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新田義興にまつわる伝承

2018年11月30日
先日、「新田義興没後660年記念事業」の一環で「新田義興の奮戦と怨霊伝承」を聴く機会があった。「義興の生い立ちから南朝に於ける義興の役割」などを中心に、中世史専門の田中大喜氏(国立歴史民俗博物館)に貴重なお話を伺った。

室町時代の軍記物語『太平記』によると、延文3年、南朝方の勇将新田義貞の次男義興が家臣とともに、所領の上野国(群馬県)から足利基氏のいる鎌倉に攻め入る途中、足利方に寝返った旧臣に謀られ、「矢口の渡し」で舟を沈められて悲惨な最期を遂げた。義興は恨みを残して自刃したという。新田義興とともに討ち死にした家臣は、世良田右馬介、伊弾正忠、大嶋周防守、由良兵庫之助、由良新左衛門など13人。

矢口を中心とした多摩川下流域は、この事件の起きた場所であるため義興に関する伝説が数多く残されている。
この地域は、気象上、雷発生の道筋の終着点にあたるため、怨霊が雷火となって災いをもたらすという御霊、火雷信仰と結びつき、鎮魂、火除け、雷除けに関する言い伝えもある。義興の怨霊は夜ごと「光もの」となって人びとを悩ました。そこで村人が霊を鎮めるため墳墓を築き、「新田大明神」として祀ったのが新田神社の起こりといわれる。
   
    新田神社

この日の内容はあくまでも『太平記』ほか、史料に基づいた義興に関する話だった。この講演の2週間前、「新田大明神絵巻」修復後についての講演と見学会にも参加したが、新田神社関係資料や「大田区史」とは一部異なる点もあった。

 絵巻 *Click!
「武蔵野合戦」 *Click! (「新田大明神絵巻」)

武蔵野合戦(1352年)は、南北朝時代の「観応の擾乱」における合戦の1つ。武蔵国・相模国の各地において、足利尊氏ら北朝方の軍勢と、新田義興・新田義宗ら南朝方の軍勢との間で行われた一連の合戦。

義興はいつ死んだのか、義興の死亡年には延文3年(1358)と4年(1389)の2説ある。
後世に編纂された『喜連川判鑑』には「十月十日。新田義興ヲ武州矢口ノ渡ニテ誅ス。基氏武州入間川二御陣ヲメサル。武備厳重成ル二依テ東國静謐」(足利基氏延文三年条)とあり、同時代の史料『大乗院日記目録』には「十月十日、新田左兵衛義興自害於武蔵國、鎌倉左馬頭知之」(延文四年条)とある。
同時代史料という点を重視して延文4年説が妥当、田中氏は「新田神社には内緒にしておいてください?!」と。
延文4年とすると、今年は「鎮座660年」でなく、559年ということになってしまう・・・。

江戸時代、『太平記』は版本として大量に流通するようになり、さらに「太平記読み」と呼ばれた講釈師によっても人々の間に流布されていき、義興の怨霊伝承も社会に広く知られたとみられる。
人形浄瑠璃『神霊矢口渡』(福内鬼外=平賀源内)が上演され(1770)、後に歌舞伎としても上演された(1794)。江戸近郷の人々には義興に対する認識、関心がいっそう広まり、新田神社周辺にある豊かな義興伝承も、こうした社会状況のなかで生み出されたものだろうと、田中氏は締めくくった。

   神霊矢口渡
     吉右衛門の「神霊矢口渡」 2015 .11

3年前の11月、『神霊矢口渡』の長らく上演されなかった幻の場面が100年ぶりに復活、国立劇場に観に行った。多摩川で命を落とした義興の弟と渡し守の娘を描く四段目「頓兵衛住家」のみが上演されてきたが、この年三段目が復活した。100年前、初代吉右衛門が演じた由良兵庫之助を中村吉右衛門が演じた。(100年ぶりの通し上演
この年の9月、大田区民プラザで秩父歌舞伎『神霊矢口渡』を観たこともあって、それ以来、新田神社がぐっと身近になった。(歌舞伎「神霊矢口渡」Ⅱ
旅・散策・イベント

黒曜石の広がり

2018年11月29日
久しぶりに國學院大學博物館に出かけた。「縄文人と縄文文化の起源を探る―居家以岩陰(いやいいわかげ)遺跡の発掘調査2018」の特集展示はホールでの小規模展示。「きわめて良好な保存状態で発掘された縄文時代早期の埋葬人骨を中心に」研究成果の速報。
「群馬HANI-1グランプリ」にエントリーし、17位(/100)と健闘した「長久手の人物埴輪」に再会することも目的の1つだった。 (國學院大學博物館 土偶と埴輪群馬HAN I-1グランプリ

この博物館の常設展示は3度目、旧石器、縄文、弥生と土器を観る度にそれぞれの特徴を少しずつ掴めるようになった。
最近、関心があるのは黒曜石。明治大学博物館では実際に手に取って紙を切ったりした。その後訪れた都埋蔵文化財調査センターでも全国で出土した黒曜石が展示されていたが、國學院大學博物館では今までみたことのない大きな黒曜石に驚いた。

黒曜石
    北海道紋別郡 黒曜石 
  黒曜石
    神津島産 黒曜石

黒曜石(オブシディアン)は、ガラス質の火山岩。黒色または暗灰色、ときに赤褐色。火山から吹き上がった流紋岩や安山岩質のマグマが時間をかけて冷え、固まって出来た火山岩。火山活動のあった地域で豊富に産出されたため、宝飾品にしたり、割れた石の鋭いかけらをナイフや矢じり、槍の穂先などに用いたり、古い時代から人類と多く関わってきた。近年は焼いて粉末にし、断熱材などに使用する。また、黒曜石末は日本画の絵具として使う機会も多い。

火山の多くが爆発的噴火をして火山灰やデイサイトとして拡散する。急冷されてガラス質になる必要がある黒曜石は特定の場所でしかとれない。日本では約70ヶ所以上の産地があるが、良質な産地はさらに限られている。
後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地として北海道遠軽町、霧ヶ峰周辺、伊豆天城などの山地、海水に接して急冷される機会があった島嶼、伊豆諸島の神津島、島根県隠岐島、大分県の姫島(国の天然記念物)などが知られる。
 
