上つづいた。過去2回は脳神経内科でMRI検査をしたが、今回はホームドクターに紹介状をお願いして、東邦大学(医療センター大森)の東洋医学科を受診した。不思議なもので、紹介状を受け取った次の朝からめまいは起きなかった。

朝一番で受け付けした初診の日。4頁もある質問項目に答えると、総合診療科へ。30分ほどの詳しい問診を受け、診療室に呼ばれたときは昼になっていた。T先生の丁寧な対応に感激。今まで抱いてきた大学病院のマイナスイメージは一挙に吹き飛んだ。2種類の漢方薬を処方され、1週間後、再診の予約。飲み損ないがちの漢方薬もしっかりと飲み、以前から考えていた「鍼灸治療」を受けることにした。

東洋医学科では「漢方薬を中心として、鍼灸、高度手技療法を合わせた人のこころと身体の全体を観る本格的な東洋医学の治療」を行うだけでなく、他科との連携、東西の医療を融合した「日本でしか出来ない治療」を目指しているという。漢方、鍼灸は治療の両輪、二本柱。この2つを合わせることで、取れにくい症状や体質的な改善に役立つという。

日本に中国から医学が伝わったのは5~6世紀以降。その際、多くの漢方処方薬や生薬、医学書がもたらされた。その後、中国の医学に沿って医療が行われていたが、日本の風土や気候、日本人の体質やライフスタイルに合った医学に進化していったという。

漢方薬の主な特徴は ①自然科学的で伝統的医学②心と体を一体としてみる③個人の体質・特徴を重視し、症状をみる(原因が特定できないものや「未病」状態でも治療できる)④天然物がベースとなった生薬を混合した「漢方薬」を使う(複数の症状にも効果)(気功と養生自然の草木がもつ甘味身近になった漢方薬薬が毒に 毒が薬に

  生薬
        生薬いろいろ 

西洋医学では病名を重視するが、漢方医学では症状を重視し、体質などによって処方が異なる。さらに1剤に複数の成分が含まれているため、複数の症状にも有効。漢方薬は、食品の延長のため、短時間で効果が出る漢方はあまり多くはないが、ある種の西洋薬でみられるような依存症や離脱症状はまったくないこと、さらに西洋薬に比べて平均薬価は1/5と安価なのは有難い。
ちなみに、風邪の場合、西洋薬なら解熱剤、鎮咳薬、去痰薬、抗菌薬、これらの薬で胃が荒れないようにする胃薬・・と数種類の薬を処方されることがある。これに対し漢方では1剤で補える場合があり、薬代も少なくてすむことになる。

病気と病院とは縁を切りたいところだが、そうもいかない。やっと安心して付き合えるところに出会えたのもめまいのお陰かもしれない。長い間つづいている耳鳴りもひょっとすると治るかもしれない。
つれづれ

ヘブン アーティスト

2018年10月17日
最近、上野公園でよく見かける「大道芸」。そばに「ヘブンアーティスト」と書かれた幟が立ち、大勢の観客が取り囲んでいることもあれば、数人がパラパラといったときもある。先月上野公園で出会った2人のアートが強く印象に残ったので、気になって調べてみた。

  上野
    上野公園  2018.7

「ヘブンアーティスト」とは「TOKYOアートタウン計画」の一環で、都が実施している大道芸人公認制度、およびそのライセンス保持者。 審査会(オーディション)で合格した大道芸人に対してライセンスが発行され、指定場所での大道芸を許可される。
これは主にフランスの制度にならったもので、質の高い大道芸人を選抜することで、都民に娯楽を提供し、また優れた大道芸人を育成する事を目的とした。審査会は年1回実施し、応募資格は住所、年齢、国籍(外国人は在留資格を有する者)、ジャンルを問わない。


7月下旬の.第一次審査(書類及び映像)、9月末の公開審査(今年の応募は247組、第一次審査を通過59組)をパスした人にライセンスが交付される。
上野公園のほかに代々木公園、東京国際フォーラム、東京ドーム、井の頭恩賜公園、お台場海浜公園、パルテノン多摩などが主な活動場所らしい。2011年の東日本大震災発生以降、被災地にヘブンアーティストを派遣しているとも。
3年前、井の頭公園でみた大道芸も、この「ヘブンアーティスト」だったことがわかった。

  井の頭公園
     井の頭公園      2015.12
  
都美館で「院展」をみての帰りに出会ったのは、色とりどりのスプレー缶(ペンキ?)で画を描いていくアーティスト。周りには大勢の人が集まっていた。スプレーしながら、滝のある風景を描いていく。時に細かい調整、最後には蝶が飛び、女の子のシルエットが現れた。

 3800no4.jpg

一方、同じ日の公園のパフォーマンスは強烈だった。広場の真ん中に立つアーティストの「人間彫刻」。顔、髪の毛、メガネ、スーツも靴も、鞄もすべて真っ白、台の上で動かずにいた。銅像やモニュメントが多い上野公園内では目立たないのか、気づかずに通り過ぎる人が多い。

   上野公園
    上野公園

そばに観客はいなかった。様々なシーンでポーズをとるという。遠くから見たときに手が動いたが、その後、数分間、斜め後ろから離れて見ていたがまったく動かなかった。白く塗られた台にはQRコードがついていた。日本でもいよいよ投げ銭のかわりにQRコード決済でチップを受け取るということか・・・?
ちなみに、パントマイムのテクニックを身につけ、大道芸の世界に入ったというShiba氏は 2002年に 「ヘブンアーティスト」ライセンスを取得。日本人をテーマにした人間彫刻「白いサラリーマン」で有名だとか。
絵画・博物館

この辞書があれば・・・

2018年10月16日
今日は「辞書の日」。1758年のこの日に、米国の辞書製作者ノア・ウェブスターが生誕したことを記念するもの。
ウェブスターは「アメリカの学問・教育の父」と呼ばれ、アメリカが言語においてもイギリスから独立すべきであるという愛国心に燃え、アメリカ特有の単語、新語義や用法の採録に力を注いだ。また、アメリカ式のつづりを提唱し、-reではなく-er(centerなど)、-ourではなく-or(colorなど)、-iseではなく-ize(nationalizeなど)といったつづり方を定着させたという。

父母の残した辞書は多く、父の没後、国語辞典と漢和辞典を1セットずつ3部屋におき、その他は図書館に寄付した。現在、わが部屋には「大辞林」「大字源」のほか、「故事ことわざ辞典」「「日本名言名句辞典」「日本故事・名言辞典」「四字熟語の辞典」「現代用語辞典」「類義語辞典」の辞典類と「江戸東京学事典」を置いてある。「江戸東京学事典」を除くとほとんど使うことがないが、「四字熟語の辞典」など父の字で書き込みがあるものは処分できずにいる。父の書棚には国語辞典や漢和辞典を数種類、母の茶道関係の辞典もそのまま。リビングにも国語辞典、漢和辞典を置いてあるが、滅多に開かない。

   辞典類

そういえば、わが家に英和、和英の辞書がないことに気づいた。中国語の辞書は棚の奥にしまったまま。国語辞典も漢和辞典も英語も中国語も電子辞書に頼り切っている。中国語の電子辞書は4台目。中日、日中、現代漢語、漢英、英漢など中国語系はもちろんだが、英語系、国語系も充実している。百科事典も2種、ビジュアル科学大事典、大世界史など、会話、日本文学、世界文学などなど、いろいろ入っていて楽しい。(学び直したい中国語

      中国語電子辞書
   コンテンツ
     国語系 中国語系 英語系

電子辞書はスマホ検索より便利だと思えてきた。見出し語に調べたい言葉を入れさえすれば、収録されている辞書を横断的に検索して表示してくれる。スマホの場合、アプリには複数の辞書を横断的に検索する機能がない。検索エンジンを使えば、そういった調べ方も出来るが、検索結果に求めるものが上方にあるとは限らない。さらに電波が弱かったりネットに繋がりづらいこともある。せっかくの便利なツールだが、まだまだ使いこなせないでいる。(翻訳アプリ今どきの電子辞書

最近はその電子辞書さえ使わずに、スマホの「Google 翻訳」アプリを利用することが多くなった。りんりんの英語学習もだが、桂花会の中国語作成もついついこの翻訳アプリに頼っている自分に気づく。これではいけない。

  スマホ
    「Google 翻訳」アプリで

「デジタル三種の神器」がパソコン、デジカメ、携帯電話だったj時代があった。今はパソコン、スマホ、電子辞書だろうか。携帯電話はスマホやタブレットにかわった。 (日進月歩は道具ばかり
スマホで撮った画像や動画がすぐに「Google Photo」からタブレットやパソコンでも共有できるようになって、デジカメは使う機会が減った。先日など久しぶりにデジカメで撮ろうと思ったら電池切れという有様。

ときどき「無人島に持って行くなら、この電子辞書かな」と思うことがある。無人島ではパソコンどころか、タブレットもスマホも使えない、通信もネット検索もできないが、この辞書なら電源がなくとも乾電池でも使える。乾電池さえ大量にあれば、電子辞書だけでしばらくは楽しめるかもしれないのだが・・・。
つれづれ

「まちあるき」 洗足池

2018年10月15日
どこで手に入れたのか覚えていないが、「おおた区民大学」の案内冊子をみていると、さまざまな講座があることに驚いた。区民大学は、「社会、歴史、人権などに関連した様々なテーマを学び、生涯にわたって生活を充実させる講座や地域社会に密着した課題を取り上げ、より誰もが住みやすい地域社会づくりを進める講座」
  紹介
その中で、第1回目の「江戸開城150年 勝海舟が愛した千束の池」に魅かれて「歩いて発見!おおたの魅力~新たな仲間と歴史・文化の薫りを訪ねて~」(5回連続講座 無料)を申し込んだ。2回目は「田園調布 古墳時代から都市開発まで」で、どちらも「まちあるき」がある。洗足池、そして田園調布、古墳群は何度も歩いたことのある場所だが、講座を受けてからリーダーの案内で歩く池畔や古墳群はまた違った楽しみがある。

1回目は、洗足池風致協会(ボートハウスの2階)が会場だった。洗足池風致協会が洗足池周辺の自然を守ってきた長い歴史を知った。また、千束と洗足の地名の由来や歴史、さらに「洗足軒」が勝海舟の幕末「回顧・記念の地」ということ、海舟の墓地や西郷南洲(隆盛)の留魂碑について、さらに来夏にリニューアルオープンする海舟の記念館(旧清明文庫)について。
この日は「(仮称) 勝海舟記念館」から仮称がとれて、「大田区立勝海舟記念館」となった日だった。(勝海舟と洗足池勝海舟のヒューマニズム勝海舟と大田区

  池畔
    まちあるき スタート

  海舟墓
    海舟夫妻の墓   西郷南洲 留魂碑

6,7人のグループに分かれてまずは図書館前から改修工事中の海舟記念館前に立ち寄り、海舟夫妻の墓の前へ。墓前の「海舟先生墓前」と刻まれた水盤裏面の40数名の寄付者の名前は剥離がひどい。剥がれている部分に徳川慶喜の名もあったのだろうか。『大田区史探訪』(植田浩一 著)には、「海舟五輪塔の『海舟』の文字は慶喜筆と伝えられるし、またのちに供えられた墓前の石の花立の銘にある家達の名を見れば、水盤寄附者の剥落したところには慶喜と家達の名があったに違いない」と書かれている。(洗足池の記念碑

   水盤
銘に刻まれたうち、知っているのは嘉納治五郎、津田仙、目賀田種太郎、榎本武揚くらいだった。津田仙は、津田塾創設者の津田梅子の父で、海舟はこの人の斡旋で池畔の土地を買った。目賀田種太郎は海舟の三女の夫。  
  