  黒曜石
     くらしを支えた黒曜石  

都埋蔵文化財調査センターの企画展『蒼海わたる人々』で神津島産黒曜石が関東各地の遺跡でも多く見つかっていることを知った。今から約5千年前の縄文時代中期は、神津島産、とくに不純物が少なく良質な恩馳(おんばせ)産の黒曜石が盛んに利用された。東京周辺には9割近くが神津島産という遺跡もあるという。

栃木県の剣ヶ峰原産の黒曜石を使用した石器が、矢板市より200km以上離れた静岡県三島市や長野県信濃町の遺跡で発見された。産出時期は古いものでは約3万5千年前の後期旧石器時代と考えられており、その採掘坑遺跡は日本最古のものと推定されている。
氷河期の寒冷期に人が近付き難い当時の北関東の標高1,500m近い高地で採掘されたことや、従来の石器時代の概念を覆すような活動・交易範囲の広さ、遺跡発掘により効率的な作業を行っていたこともわかってきた。

この秋から大田区内で発掘された土器や石器片などの資料整理などをする郷土博物館友の会活動に参加している。光明寺(鵜の木)から出土した石器片には黒曜石片が多かった。透かして見ると何ともいえず美しく、パワーストーンと言われるのも頷ける。

光明寺は、環状8号線の建設工事関連の発掘調査(1993~1994)で「光明寺荒塚古墳1号墳」「光明寺荒塚古墳2号墳」のほか、旧石器時代の生活跡、縄文時代の遺物、弥生時代の方形周溝墓、また近世にわたる火葬墓や集石墓も大量に発見された。2千年にわたる日本の墓制をたどる貴重な遺跡といわれる。(はるか昔に思いを馳せてこんな近くに古墳があった
大晦日、光明寺に除夜の鐘を撞きに行くが、はるか昔より人類が棲んでいたところだと思うと何とも不思議な気持ちになる。
芸術・文化・考古

縄文の森

2018年11月28日
東京都埋蔵文化財調査センター展示ホールのとなりに遺跡庭園「縄文の村」がある。(多摩丘陵の縄文時代多摩丘陵の遺跡縄文の村
縄文の森は、当時の人々にとって日々の食料を得るための場所であると同時に、道具や住居の材料を得るための場所でもあり、生活に密着した大切な森であっただろう。
現在は、この森の下で、火起こし体験や縄文土器の野焼き、縄文食体験などが行われている。

 森
    紅葉
 
庭園内には、5,000年前の縄文の村に生えてていた樹木や野草を約50種類以上植えられている。当時この地域には、クヌギ、コナラ、トチノキ、クリ、クルミといった温帯落葉広葉樹を中心に、広葉樹や針葉樹を交えた豊かな森が広がっていたと推定されている。   

   ムラサキシキブ
    ムラサキシキブ
    ヒヨドリジョウゴ
    ヒヨドリジョウゴ
   サネカズラ
    サネカズラ

ちなみに、ヒヨドリジョウゴは毒があり、サネカズラも食用でないというが、縄文人は工夫して食べていたのだろうか。
コナラ、マテバシイなどの実、クルミはもちろんだが、カヤは油もとれるし、あく抜きすれば実も食べられる。
 
     コナラ
     イヌシデ
    エノキ
    ムクノキ
    カヤ アカガシ
上からコナラ、イヌシデ、トチノキ、エノキ、ムクノキ、カヤ、アカガシ

縄文の樹々の中を歩いたのは、今年の夏、大田区池上の「縄文のみち」以来だろうか。近所でみる樹々は今年は塩害のせいか、色づきが今一つ。枯れている枝が目につく樹も多い。(縄文のみち
旅・散策・イベント

縄文のムラ

2018年11月27日
稲城、多摩、八王子、町田の4市にまたがる多摩ニュータウン地域は、総面積3000㌶という広大な面積を有する。
東京都埋蔵文化財調査センターでは、1966年より290㌶、770ヶ所の遺跡を発掘調査してきた。展示ホールには、この遺跡から発掘した縄文土器などが数多く展示されている。(多摩丘陵の縄文時代多摩丘陵の遺跡

    遺跡庭園

遺跡庭園「縄文の村」は、縄文時代の集落跡「多摩ニュータウンNo.57遺跡」を保存する目的で整備された。
縄文時代のムラは、竪穴住居を中心として形作られている。この遺跡から前期の住居跡2棟、中期の住居跡5棟のほか、落とし穴などが発掘され、南側の半分については現状のまま盛り土をして保存されている。

 園内

このうちの前期の台形住居、中期後半の円形住居、中期終末の敷石住居の3棟が復原されている。使用した材料は、当時使われていたと考えられるクリの木やカヤなど。

前期 竪穴住居(6,500年前)
発掘調査当時の位置に復元された住居。床の形が長軸7m、短軸4.5mの南北に長い長方形で、面積は約30㎡とかなり広くなっており、5~6人くらいは十分に住めそう。 外敵の侵入を防ぐため入口は狭くなっている。棟上には、屋根が浮き上がらないように土で押さえ、さらに岩松などの草が植えられている。

   前期

中期 竪穴住居(5,000年前) 発掘調査当時の位置に復元した住居。壁沿いの5本の柱で屋根が支えられており、床は長径5m、短径4mの楕円形で、面積約15㎡は縄文時代中期の標準的な大きさを示している。

   中期

敷石住居(4,500年前) 八王子市堀之内のNo.796遺跡で発見された住居を移築したもの。床に大きく平たい石が敷かれていることから「敷石住居」と呼ばれており、およそ4500年前の多摩地域の住居の特徴をよく示している。床面積は約7㎡と少し小さめ。
 
   敷石住居
   敷石

訪れた日は、入り口から最も近いところにあるこの敷石住居の炉で火が焚かれていた。火を管理しながら落葉掃きをする係員によると、敷石は当時のままだという。

   火棚
       火棚

住居内につくられている火棚では、クリやトチノミなどの木の実を乾燥させながら貯蔵していたらしい。当時の生活の知恵には感心する。
約50種類の当時の樹木や野草を植えて再現されている縄文時代の森、この時季、ムクロジやコナラなど、踏まずに歩くことができないほど多くの木の実が落ちていた。

竪穴式住居の模型
住居跡が発見された上に盛り土をして、発見当時の竪穴式住居2棟分の様子を模型で再現されている。中央には炉があり、周りの柱が立っていたと思われるところには実際に短い柱が立つ。

    住居模型

竪穴の形状は、前期の楕円形から円形に変わり、後期中頃(約3,800年前)以降には再び方形となる。
旅・散策・イベント

多摩丘陵の遺跡

2018年11月26日
東京都埋蔵文化財調査センターの企画展『蒼海をわたる人々』では「考古学から見たとうきょうの島々」の遺跡が紹介されていた。(多摩丘陵の縄文時代
   
   蒼海をわたる人々

都心から170kmも離れた神津島から運ばれた「黒曜石」で旧石器、縄文の人々は槍先や矢じりをつくったといわれる。弥生時代になると、三浦半島の人々が、三宅島など、南の島でしか獲れないオオツタノハ貝で貝輪をつくっていたことがわかっている。

   黒曜石
         黒曜石の展示

体験コーナーでは、縄文土器パズル、火おこし、縄文ファッションなどが楽しめる。

  パズル
   立体パズル  舞ぎり(火おこし)

   パズル
   土器パズル

発掘された土器のほとんどはバラバラになっていて、1つ1つく接合して復元していくという。土器復元コーナーには砂時計が置かれ「3分以内に完成出来れば今日からあなたも考古学者!?」 と書かれていた。小学生たちがキャアキャアいいながら挑戦していたので、4種類のパズル(マグネット式)パズルの1つに挑戦してみた。
 
   模様
   模様をつける

   どんぐり
   どんぐりの調理

「縄文クッキーレシピ」が置いてあった。オニグルミ、マテバシイ、クリ、エゴマ、ヤマトイモ、ウズラの卵、蜂蜜が材料。多摩川でみつけたオニグルミと近所で拾ったマテバシイがある。時間があるときにつくってみよう。 
旅・散策・イベント

多摩丘陵の縄文時代

2018年11月25日
日本最大級の計画市街地、多摩ニュータウンの丘陵から見つかった964ヶ所の遺跡が40年かけて調査が行われた。この地域では、多摩川、境川、三沢川によって開析された谷が樹枝状に発達し、特有の地形を形成していて、遺跡は河川沿いの緩斜面や段丘面、谷部などに分布。

先月から友の会員となった郷土博物館の資料室で土器片の整理をしたり、各地の考古関係の展覧会などのH学芸員の話を伺うが、奈良、山梨、千葉と、訪れたくてもなかなか難しいところばかり。そんなとき、ふと思いついたのが、以前から気になっていた東京都埋蔵文化財調査センターだった。新宿から京王線の準特急で約30分、多摩センター駅に到着。サンリオ一色のホーム、構内、そして駅前に驚いた。(サンリオの街

   センター
  
この地域で人びとが暮らし始めたののは今から3万2千年前、氷河期の終わり頃。気候は現在の北海道に近く、主な食料は針葉樹林にすむ大型の獣や川を遡ってくる鮭、草木の実など。丘陵人たちはナウマンゾウやオオツノジカといった獲物を求めて移動していた。気候は暖かくなり、1万5千年前頃、土器が登場すると、人々の生活は大きく変わった。縄文時代の幕開け。

後期旧石器時代末~縄文時代草創期 暖かくなり、縄文土器が出現
      旧石器 縄文

縄文時代早期・前期  拡大する丘陵人の動き
地球規模の火山活動が徐々に減り、気候温暖化は一段と進んだ。落とし穴や弓矢など、新しい狩りの方法が発達した。多摩地域では、この頃から竪穴住居が作られ始めた。温暖な気候は前期中頃にピークとなり、海水面は現在よりも3~5mほど上昇。

   早期前期

縄文時代中期前半 大きなムラが出現  
約5千年前、温暖な気候は安定し、獣や魚、山菜や木の実が豊富な落葉広葉樹や照葉樹が広がっていた。ムラをつくり、安定した定住生活をするようになった。ムラには決められた場所に「捨て場」があり、土偶や石棒などの祭りは儀式に使われた道具も発見されている。

   中期

縄文時代中期後半 丘陵に往き交う人々
南関東で最大規模を誇るNo72遺跡では、中期後半の住居跡が275軒も発見された。多数の遺物の中には遠くのムラの人々と盛んに交流したことを示すものも発見されている。例えば、中部地方から黒曜石、北陸地方からのヒスイなど。

   中期

縄文時代中期の「背面人体文土偶」
   3843no7.jpg
   背面人体文土偶    丘陵のヴィーナス

縄文時代後期 丘陵からおりる人々
縄文時代の終りごろ以来途絶えていた人々の姿がこの丘陵に戻ってくるのは弥生時代中期になってからのことで、住居や墓は見つからず、土器が単独で見つかる場合が多いという。

   縄文後期

特別収蔵庫の縄文土器の数々
    土器
    
「通史展示」は『多摩を発掘する』と題して、旧石器時代から近世にいたる約3万年の多摩丘陵の歴史を、発掘された出土品を中心に展示。

   弥生~
    弥生時代  古墳時代前期

   奈良時代
   奈良時代  平安から鎌倉時代
芸術・文化・考古

サンリオの街

2018年11月24日
「都立埋蔵文化財調査センター」に行くために京王多摩センター駅に降りた。案内板、エレベーター、時計・・・構内いたるところにサンリオキャラクターが!中央改札前の天井照明は圧巻。マイメロディ、ポムポムプリン、リトルツインスターズ(キキ&ララ)も駅構内で大活躍。なるほど、京王多摩センター駅は、通称「サンリオピューロランドステーション」だとか。
ちなみに、京王線の駅の隣に小田急多摩センター駅、さらに多摩都市モノレールの駅もある。

キティちゃんは2004年より「多摩センター親善大使」に任命されているが、2016年3月の名誉駅長就任と駅装飾スタートを記念してハローキティ、マイメロディ、リトルツインスターズ(キキ&ララ)、ポムポムプリンなどによるテープカットセレモニーが行われたという。

   ホーム
  ホーム
   ホーム
   ホーム
     エレベーター
     時計
  天井照明
     駅員紹介
「駅員紹介」名誉駅長:ハローキティ グループリーダー:ポムポムプリン お客様相談係:マイメロディなど   

中央改札出口を出て、左方向へ進み、駅コンコースを抜けると上り階段にもサンリオ、そのまま階段を上がり登り坂を上がりきると、前方にパルテノン多摩、右側に京王プラザホテル、右前方に三越百貨店。左側にピューロランドが見える。