  湧水
   清水窪湧水路  水生園付近 

かつて洗足池には周辺の谷から4つの湧水が流れ込んでいた。洗足池は灌漑用水のために堰き止めてできた人工の池。現在は清水窪湧水のみが流れ込む。

  白鷺
    鯉の餌を狙うサギ

 夕景

洗足八幡神社、池月像の前を通り、池月橋を渡った頃には4時を過ぎていた。「まちあるき」しながら仲良くなったOさんと2人、駅へ急いだ。海舟が好んだこの洗足池畔は度々訪れているので、とくに目新しいものはないものの、カワセミやメジロ、ムクドリ、白サギやカモメなどまるで野鳥観察公園のような池が大田区にあるのは嬉しい。桜の春もいいが、これからの晩秋から冬にかけての風景がもっとも好きだ。
旅・散策・イベント

築地市場の思い出

2018年10月14日
築地市場の思い出はいくつもある。子どもたちが小学校低学年のことき、今でいうママともだったSさんのご実家が築地でマグロの店を構えていたことから、数人のママたちで年末に買い出しに出かけたことがある。豪華なお正月は3年ほど続いただろうか。

    築地市場
             2012.8

絵の仲間と、あるいは1人で場外市場には何度か行ったが、りんりんの夏休みの自由研究のために場内見学に行ったときのことがもっとも印象に残っている。豊洲移転のニュースで度々耳にするターレット(ターレ)に乗ったことを懐かしく思い出す。(りんりんと築地市場へ築地市場で
 
   ターレ
         青果市場のターレ

卸売市場をはじめ工場、倉庫、駅構内などで荷役用として広く利用されている運搬車「ターレットトラック」。この車にはナンバープレートもついている。ターレット、ターレ、市場関係者はバタバタ、パタパタともいうらしい。
確か写真があったと、フォルダ内を探しだした。りんりんの自由研究のためだったから7月か8月、小3、4年あたりと見当をつけて。6年前の8月、彼が3年生のときだった。

   ターレ 
            2012.8

たまたまターレでやってきた人に場所を訊ねたことから、りんりんだけでなく、娘も私もターレに乗せてもらった。思ったよりスピードが出る。「ここが活魚、干物の売場、鮪の売場、加工品・・・」説明をききながら、ふり落とされないように左手で捉まって右手でシャッターを押した。

  ターレに乗って

昭和27年(1952)、14歳のときから働いているという「大吾」のオジサンは現在80歳?!もう引退されただろうか。豊洲市場に行くことがあったら、この店を訪ねてみたくなった。この写真をもっていこう。
   
築地市場は、東京都中央区築地に1935年から2018年まで83年間に亘って使用されていた公設の卸売市場である。2018年10月6日に営業を終了した。10月11日に豊洲市場が開場し、同日解体に着手する。東京都内に11か所ある東京都中央卸売市場の一つ。その規模は日本・世界最大であり(面積では大田市場の方が広いが、取引金額は大田市場より大きかった)、代表的な卸売市場であった。 

Wikipediaをみると11日現在、築地市場はすでに過去の市場になっていた。また、築地の終了と関係はないだろうが、せっかくできた「下丸子マルシェ」がわずか2年で閉じた。じゅんじゅんと行く「マグロの解体ショー」も楽しみだったのだが。さびしい限りだ。(マグロっておおきいんだ
旅・散策・イベント

九里よりうまい十三里

2018年10月13日
今日は「さつま芋の日」。「栗(九里)より(四里)うまい十三里」(9+4=13)」の「十三里」とはさつま芋の異名から。
宝永年間、京都に焼き芋屋が登場。その店の看板に「八里半」と書かれていたことからさつま芋を「八里半」と呼んでいたという。 当時、さつま芋は蒸し芋だったが、焼いたさつま芋が栗の味に似ていたことから 「栗(九里)にはやや及びませんが」という洒落で「八里半」と名付けたらしい。

   焼き芋
寛政の頃、焼き芋は江戸にも伝わり、京都と同じように焼き芋屋は「八里半」の看板を掲げた。小石川の焼き芋屋が、「栗(九里)より(四里)うまい十三里」と洒落て「十三里」と名付けたところ 、江戸っ子にウケて評判を呼び、今で言うところの大ヒット商品となったという。また、当時美味しいさつま芋の産地として知られていた川越が、江戸から十三里(約52km)のところにあるため、「十三里」と呼ばれるようになった、という説もある。

  焼き芋屋
       清澄庭園前 2009.11

街中を昔はリヤカーで、最近は軽トラックの移動販売で購入するのが冬の風物詩だった「焼き芋」だが、最近はスーパーマーケットの店頭などで気軽に買えるようになった。
わが家から比較的近いところに2店舗あるマルエツの店頭では、夏場を含む1年中、焼きたての焼き芋を販売している。この背景には、さつま芋を焼く機械の進化があり、従来のガス式では室内調理は安全上なかなか難しかったが、登場した「電気式焼き芋機」が浸透してきたそうだ。

りんりんの夏休み、家庭科の自由研究で始めた「リボベジ」の中でも楽しかったのがさつま芋だ。真っすぐ上に伸びるもの、這うように伸びるもの、個性豊か。研究?は終ったが、芽を出してから3ヶ月近く経つが、今も観葉植物として楽しんでいる。(「リボベジ生活」の中 「リボベジ その後」 「薩摩のサツマイモ」

     さつま芋
さつま芋はデンプンが豊富で、エネルギー源として適しているだけでなく、ビタミンCやE、カリウム、食物繊維を多く含み、加熱してもビタミンCが壊れにくいという特長がある。さつま芋に含まれるアントシアニンが初期の肝機能障害を軽減、コレステロール値を低下させ、血圧を下げる効果もあるという。

     焼き芋
              2018.10

さつま芋の効用をあらためて知ったこともあるが、ごんさんが焼き芋が好きということもあり、今年は夏からスーパーの店頭の焼き芋を何度か購入した。とにかく自分で選べて安いのがいい。
何でも、秋の焼き芋は、とても美味しいことから、「十三里」より美味しいという意味で「十三里半」と呼ばれることもあるのだとか。
これからは旬。「十三里半」の焼き芋を楽しもうと思う。
つれづれ