  通路
  階段
  階段
  ピュローランド

じゅんじゅんが女の子だったら、この街に来たら喜ぶだろう。彼の母親が小学生のころ好きだった「リトルツインスターズ」が付いた裁縫箱はわが家にあって、祖母の裁縫箱、母の裁縫箱とともに現役。(着物リメイクブームキティちゃんは女の子
旅・散策・イベント

モノづくりの街

2018年11月23日
今日は勤労感謝の日。「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう日」と法律で定められた(1948年)国民の祝日の1つ。

大田区は、日本の産業を支えるモノづくりのまち。区内の工場数は3000を超えている。製造業の事業者数も従業員数も23区中最多。

大田区
  大田のモノづくり 

おおたオープンファクトリーでは、1ミクロンの誤差も許されない手仕事の工場から、大きな最先端のマシンが何台も並ぶ工場まで、区内の町工場を期間限定で一斉公開するイベント。この日は「モノづくり」を身近に感じられる。
第8回になるこのイベント、10/6は工場アパート、11/17は武蔵新田・下丸子エリア(通称:新田丸)、11/24には六郷の工場がオープン。
   
一昨年はOさんと、昨年はじゅんじゅんを連れて、今年は区民大学で親しくなった I さんとOさんに案内を頼まれて。(モノづくりのまちレアメタルに コマに・・・今年のオープンファクトリーは

くりらぼ多摩川でのワークショップで「ワイヤーリース」(1000円)をつくりたいというI さんと整理券をもらうために早めに会場の「くりラボ」へ。
ワイヤーリースの材料はいろいろ。数字やアルファベットなど、ボタン、スナップ、ドライフラワーなどのほか、鉄製の廃材など。30分ほどかかってオリジナルのリースが完成した。彼女は2個のマグネットと補強用のワイヤーももらって上機嫌。

   リース
     ワイヤーリース  I さん作
  
その間、 Oさんと2人、近くの工場を覗いたり、「匠度感覚審査会場」で重さ当てに挑戦した。参考になる金属の塊は51g、アルミや鉄などのさまざまな形の金属が並んでいる中から好きなものを選び、何g あるかを答える。一昨年は、たしか誤差が少なく1級認定証をもらったが、今年はごくわずかの差で2級だった。あとで挑戦した I さんは3級、悔しがっていた。
 
   重さ当て

昨年はじゅんじゅんが体験した北嶋製作所の「へら絞り」。今年はほとんど並ばずにできた。作業着を着て軍手をはめて後ろからアシストしてもらって立派なお皿ができた。

    へら絞り
      I さんのへら絞り

「鍋からロケットまで」という「へら絞りの世界」は深い。高速で回転する金属の薄い板が、職人さんが「へら」と呼ばれる金属の棒を押し付けて「絞る」ことで素材を変形させるという金属加工技術。微妙な力をコントロールする技は、誤差1/100mmレベルの高精度な製品をつくることができるという。

以前、Yさんに勧められて見た『超絶 凄技!』(NHKテレビ)のために製作された球体ボンベが展示されていた。「深海1万mと同じ1000気圧に耐える究極のボンベづくり」という企画。直径20cm、素材は自由、素材の頑丈さとゆがみのない丸さが重要だったため、硬いチタン合金を曲げるのは大変だったというが、記録は977気圧に達し、対決には勝利したという。
   北嶋製作所
     977気圧まで耐えたボンベ
  
昨年つくった猫用水入れとして役立っているお皿の写真をみてもらうと「去年のは文字が入っていないでしょ」と。なるほど、今年のは「MADE BY KITAJIMA OTA」と刻まれていた。いい記念だ。(お皿になった!
   
  皿
    2017年作    2018年作

出来上がったお皿に何を入れるか、ゆっくり考えることにして、とりあえず多摩川で採ったオニグルミを入れてみた。表皮を剥くと黒いが、ゴシゴシ洗うと茶色い殻が現れた。それにしてもこの堅いくるみ、縄文人はどうやって割ったのだろうか。(青いくるみ) 
旅・散策・イベント

「AI運行バス」って?

2018年11月22日
今日は24節気の1つ「小雪」。木々の葉が落ち、山には初雪が舞い始める頃。「小雪」とは、冬とは言え、まだ雪はさほど多くない。冬の入口にあたる。

今月初め、「ハマ展」に出品されたKさんの日本画を拝見するため、昨年同様2人のKさんとJR桜木町駅改札で待ち合わせた。色づき始めた駅前のケヤキは塩害の影響か、枯れた葉が目立った。
駅前から市民ギャラリー行のシャトルバスに乗る。橋を渡ると長い上り坂がつづく。昔、K氏の能面展のときは往復歩いたこともあったが、今回は帰りもバスを利用した。昨年の帰りは歩いたかバスに乗ったか、なぜか3人とも覚えていなかった。ランチをした店は覚えていたが・・・。
   
待ち合せのとき、改札の外のAI 運行バスの幟が目に留まった。2人のシニアがスマホにアプリを入れてもらって熱心に説明をきいていた。AI 運行バスって何?「AI 自動運転」かと一瞬勘違いしたが、運行ルートをAI が決め、運転手がそれに従って運転する乗合バス(ワゴン車)といったところらしい。

   桜木町駅
     桜木町駅前

この実証実験(~12/10)は、NTTドコモと新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が横浜市と共同で開始したオンデマンドの乗合交通で、みなとみらい21、関内エリアで実施されている。
「AI運行バス」のスマホアプリで、周辺の観光・アミューズメント施設、グルメスポット、イベント情報などを検索でき、クーポンも配布。利用者はエリア内に31ヶ所ある乗降地点を選択、乗る時間と人数を入力するとが迎えに来て、送迎順や目的地への道順を最短ルートで運行。AIが利用者の移動ニーズをリアルタイムに解析して、エリア内を運行する10台から最適な車両を配車するのだとか。

   車
  AI 運行バス  (東京新聞)

車両は4~6人乗りのワゴン車。運行時間は10時から21時まで。乗車は無料で、運行区域内の鉄道駅やホテルで配布される乗車チケットを利用すれば、期限内に何度でも乗車できる。商業施設と連携し、エリア内の回遊性向上の効果を検証する。ドコモはAI に関するデータを収集し、市は新たな観光資源の開発に役立てるというもの。

最近はこのエリアに足を運ぶことは少なくなったが、このバスが本格的に運行されるようになったら、このバスに1度は乗ってみたいような気もする。目的地は・・・どこでもいいが。
旅・散策・イベント

「青いくるみ」から

2018年11月21日
新田神社で「新田大明神縁起絵巻」を観ての帰り、夕方になっていたが、駅前の不二家でO さんとお茶を飲んだ。多摩川河川敷でみつけたオニグルミの写真を見せたときだった。彼女は前の晩、好きな音楽家について検索し始めたら、マンドリンになり、気づいたら宮沢賢治、『銀河鉄道の夜』になり、最後にオニグルミに行きついたという。オニグルミは検索せずに寝たそうだが、この偶然に驚いていた。

日本で最初にクルミの化石を発見したのは宮沢賢治だという。そういえば、賢治の童話には「どんぐり」とか「やまなし」といった木の実が多く登場する。『宮沢賢治童話集』がKindleに入っていたのを思い出した。

『銀河鉄道の夜』(角川文庫版)の「北十字とプリオシン海岸」にもくるみが登場している。
「おや、変なものがあるよ」カムパネルラが、不思議そうに立ちどまって、岩から黒い細長いさきのとがったくるみの実のようなものをひろいました。「くるみの実だよ。そら、たくさんある。流れてきたんじゃない。岩の中にはいっているんだ」「大きいね、このくるみ、倍あるね。こいつはすこしもいたんでいない」

   宮沢賢治

どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう 
『風の又三郎』(岩波文庫版)には、青いくるみが登場するが、『風野又三郎』(新潮文庫版)は、ざくろになっている。賢治自身が書き残した創作メモなどではタイトルは「風野又三郎」だが、最初の出版以来「風の又三郎」が用いられて今日に至っているという。

九月一日  どっどどどどうど どどうど どどう、あまいざくろも吹きとばせ すっぱいざくろもふきとばせ どっどどどどうど どどうど どどう

オニグルミをみて以来、ときどき「どっどどどどうど どどうど どどう 青いくるみも吹き飛ばせ・・・」が浮かんでくるようになってしまった。

  クルミ

持ち帰ったオニグルミ、先日、I さんたちのグループ展に伺うときにいくつか持っていった。(青いくるみ
行きがけにポリ手袋を買い、会場で黒っぽくなった果肉を剥がしてみた。「いい色だわ」「うちにクルミ割りあるから・・・楽しみ!」と、出てきた黒っぽいクルミの殻をみてI さんもKさんも喜んで下さった。

帰宅後、わが家の黒ずんできた「青いクルミ」の果肉を落とすと現れた堅い殻を洗ってしばらく干した。トチの実のようにあく抜きする必要はないようだが、わが家にはクルミ割りがない。ハンマーではうまく割れなかった。時間があるときに再度挑戦しようと思っている。
植物など

青いくるみ

2018年11月20日
最近、「カマキリ先生」のお陰か、虫捕りに興味が出てきたじゅんじゅん、わが家で留守番の午後、ごんさんと2人で多摩川にグローブと虫捕り網を持って出かけた。30分ほど遅れて自転車で駆けつけたときは、キャッチボールは終わって網を振り回していた。(カガワテルユキさん

   虫捕り

河川敷では野球の練習中の少年たち、犬の散歩をしている人もいるが、川近くまで来る人は少ない。ベンチに腰かけてぼんやりと眺めていると、実をつけている木が目に入った。

   オニグルミ

木の下には黒くなった実や青い実、そしてまだ枝に残っている青い実もあった。プラタナスの実とは違う。クルミ?こんな川べりにクルミの木があるだろうか? 早速ベンチに戻り検索。円くて大きな実、わずかに残る葉の形、白っぽい幹の色、河原にあるという点など、オニグルミに違いない。そのときから虫捕り網はクルミ採りの道具と化した。

  オニグルミ

オニグルミの実を持ち帰った。嬉しくなってあちこちにLINEで報告。Sさんは「昔、オニグルミの実を食べようとしてかじったら、あまりに強い酸か?アルカリで思わず吐いてしまった」そうな。また、「汁が指にかかり、黒っぽくなり何度洗っても、10日ほど消えませんでした・・・」と。
ご近所の I さんは調べたのか「拾ったオニグルミはしばらく土に埋め、果皮を腐らせるのがいい」らしい。「時間がかかりそうだし量も少ないので、2日間水につけ皮を柔らかくして1個1個むいたって書いてあった」そうだ。よく洗って2週間ほど天日で干すといいそうだ。
「私も子どもを連れて多摩川にオニグルミの木を見に行きたい」という小3男子のママKさんは、近いうち多摩川にご案内する約束をした。

帰宅後、調べると、多摩川には在来種のオニグルミが多く生えていることがわかった。どうやら、現地でクルミを踏みつけるなどして果皮を剥き種子だけを持ち帰るのがいいとか。
  
    オニグルミ

オニグルミペルシャグルミという市販のクルミに比べると、小さく食べづらいらしいが、縄文人はきっとこのクルミを食べていたのだろうと思うだけで楽しくなる。
植物など

「世界トイレの日」

2018年11月19日
今日は「国連 世界トイレの日」。トイレにまつわるタブーを打破し、下水処理や屋外排泄の根絶など、多岐にわたる公衆衛生上の課題を提起して、その政策化を促進するために定められた日。2001年の今日、世界的な公衆衛生運動に取り組むNGO世界トイレ機関(World Toilet Organization)が設立されたことに因む。

国連児童基金(ユニセフ)と世界保健機関(WHO)発表の報告書「衛生施設と飲料水の前進2013」によれば、2011年末の時点で、世界人口の3割を超える約25億人が衛生的なトイレを使用できない状態にあり、このうち10億人あまりは屋外で排泄している。こうした状況が川や土地を介して病気を引き起こす原因ともなり、1日1,600人もの5歳未満の子供が下痢によって命を奪われている事実など、多くの子どもの命を奪う原因となるトイレの問題を発信し、この問題への関心と行動を呼びかけた。