フローズンヨーグルト

2018年10月12日
最近、「フローズンヨーグルト」のお店が増えてきているらしい。フローズンヨーグルトの乳脂肪分は0.5~0.6%ほど。口当たりのよいなめらか食感が味わえるのと、好みのトッピングができるのも人気の秘訣のよう。

1970年代にニューイングランドで、フローグルト(Frogurt)の商品名で販売され、当初は、健康のためにヨーグルトを摂りたいが酸味が苦手な人に向けた商品だったという。80年代には甘味のフローズンヨーグルトが生産され、90年代初頭にはデザート市場の10%を占めるまでになったとか。

今年6月、ごんさんが見ていた「ぶらり途中下車の旅」(日本テレビ)で紹介されたフローズンヨーグルトの店ノースヘヴンが池上線千鳥町駅近くにあることを知った。
 
       3766no2.jpg
       ノースヘヴン
  フローズンヨーグルト
           サイトより

アメリカでは、アイスクリームより低脂肪・低カロリーだと話題のフローズンヨーグルト。専門店にはセルフで盛り付けるマシンが並び、トッピングも自由に選べるとあって幅広い年齢層に人気だという。
「ノースヘヴン」は、渡米経験のあるオーナーが、日本ではじめて2015年にコーヒーバーを兼ねたフローズンヨーグルト専門店。

  店内

いつか行ってみたいと思っていたこの店に、先月の絵の集まりの後、2人のKさんにつき合っていただく機会があった。ヨーグルトのフレーバーは4種類。この日はプレーン、バナナ、チョコ、紫芋の4種類だったか。トッピングもドライフルーツやゼリー、カステラ、クレープなどいろいろ。
カップを受け取り、自分で好きなフレーバーのヨーグルトを入れ、トッピングを選んで重さをはかって会計(10g=¥35)。フレーバーも飲み物も3人それぞれ。楽しかった。

   セルフ
            遠慮がち? 

2階はパーティなどの貸切もできるフロアーだという。ソフトクリームタイプのヨーグルトもさっぱりとしたあと味、トッピングにクレープを選んでお腹いっぱいになり、少し後悔したが、ホットコーヒーも美味しく、期待以上だった。

       1階席

壁に貼られた「都内で食べられるサンドウィッチ10選」の写真のサンドイッチも美味しそうだった。今度、Oさんをランチに誘ってみよう。
旅・散策・イベント

「イルカが出てきたよ」

2018年10月11日
東日本大震災から7年7ヶ月。東日本大震災の津波で大きな被害に遭った石巻産カキに宮城県内の約5割を占める漁協3支所が国際認証を取得、9月29日出荷開始したという。

宮城のカキといえば、りんりんたちと炭火を囲んで牡蠣や帆立など焼いて食べたことを思い出した。東北を応援しようと、都内唯一の屋上観覧車がある「かまたえん」(蒲田東急プラザ屋上)に「牡蠣小屋」が冬期限定(~3月末)でオープンした。今年も開かれるのだろうか。屋上に牡蠣小屋

   カキ小屋
    冬期限定 カキ小屋  2015.1 

休日のしながわ水族館は比較的混んでいた。館内をひと巡りしてから公園の外へ出てランチ。(久しぶりの水族館
ごんさんとじゅんじゅんが再び入館している間、「マリンショップ」に入った。いろいろなグッズの中、目に留まったのは「海玉」「クラ玉」「ペン玉」といった「たまご」。

   3781no4.jpg
        「海玉」

「たまご」を水の中に入れておく。カラが割れるまで2日くらい。大きくなるまで3日くらいかかるという。たとえば「海玉」は、マンボウ、カクレクマノミ、オニイトマキエイ、ホホジロザメ、イルカ、ジンベエザメの6種類の中のどれか1つが生れる。「クラ玉」はクラゲ、「ペン玉」はペンギンが出てくるらしい。

   「海玉」
      「なにが生まれるかはお楽しみ!」  

彼はディズニーのキャラクター「ニモ」のモデルになったカクレクマノミが気にいっている。「ニモ」が出てくるといいなと思い、購入した「海玉」をじゅんじゅんに渡した。

  イルカ
   
数日後、LINEで「イルカが出たよ」と画が送られてきた。彼の好きな「ニモ」ではなかった。後日、たまごのカラを割って出てきたイルカをみせてもらった。想像以上に大きかった。水の中に入れると横に寝てしまうのが少々残念。
身近な人びと

久しぶりの水族館

2018年10月10日
毎月10日は「お魚の日」。魚(とと)の語呂合わせから全国水産物商業協同組合が制定。ちなみに3(さ)か7(な)の語呂合わせで3月7日が「さかなの日」として、毎月「3か7の付く日は、さかなを食べよう」をスローガンに、さまざまな魚食推進キャンペーンを実施している。

最近のじゅんじゅんはプラネタリウムや科学館などより、動物園や水族館の方が好きなようだ。東芝科学館で購入した天体望遠鏡で夜空を眺めたのも最初だけ。中秋の月を観たかったが、わが家に持ってきたのはそのあとの雨つづきの日になってからだった。

先月、しながわ水族館にごんさんと連れて行った。日曜だったせいか、JR大井町駅前からの無料水族館行バスは混んでいた。りんりんとは何度か訪れた水族館だが、じゅんじゅんとは初めて。PCをみると、ゆうゆうとあいあいと訪れたのは5年前の夏。

 2011.12
     クリスマス 2011.12
  2013.8
     ザリガニ釣り 2013.8

じゅんじゅんは、ディズニーのキャラクター「ニモ」のモデルといわれるカクレクマノミなどお気に入りの魚の前では見入っていたが、たいていは小走りに通り過ぎる。
カクレクマノミは、海水魚の中では初心者向きで、知名度も飼育者数も共にナンバーワンといっても過言ではないとか。 熱帯のサンゴ礁に生息し、日本近海では奄美大島以南で 約6種類ほどみられる。 イソギンチャクと共生することで知られる。

   カクレクマノミ
        カクレクマノミ 

   フウセンウオ
   フウセンウオ   ムラサキハナギンチャク

フウセンウオは、日本では北海道周辺などに生息している。体長は10cmほどになるダンゴウオの仲間。その名の通り、風船のような丸い体型が特徴で、体にはコブ状の突起が見られる。また腹鰭は吸盤状に変化していて岩や海草などにくっつくことができる。
水槽のガラスに下向きにくっついている姿はおかしかった。
ムラサキハナビンチャクは、本州中部から九州の内湾の水深30m付近に生息する。若い個体はすべてオスで、成長するとメスになる。

    ちんあなご
          ちんあなご

  アカクラゲ
    アカクラゲ     ミズクラゲ

アカクラゲは、全国各地に生息。傘の表面に16本の筋がみられるのが特徴で、蚊さ縁から餌を捕まえたり、刺胞を備える40本の触手が伸びていて、さされると非常に痛いとか。
ミズクラゲは、北海道の一部を除く全国各地に生息。このクラゲは触れても強い痛みを感じることはないが、毒を持つ。
それにしてもこれほど多くの種類のクラゲがあるとは知らなかった。よく見ると少々グロテスク。

  クラゲ *Click!
        *Click!

  ペンギン
  ペンギン
       マゼランペンギン

マゼランペンギンは、南アメリカの大西洋岸、太平洋岸とフォークランド諸島などに生息している。今年5月、オスの「黄青栗」、メスの「青白」のカップルから誕生した「メイ」を含め、現在15頭羽が飼育されている。
旅・散策・イベント

神輿の渡御

2018年10月09日
秋祭りの季節。9月になると新田神社「鎮座660年大祭・氷川神社例大祭」のポスターを街のあちこちで見かけるようになった。鎌倉幕府を倒した新田義貞の子義興(よしおき)が武蔵国矢口で謀殺された10年後、弟の義岑(義峯)が上野国で戦死したことで新田氏は事実上滅亡した。義興の祟りを鎮めるために新田神社が創建された。江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であるということから武運長久の守り神として栄えたという。(古多摩川の跡を歩くⅡ破魔矢発祥の神社 歌舞伎「神霊矢口渡」

新田神社には「武者行列」以来だろうか。出かけてみようと思っていたところ、大型の台風24号が接近。雨に祟られた大祭となった。
土曜日は雨。夕方、病院の帰りに足を延ばして神社に行ってみると、屋台は出ていたが、営業しているのは「金魚すくい」くらい。境内にもほとんど人はいない。雨の中、本殿の屋根の下で夜からの和太鼓と笛のライブのためのリハーサルが行われていた。

  二日目
  リハ
      
「神輿渡御」の日曜は朝から雨。神輿の巡行図をみると、8時に新田神社で「御霊入れ」の後、氷川神社や町内の巡行が始まり、午後4時に「宮入り」の予定。荒天のみ中止というが、果たして行われているのだろうか。と思っていると、昼近くになると空が明るくなってきたので出かけた。

「宮出し」は、神社の宮神輿を神社から担いで出すこと。「宮入り」は、神輿 が渡御 (とぎょ) を終えて神社の境内に入ること。「神輿」を担いだ時に激しく揺するのは、神さまを目覚めさせ、願いを叶えてもらうためだとか。

神社近くに来ると、嵐の前の静けさ? 前日の雨の中に出ていた屋台もなく、人通りも少ない。ハッピを着た人が何人もいたので、神輿はどこかにいるようだ。尋ねると、朝、予定より遅れて出発した神輿は立ち寄る先をかなり省略して、昼過ぎには「宮入り」になるとのこと。戻って来るのを待つ人、三々五々戻ってくる人もいる。お囃子を流す軽トラに先導されて神輿がみえてきた。

   3799no5.jpg
   3799no4.jpg
神社に先回り。なかなか戻ってこないので近くのカフェに入った。ランチを済ませて、神社に戻ってみると、ちょうど「宮入り」のクライマックスだった。本殿前で前進、後退を繰り返し、最後、拍子木を合図に神輿は置かれた。

    宮入り
            宮入り

すると担ぎ手の2人が、鳳凰がくわえていた稲穂を外し、まるで豆まきのように投げ始めた。正面に移動してみていると、運よく前の人の背中に稲が数本とまったので、1本いただいてきたのだが、神棚はなし、どこへおけばいいものか。

   稲穂
   稲穂

古来中国で尊ばれてきた鳳凰が飛ぶと、乱れた世を救う聖人が現れるといった言い伝えから、いつしか神輿に鳳凰が取り付けられるようになったとか。鳳凰がくわえている稲穂は五穀豊穣の感謝の意を込め飾り付けられるという。
旅・散策・イベント

「木づかい」月間

2018年10月08日
今日は24節気の1つ「寒露」。寒露とは、晩夏から初秋にかけて野草に宿る冷たい露のこと。秋の長雨が終わり、本格的な秋の始まりになる。大気の状態が安定して空気が澄んだ秋晴れの日が多くなり、夜には月も美しく輝いて見える。

そして「木の日」。漢字の十と八を組み合わせると「木」になることに由来。世界全体の森林面積の平均は3割程度だが、国土の2/3が森林の日本は、 フインランドやスウェーデンのようにトップクラスの森林国。世界規模では森林は減っているが、森林率と森を維持するため「伐採した木の分だけ苗木を植える」という制度がある日本では、過去150年間、森林面積は大して変化していないという。

江戸時代から明治時代にかけて森林の乱伐が進み、戦後まもない頃、材木が足りないということで、聖地のように扱われていた処女林からの切り出しが奨励され、成長の早い外来種の杉が植えられた。その後、それらの杉は強い繁殖力で大量のスギ花粉を出し、全国に多くの花粉症患者を生み出すことになった。

林野庁は、木材を利用することの意義を広め、国産材利用を拡大していくための国民運動として、「木づかい運動」を展開している。毎日の生活に国産材を使った製品を取り入れるだけで、誰でも手軽に始められるエコ活動、それが「木づかい=木を使うこと」だという。