公衆トイレで思い浮かぶのは、明るく清潔な感じを受ける恵比寿駅西口の「KANSEI」トイレ。渋谷区とネーミングライツ契約を結び、「恵比寿KANSEIトイレ」として2013年にリニューアルして以来、季節で壁のデザインが変わる。
ほかに表参道ヒルズ、渋谷駅、並木橋などにもこうした公衆トイレがある。このネーミングライツ事業は日本トイレ大賞を受賞。(ここにも「ネーミングライツ」

    2013.6
     恵比寿駅西口公衆トイレ

「KANSEI」の文字は、契約した下水道の維持管理などを手がける管清工業(株)の意味だとか。トイレの名前を変えるだけではなく、契約したトイレの専門業者が技術をいかして衛生的な設備に改修したり、定期点検を行う。便座や床、壁などに防臭効果があるコーティングが施されているとか。

   2015
   2016
   2017
   2017-18

ちなみに、11月10日の「トイレの日」は「い(1)い(1)ト(十)イレ」の語呂合せで日本トイレ協会が制定。日本衛生設備機器工業会制定の「トイレの日」は8月10日。
旅・散策・イベント

絵巻物の修復

2018年11月18日
新田義貞の次男、義興を祀る新田神社は、初詣、武者行列パレード、秋の例大祭のとき以外にも何度か訪れているが、例大祭1日だけ公開される宝物殿は1度拝観しただけだった。(鎮座660年の神社は
神社の宝物の1つ、平成28年度に修理された「新田大明神縁起絵巻」(都文化財)の「修理から見えてきたこと」の解説と「文化財公開見学会」に I さんと参加した。

日曜日の特別出張所の集会室に集まったのは15名ほど。当日、パワーポイントがうまく使えなかったため、絵巻修理をされた半田九清堂の半田昌規氏(東京藝大大学院講師)は、修理後の写真パネルをみながら解説してくださった。

  パネル
  
修理にあたっては、調査にも時間をかけ完成までおよそ1年かかったそうだ。修理前の状況は、全体に強い折れが多数発生、折山からの絵具層や本紙料紙の亀裂がみられたという。また、本紙表面には細かい点状のカビ痕があり、カビの浸食により絵具の変色や欠失がみられたことなど、修理は想像以上の大変な作業だったことがよくわかった。

   講演

修理の過程についてはかなり専門的な内容で、日本画をかじっていたお陰で何とか理解できた。雁皮紙、薄美濃紙、三栖紙、裏打ちのこと、岩絵の具や朱などの顔料、金銀の砂子など・・・映像なしで残念だった。
三栖紙は、横山大観もこの紙を使ったそうだ。楮を原料とするごく薄い上質紙で、江戸時代には上等の鼻紙などに利用され、江戸の吉原など遊里を詠んだ川柳などによく出てくる。全国各地で漉かれ、表具用や造花用にも使用された。現在でも吉野のほかに美濃(岐阜県)でも生産されている。

折れによる亀裂でまったく隠れていた1人の人物が修理により蘇った話を伺ったあと、あらためてパネル写真の前で眺めながら、I さんも「すごい!」「魔法のよう」と興奮気味。

    絵巻
     現れた踊る人物

東京藝大文化財保存研究室による赤外線撮影などによる顔料の分析で、絵巻にどんな顔料を用いているかがわかるという。同じ水色にみえても、雲は真っ白に映ることから有機顔料、衣服の水色は暗く映ったので無機顔料(岩絵の具 白群とか)とわかるそうだ。非常に興味深いものだった。

  絵巻
    雲は有機顔料 衣服は無機顔料

講演後、新田神社へ移動。宮司さんが宝物殿を開けて待っていて下さった。中で修理された絵巻(一部)をガラス越しだが、じっくり鑑賞した。やはり実物は色彩も鮮やか、人物が生き生きと描かれている。

  宝物
  絵巻 旧漆塗箱と新しい桐箱

「校倉造り」の宝物殿は、昭和61年の式年遷宮の後、伊勢神宮から天照大御神の御神宝「御櫛笥」「御弓」「御楯」を特別に撤下されたのを収蔵するためとともに、戦災から免れた新田神社の様々な宝物をあわせて収蔵展示するために新築された。毎年10月の例大祭のときにしか拝観できない。
今回、宝物殿で修理された絵巻などを拝観できたこと、拝観後、宮司さんや半田氏とお話できたのもラッキーだった。
芸術・文化・考古

新田神社のケヤキ

2018年11月17日
新田義貞の次男、義興を祀る新田神社のご神木のケヤキは樹齢約700年。江戸時代の落雷で幹が半分以上裂けたが、枯れることはなかった。1945年4月の東京大空襲では境内にも爆弾が落ち、社殿や町もほとんど全焼した。このケヤキの一部も再び焼失したものの、枯れずに毎年新緑の季節になると青々とした葉を茂らせ、パワースポットとなっている。(鎮座660年の神社は

   ケヤキ
  2016.1      2018.11

狛犬や巨樹巡りがキッカケで、初詣、武者行列パレード、秋の例大祭のときなどに訪れるようになった。ケヤキに触れてパワーをいただくことは欠かさないが、御朱印はいただいたことがなかった。
先日、「鎮座660年記念」の御朱印を頂いた日、ケヤキの皮が剥けた部分に左手を、傷ついていない幹に右手を置いた。右手の方が冷たく感じられた。

   2018.11
     2018.11

ケヤキの四季
     2016.1
     2016.1

     2015.4
     2015.4

   2009.8
    2009.8

   2015.11
    2015.11

早いもので今年もひと月余。次に訪れるときはお正月だろうか。

  2016.1
    2016.1
植物など

鎮座660年の神社は

2018年11月16日
新田神社は、新田義貞の次男である新田義興公の御霊を鎮めるために創建された(1358年)。義興は父の義貞・兄の義顕の戦死後も南朝方の中心として転戦していたが、多摩川畔の矢口の渡しで謀殺された。
近隣の住民が義興の霊を鎮めるために墳墓の前に新田明神社を創建し、後に新田大明神として尊崇されるようになった。江戸時代になると、徳川氏が新田氏の末裔であるとされていることもあり、武家信仰の神社として大いに信仰された。

天才・奇才とも言われる平賀源内とも深い繋がりがあり、義興公やその弟の逸話を平賀源内が脚色した脚本『神霊矢口渡』の浄瑠璃や歌舞伎が上演されている。
塚の後ろに「旗竹」という竹があり、雷が鳴るとピチピチ音がしたという。平賀源内のすすめで、この竹で「矢守」を作った。これが破魔矢の元祖。

鎮座660年の神社は今、古来からのご本尊の幸せのご利益と、新しい時代の縁結びパワーを融合させたパワースポット「LOVE神社」としても、俄然、注目を集め始めているということになるのだろうか。

   神社
     破魔矢のオブジェ

境内には大きな破魔矢のオブジェが立つ。これは、現代アートによる街づくりの活動である「多摩川アートラインプロジェクト」の一環で、グラフィックデザイナー浅葉克巳氏により造られた「矢守」というオブジェ。社殿の横にある「石の卓球台」も浅葉氏の作。毎日無料で球とラケットを貸りて実際に卓球することができる。 (「光のシャワー大田区ってすごい?!