    木製品

こうした「木づかい」は、山村を活性化し、CO2をたっぷり吸収する元気な森林づくりを進める「森林への気遣い」でもあるという。とくに10月は「木づかい推進月間」として、今年も様々なイベントが全国各地で開催されている。

やはり木はいい。わが家を見回すと、祖父母がつかっていた木製のものがいくつかある。桐箪笥、衝立、座卓、桐火鉢、裁縫箱などからステッキや木魚まで、気に入って処分できずにいたものたちだが。ステッキはさすがに仕舞ったままだが、大小各2つある桐の火鉢は蓋をして腰掛やプランターとして重宝している。

    座卓
      火鉢

林野庁のサイトには「木づかいハンドブック」に「ウッドデザイン賞」の製品のほか、たまに立ち寄るアトレ四谷店やリニューアルされた東急池上線戸越銀座駅が紹介されていた。

戸越銀座駅は、都内の鉄道施設で初めて都の「森林・林業再生基盤づくり交付金事業」でリニューアルされた。開業88年の既存駅舎の歴史を継承、都内で産出された木材を使うことで森林資源の循環利用を促し、東京の森林、環境保全にも役立っている。鉄骨造に比べて建設段階の二酸化炭素放出量を約100㌧削減できたという。(木になる駅舎

戸越銀座駅
 戸越銀座駅

こういう木に囲まれた駅のベンチに腰かけていると、一電車見送ってもいいかなという気になってしまう。
植物など

中秋の日に

2018年10月07日
先月の桂花会の「好きな中国の場所」に選んだのは、13年前に呉さんの案内してもらった「福建土楼」。添える数枚を13年前の写真をPCフォルダから選ぶのにずいぶんと迷った。その際、旅から帰ってまもなくMさんが撮った画像も一緒にしてつくった旅の画像記録をみつけた。その中の土楼を訪れた2日間の4枚をプリントして添えることにした。

3795no1.jpg
     旅の記録  *Click !
福建土楼 *Click
    「福建土楼」 *Click !

中秋節の朝、その呉さんから電話があった。前の晩に来日したばかりだという。呉さんの人脈の広さ、のちに世界遺産に指定された和貴楼の古老の話、運転してくれた洪さんがお茶の味にうるさいことなどなど。いろいろなことを思い出しながら2頁の紹介文をつくり終えた、そのタイミングでかかった呉さんからの電話に驚いたのは言うまでもない。
現在、彼は石獅市(福建省)で霧栽培の農場の経営者。 
呉さんの試験農場呉さんの農場

早速、この日、彼の東京での滞在先、大井町で、楊さんとも3人でランチを一緒することに決まった。楊さんとは初対面だった。日本語はまったく不自由ない。彼らは留学先の日本で知り合ったそうだ。
楊さんはAI 専門、日本の大学院卒業後は東芝に10年ほど勤めていたそうだ。数年前、中国で企業したが、うまくいかず、現在は日本でIT関連会社に勤務。楊さんは、若く見えるが呉さんと同い年で、中1の男の子の父親だとか。

それにしても月日が経つのは早いもの。呉さんの結婚式にはKさんと厦門(アモイ)まで、長男Uくんが生れたときは、Sさんとりんりんとで沼田(群馬県)までお祝いに駆け付けたこともあった。そのU君が9月から6年生、Yちゃんは保育園の年長さん。(呉さんのこと中国の結婚事情

    仲秋節
        呉さんから

この日、2人とWeChat開通。早速、夕方には「祝您及家人中秋节快乐 ! 吉祥如意 ! 合家幸福 !」と中秋節の挨拶をした。呉さんからは画像で、楊さんからは「很高兴认识您 ! 也祝您吉祥如意 ! 合家幸福 !」と。

   大禹嶺
       大禹嶺

2日後の桂花会のお茶会に呉さんが飛入り参加。この日はM氏のリクエストで台湾茶。お菓子は手作りの「重陽餅」。世界一高所で採れる「大禹嶺」、お馴染みの「東方美人」「凍頂烏龍」の台湾の高級烏龍3種。美味しいお茶をいただきながら台湾の高山茶や武夷山の岩茶の話など、呉さんを交えて楽しい時を過ごした。
旅・散策・イベント

「福建土楼」の想い出 Ⅱ

2018年10月06日
呉さんの案内で福建省の「客家土楼」を訪れてから13年も経った。10年近くの間に何度か訪れた中国だが、もっとも行きたかったのがこの山の奥だった。が、もっともゆっくり過ごしたかった場所がもっとも慌ただしい旅となった。(福建土楼の想い出 Ⅰ

<南靖県> 1万5千の土楼がある。永定県の土楼に比べると、比較的新しいが、500年以上の土楼が20以上ある。 
   春美楼
    中庭
         春美楼 

     和貴楼
      世界遺産 和貴楼

    方形
      和貴楼近くの方形土楼       

     スケッチ *Click!
       スケッチ *Click!

冷戦期にNASAがミサイル基地かと疑いを抱いたという土楼群だが、実際、現地で見てみると、その疑いも尤もだと思った。あのような山奥に突然、巨大な砦のような不思議な建物が見えたとしたら・・・。円形の土楼には死角がなく、敵から身を守る目的も大きかったはずだ。

現地で9元で購入した「中国的囲城ー福建土楼」には、「土楼建築の優れている点」として、「就地取材」(現地調達)「堅固耐用」「冬暖夏涼」「防御性強」を挙げていた。

かつての北京の胡同、四合院もそうだが、「客家の土楼」は、住まい方の理想とさえ思えた。マンションのような単なる集合住宅ではなく、大勢の人と動物とが、自然と共存しながら生活する・・・。親戚づきあいが少なかったせいか、こういった生き方に憧れるのだろうか。 
中国・中国の旅