    卓球台
     石の卓球台

ご神木の樹齢約700年に及ぶケヤキは、江戸時代の落雷や東京大空襲にもめげずに、枯れずに毎年新緑の季節になると青々とした葉を茂らせ、パワースポットとなっている。健康長寿、病気平癒、若返りなどのご利益があるとか。訪れる度にご神木に触れているが、果たして御利益のほどは?

  御朱印
   正月限定お守り  鎮座660年御朱印

今年の秋限定(9.10~11/10)の「鎮座660年記念」の御朱印にも正月限定お守りにもケヤキが描かれている。この御朱印は宮司不在、多忙のときは書いていただけないので、朝、御朱印帳を預けて整理札をいただき、夕方、受取ることができた。
旅・散策・イベント

大森駅と縄文遺跡

2018年11月15日
2016年、JR大森駅は開業140周年を迎えた。1日およそ18万人が利用し、「乗換駅のない駅」としては利用者数が日本一とも言われる大森駅は、大田区内では蒲田駅に次ぐ主要駅(京浜東北線)。
新橋-横浜間に日本で初めて鉄道が開通した年の4年後、明治9年(1876)6月に大森駅が開業。東海道線の電車線である京浜東北線が開業した後も、1930年まで、東海道線の全列車が大森駅に停車していた。

大森駅開業の翌年である明治10年(1877年)に、アメリカの動物学者、エドワード・S・モースが、横浜から汽車に乗り新橋に向かう途中、大森駅を過ぎてほどなく線路左側の崖に貝殻の層が露出しているのを見て直感的にそれが古代の貝塚であると思った。
これは鉄道建設によって斜面が削られ、古い地層があらわになったことによるという。

  模型
   発掘の様子 大田区立郷土博物館

大森貝塚は、品川区から大田区にまたがる縄文時代後期から末期の貝塚。モース貝塚とも。 モース博士が政府の許可を得た上で発掘調査を行った。助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見した。その後、本格的な発掘を行った。 発掘調査の際に大森駅を利用したことから、その駅名をとって名付けられたという説がある。(大昔の大田区東京の縄文遺跡

現在の大森駅のホーム中央には「日本考古学発祥の地」碑があり、上には大森貝塚から出土した土器を模したブロンズ製の土器像が載っている。今までこの碑の前を何度も通ったが、解説文をちゃんと読んだことはなかった。電車を待ってるときにあらためて読んでみると、モース博士が発見した土器は、碑の土器像のおよそ半分の大きさと書いてあった。

   土器の碑
   大森駅ホーム  大森駅前

1929年、品川区大井6丁目に「大森貝塚」の碑が、翌年大田区山王1丁目に「大森貝墟」の碑が立てられた。モースが発掘したのは前者の地点といわれる。

  碑
     品川区    大田区

その後両地は国の史跡に指定され(1955)、また、モース博士たちの発掘した貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片など、現在東京大学の博物館に収蔵される標本類はすべて国の重要文化財に指定された(1975年)。

   土器片
   モース博士発見の土器片 
 
大田区立郷土博物館2階の大森貝塚の展示コーナーには、実際に発掘された土器の欠片や発掘の様子がわかるジオラマなどが展示されている。
博物館友の会・考古の分科会では、現在、山王遺跡の考古の発掘品の資料整理中。
近いうちに、Kさんと品川区側からの大森貝塚を知るために品川歴史館を訪れることにしている。
旅・散策・イベント

墨田区の橋 Ⅱ

2018年11月14日
すみだ北斎美術館で開かれた『北斎の橋 すみだの橋』では、隅田川に架かる9つの橋についても紹介された。(墨田区の橋Ⅰ

北斎の橋

駒形橋 昭和2年 鋼アーチ橋桁橋 
   駒形橋
  駒形橋 border=
      墨田区―台東区

吾妻橋  安永3年/昭和6年 上路式三連アーチ桁橋 
   吾妻橋
   吾妻橋
     墨田区―台東区

言問橋 昭和3年 ゲルバー式鋼桁橋  
  言問橋
     墨田区―台東区 

「言問橋は、いわゆる震災復興橋梁の1つ。1945年3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとするひとびとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きが取れない状態となった。荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち火炎に包まれた。橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した」。

 言問橋 
    言問橋の欄干

言問橋の改修工事(1992)にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部が江戸東京博物館前に置かれている。
 
桜橋 昭和60年 鋼箱桁橋
    桜橋
  桜橋
    歩行者専用橋  墨田区―台東区

白髭橋 大正3年 アーチ橋  
   白髭橋
  白髭橋
  墨田区-荒川区  白髭神社が橋名の由来

水神大橋 昭和63年 ニールセン・ローゼ橋
   水神大橋
   墨田区-荒川区  
     
橋名は隅田川の総鎮守である隅田川神社に由来する。
旅・散策・イベント

墨田区の橋 Ⅰ

2018年11月13日
すみだ北斎美術館で開かれた『北斎の橋 すみだの橋』(9.11-11.4)では、北斎とその一門、小林清親や井上安治などが描いた橋の作品が展示された。代表作「諸国名橋奇覧」の風景画シリーズや北斎が夢の中で見た橋を図にした「百橋一覧」、名作「冨嶽三十六景」シリーズからも「御厩河岸より両国橋夕陽見」など。
北斎が生きた時代の橋以降の変遷を、錦絵だけでなく、絵葉書や、図面、立体物など様々な関連資料も展示されていた。