「福建土楼」の想い出 Ⅰ

2018年10月05日
先月の桂花茶会は、暑気払いの集まり以来。M氏が検査入院、T氏がスペイン短期留学のために欠席だったが、メンバーのリクエストでSさんは「台湾茶」を準備された。発表のテーマはO氏が提案した「中国の好きなところ」。訪れた場所はどこも思い出深く、数日前から、いや、正確には2ヶ月近く迷っていた。結局、中国語学習を始めてからもっとも訪れたかった福建省の「客家土楼」(福建土楼)を選んだ。

この「客家土楼」は、2008年7月に「世界遺産」として登録され脚光を浴びる数年前から訪れたかった。当時通っていた「日中学院」で「夏の中国旅行」のチラシで目にした「客家(ハッカ)」や「土楼」という文字が気になり始めた。『中国民家探訪事典』でみた土楼の写真、さらに「人民中国」の特集記事を読んでから「土楼」をこの眼で観たいと思うようになった。

留学生の張さんに東京農大収穫祭で呉さんを紹介された時から「土楼訪問の夢」は、少しずつ現実に近づいて行った。呉さんの出身が福建省厦門(アモイ)だと知って、「客家土楼」はもっとも行きたいところだという話をした。それからの会話は日本語交じりで、もっぱら土楼の話。この日以来、呉さんとの交流がつづいている。(農大収穫祭

   呉さん

2005年、Kさん、Mさんと呉さんの案内で「客家土楼」を訪ねた。ちょうど春節のため、訪れた土楼の門や扉にはいくつもの春節を祝う「春聯」が貼られていたのが印象に残っている。世界遺産に登録された土楼は、廈門から150Km離れた永定県と、南靖県・華安県の土楼(総数3万以上)の内、12~20世紀に築かれた46の土楼。
呉さんのお陰で、わずか2日間で永定県と南靖県の特徴ある様々な土楼を観ることが出来た。(福建土楼への旅 Ⅰ福建土楼でみた春聯

「客家」(ハッカ)は、「客而家焉」(客ここを棲家とする)の言葉が示すように、「客」は客人ではなく、「よそ者」の意味。祖先の地である黄河流域の「中原」を離れて移住してきた漢民族が、辿り着いた地に先住民がいたため、やむなく山間部に居を構えた。    
「土楼」は、一般に4~5階建。方形楼、五鳳楼、環形楼がある。1家族の居住空間は縦に連なる。外壁の内側に祖堂、1階は厨房や食堂、2階が倉庫、3階以上が寝室。1つの楼には最大100戸以上、最大800人以上が住むところも。
       
<永定県> 方形4千、円形360を含む2万以上の土楼がある。14世紀、黄河流域の中原から南下してきた客家たちによって造られた。
永定客家土楼民俗文化村の「土楼の王子」と呼ばれる「振成楼」と「福新楼」を訪れた。「農家飯庄」では客家料理。
 
  振成楼
          振成楼 
     祖堂
      「祖堂」 走馬廊より

<初渓村 土楼群> 世界遺産 北斗星のように配置された土楼群といわれる。手前には川が流れる。
3791no7.jpg
            集慶楼
   初渓村
       土楼群 byMさん  

数ある土楼の中でもっとも行きたかった土楼群だが、もっとも遠く、滞在時間がもっとも短かくなった。Mさんが山頂で土楼群を撮影している間に下から土楼をスケッチするのがやっとだった。
中国・中国の旅

竹のこと

2018年10月04日
今年の「仲秋」は9月24日。渋谷のプラネタリウム屋上での鑑賞会行きは諦めて、ベランダからお月見。この晩、わが家からよく見えたが、目黒のYさん、国領のKさんのところでは雲で見えず、西荻のFさんのところでは雨だということをLINEで知った。
 
   月
          ベランダから 

月を眺めながら『竹取物語』にしばし思いを馳せた。竹取の翁によって竹の中から見出され、大勢の人たちに愛されたかぐや姫は、最後は月の世界に帰ってゆく。その日が「八月の十五夜の晩」らしい。

日本人にとって昔から大きく関わってきた竹。ひと口に竹といっても、分類の仕方や種類の数え方には諸説あるが、一般に竹は、国内だけでも約600種、世界には1200種ほどあるといわれる。竹は常緑性の多年生植物、毎年地下茎の節にある芽から新しい竹を誕生させ、わずか数ヶ月で立派な竹に成長するという特徴がある。1日にマダケで121cm、モウソウチクで119cm伸びたという記録があるという。

  洗足池公園
       洗足池公園      2018.5
   すずめのお宿公園
     すずめのお宿緑地公園 2010.5

筍は食料や飼料に、竹の皮も包装物や資料などに利用される。そういえば、昔はよく子どもたちの誕生会やスケッチに行くときに粽をつくったので、竹の皮は常備していた。葉はお茶や医薬に利用され、枝は生活材料や資材、竹稈は伝統産業やレクリエーションなど文化的利用のほか、建築資材、竹粉末、竹炭などや医療品、バイオエネルギーへの活用も。

白熱電球を実用化させることに成功したエジソンは、長持ちするフィラメントを作るため、さまざまな素材を試し、扇子に使われていた竹を使ってフィラメントを作った。その後、エジソンは世界中の竹を集め、フィラメントに最適の京都石清水八幡宮に生えていた竹に出会い、その竹から作られたフィラメントは1200時間の光を記録し、白熱電球が実用化される第一歩となった。(明かりのサイエンス

大田区の川端龍子記念館、かつてのアトリエ、自宅には、竹垣だけでなく壁や天井など随所に竹が使われている。川端龍子「第二の故郷」ともいえる伊豆修禅寺の孟宗竹を取り寄せたときく。(久しぶりの龍子公園秋の龍子記念館

   玄関へ
                   2017.7 
  アトリエ前
   
先月訪れた明大博物館の商品部門にはさまざまな工芸品などが展示されていた。中でも茶筅などの竹製品の製造過程がわかる展示は興味深い。奥には10種の竹が並べられていた。

    茶筅など

   竹
         亀甲竹 女竹 胡麻竹 四角竹 
旅・散策・イベント

薩摩切子と江戸切子

2018年10月03日
明治大学博物館の商品部門には、漆器、染織品、竹木工品、金工品、文具、和紙、陶磁器などが常設展示されている。先月訪れた時は、ちょうど「薩摩切子」の展示があった。

    薩摩切子

「薩摩切子」は九州生れの祖父母の時代から当たり前に食器棚にあった。斉彬時代のものではないだろうが、上品な色とカットのグラスは、夏、来客のときに活躍した。梅酒を注いだグラスを暗い廊下を応接間まで運んで行った母の姿をぼんやりと覚えている。当時、貴重だった氷がカラカラとあたる音が何とも心地よかった。今、そのグラスは1つしか残っていない。

切子(きりこ)とはカットグラスの和名。切子が名称に含まれるガラス工芸品は日本各地でつくられているが、伝統工芸品に指定されているものでは、関東、主に東京都で製造されている「江戸切子」がある。
江戸切子は天保期、加賀屋久兵衛というビードロ屋が西洋のガラスを真似てつくったのが始まり。現在のように色被せガラスを用いるようになったのは大正、昭和の頃から。江戸より前に色被せガラスの切子製造に成功したのが薩摩だった。

「薩摩切子」は、薩摩藩10代藩主島津斉興のガラス事業をきっかけに、11代斉彬によって本格的に製造されるようになった。江戸時代後期、日本の南端に位置する薩摩藩は諸外国の脅威から身を守るため、軍備増強を推し進める必要があった。その一環で、斉彬は薬瓶を製造するために長崎などから伝来した西洋のガラス製造書物を元に江戸からビードロ屋を呼び寄せている。当時、ガラス工場を見学したオランダの医師によると、100人以上がそこで働いていたという。
  
   切子
          江戸切子
    薩摩切子(緑)    薩摩切子(紫)
   
「薩摩切子」の衰退のきっかけは、斉彬の死と、薩英戦争。製造されていた期間は約20年と極めて短かったため、現存する当時の切子は少ない。現在、鹿児島県で製造されている「薩摩切子」は、1985年頃から島津家主導で始められた復元事業を契機としている。現存する「薩摩切子」や文献を参考に復元された。色は工房により異なり、主に紅、藍、紫、緑、金赤、黄。また、2色の色ガラスを被せた切子や、黒色の切子など新しい「薩摩切子」が誕生している。

   薩摩切子
     薩摩切子 (黄 瑠璃 藍 金赤)
 
同時期の「江戸切子」との違いは、透明無色なガラスに細工を施した「江戸切子」に対し、「薩摩切子」はより細かい細工(籠目紋内に魚子紋等)や色被せと呼ばれる表面に着色ガラス層をつけた生地を用いたものが多く、またホイールを用いた加工の有無が挙げられる。
   切子
     江戸切子       薩摩切子

現在つくられている両者の大きな違いは、被せている色ガラスの厚さとカットの角度。「薩摩切子」は一般的に1~5mm程度、「江戸切子」は1mm以下。「薩摩切子」は浅い角度でカットするために、「ぼかし(グラデーション)」が現れる。一方、「江戸切子」は深くカットを入れることで色の境目がくっきりとしている。
絵画・博物館

秋の台風

2018年10月02日
9月30日夜から10月1日朝にかけて東日本を縦断した台風24号は各地に爪痕を残した。非常に強い勢力で上陸し、速度を上げて一気に近畿から東北を通過、北海道東部の沖合へと進み、1日正午に温帯低気圧に変わった。1991年以来、1年に2個非常に強い勢力で上陸する台風ははじめてだとか。

関東でも暴風が吹き荒れ、八王子で45.6mを観測して、2008年の観測開始以来1位の値を更新。大規模な停電が起きたり、首都圏では倒木などにより鉄道の運転見合わせが相次いだり影響が出た。「都民の日」で都内の小中学校が休みだったのは幸いだったかもしれない。

日付が変わるころから南側の雨戸に雨が打ち付ける音が激しくなってきた。「Yahoo!防災速報」が出る度に警戒音が鳴る。大田区に設定してあるが、「激しい雨(33mm/h)」がわずか10分後に「非常に激しい雨(61mm/h)」に変わった。その30分後、日付が変わり0時10分には、「猛烈な雨(80mm/h)」が出た。
  
      3807no8.jpg
    23:30 23:40 0:10

窓の外の楓が激しく揺れ、雨のしぶきがガラス戸に打ち付けている。遠く松や欅があれほど大きくユッサユッサと揺れるのをみたことはない。
「雨なう」(気象庁の高解像度降水ナウキャスト)をみると、東京がどこにあるのかわからないほど、赤や黄色に覆われている。

 窓から
       0:30 揺れるケヤキ

   雨なう
     0:30    02:45  

床に戻るが、「豪雨予報」が出る度に目が覚め、「速報」をチェック、そして窓の外を眺めるの繰り返し。どのくらい眠ったのかよくわからないうちに最後の防災速報が入った。「発表中の気象警報がすべて解除 東京都大田区 5時4分発表」。そういえば、窓の外はだいぶ静かになっていたので雨戸を開けた。

  解除
    5:04 警報解除

 6:00
    6:00
6:00

 ゴーヤ ネット

夜が明けた。何ごともなかったような青空が広がっていた。雨は止んだが、風は強い。ベランダにはゴーヤ用のためにネットが外れて転がっていた。
昼近くに出かけた。道には飛んできた小枝や葉などが落ちていたが、倒木や屋根や塀が崩れたといったような大きな被害には出くわすことはなかった。駅ホームのラックからはマガジンやパンフレットなどがすべて片づけられていた。

  駅ホーム

太極拳では「ひどかったわね~」「眠れなかった・・・」といった声はきかれたが、参加者も多く、「八段錦」「二十四式」「練功十八法」と、いつもと変わらず。入会して半年近くなるが、なかなか覚えられずにいる。とにかくつづけていこうと思っている。
旅・散策・イベント
 | HOME | Next »