   墨田の橋

会場内は撮影禁止だが、現在の隅田川に架かる墨田区内の橋の写真、側面図などのパネルがロビーに展示されていた。歩くだけでなく水上バスで2度ほどくぐったせいか、隅田川の橋は身近に感じられる。
 
両国橋 ゲルバー型鋼板桁橋 万治2年/昭和7年
隅田川では千住大橋に次ぐ第2番目の橋。両国の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところから。
 両国橋  
 両国橋
    墨田区-中央区         
蔵前橋  アーチ桁橋 昭和2年
関東大震災の復興計画によるもので、蔵前橋通りの整備に伴なって新たに架設された。
   蔵前橋
   蔵前橋
    墨田区―台東区 

厩橋 明治7年/昭和4年 鋼タイドアーチ橋
   厩橋
   厩橋
     墨田区―台東区
旅・散策・イベント

シニアのスマホ

2018年11月12日
最近、平日の昼間の車内の光景が変わってきたように思う。座席では若者たちは眠っている人が目立つ。スマホやタブレットを操作しているのはたいていシニアたち。眼は画面から離さず、少々、心もとない指の動きだが、懸命に操作している。乗り越さないだろうかと余計な心配をすることもある。

ドコモショップでも平日はシニアばかり。シニアのスマホユーザーが確実に増えていることがわかる。先月、OさんはガラケーからiPhoneに替えた。彼女の親戚は皆iPhoneなのだとか。彼女に操作方法をきかれたが、Androidとは微妙に違うのでわからない。仕方なく、ショップに入っていろいろと教えてもらった。お陰でlineも開通し、それまでのメールでのやり取りに比べて数倍便利になった。

翌日、ドタキャンしたクラス会の集合写真がH氏からきた。名前と顔が一致しなくなってしまった人が数人いた。H氏によれば、話題
は孫のこと、健康のことだったとか。それにしても2010年から始まった2年ごとのクラス会、参加者は20名前後を保っているのは大したものだ。早速、Oさんにこの写真を転送した。

 スマホ中
   スマホ中 公園  ホーム カフェ

便利なのはいいが、スマホユーザーの7割以上が、「歩きスマホ」の経験ありといった調査データもあり、歩きスマホの問題は他人事ではない。(危険いっぱい「歩きスマホ」)
ホームで電車を待つ間、手にしているスマホから眼を離すことなく電車に乗り込むという光景はいつものこと。道を歩きながら、自転車に乗りながらの「ながらスマホ」はよく眼にする。こうした「ながらスマホ」は若者特有のものだと思っていたが、どうやら間違いらしい。  

先日、はじめてシニアの「歩きスマホ」に出くわした。「歩きスマホ」で近づいてきたかと思うと通り過ぎた。振り返ると、数m先で止まってスマホを操作し続けていた。どうみても70代の女性だった。

    ながらスマホ

スマホが普及する以前のメールとは違い、スマホでは、常にリアルタイムで相手と繋がっており、メッセージの返事は瞬時にくることが多い。このため常に画面をみることになりやすい。地図アプリなども同様に、移動経過をリアルタイムで確認できるため、自分の現在位置を常に確認しようと画面を見続けてしまう。さらに、今のスマホはタッチ操作も常に必要となるため、画面を見ずに文字を入力することは困難ということもあるのだろう。

そういえば、スマホやパソコンを長時間使うことが多いこの頃、若い人でも「スマホ老眼」という、老眼のような症状が出るときく。
加齢に伴う一般的な老眼は、水晶体が硬くなり、目のピント調節がうまくできなくて「手元がぼやける」状態になる。
「スマホ老眼」は、画面を長い時間じっと見つめた結果、毛様体が疲れて動きが悪くなった状態と考えられているという。水晶体の柔軟性は保たれている分、回復しやすいとはいうが、毛様体の疲労が重なれば、頭痛や肩こりなど、体の不調につながる恐れもあるという。

「スマホ老眼」をはじめ、老眼年齢も下がっていると言われる。そんなこともあるのか、「リーディンググラス」ということばを耳にするようになった。要するに老眼鏡のことなのだが、デザインもオシャレ。今、気になる老眼鏡は、鯖江でつくられている「ペーパーグラス」。たたむと薄さ2mmで、栞のように本などに挟め、軽くて携帯に便利。現在、外出時には遠近両用でまったく問題ないが、度が合わなくなったときには、このグラスにしてみたいと思っている。
つれづれ

チンアナゴ

2018年11月11日
東日本大震災から7年8ヶ月。「東京湾の放射能汚染は今」という東京新聞の「原発取材班」による調査も5回目となった。それによると「5年間の濃度推移をグラフにすると、昨年までは低下傾向がはっきりしていたが、鈍化してきたようにも見える。
半減期が2年と短いセシウム134は当初の10分の1未満にまで減った。今後は半減するまで30年かかるセシウム137がほとんど。濃度低下のスピードは遅くなる可能性が高い
」という。(都心の川は・・・5年10ヶ月経って

  多摩川
   
多摩川では、波の作用などで堆積物がかき混ぜられるのは、地中10センチほどとされるが、福島第一由来のセシウムは深いところまで潜っていた。川底0cmで85、-10cmで109、-45cmが224(ベクレル/kg)となっている。減っているには違いないが、影響はどうなのかわからないが、こういった調査はつづけていってほしいと思う。

今日は「チンアナゴ」の日。チンアナゴが数字の「1」に似ていることからすみだ水族館が2013年に申請し認定された記念日。
この面白い生物を初めてみたのはアクアワールド茨城県大洗水族館。東日本大震災の3年後、りんりんダンゴウオを見に行ったときだった。(ダンゴウオに逢えた!

   大洗
    アクアワールド大洗水族館

大洗は、地震による被害に加えて5mの津波を受けて大きな被害があったが、防災行政無線による呼びかけのお陰で津波では1人の死者も出なかったという。大洗水族館も停電の影響で運営に大きな支障が出たが、震災後3日で電気が通るまで自家発電(4割)で賄い、魚たちは無事だったという。
 
   大洗
      大洗水族館

そして今年、じゅんじゅんとしながわ水族館でチンアナゴと対面した。彼はニモのモデルといわれるカクレクマノミの前でしばらく眺めていたが、チンアナゴは初対面ではないこともあるのか、とくに関心を示さなかった。

   ニシキアナゴ
       しながわ水族館

「チンアナゴ」(狆穴子、珍穴子)アナゴ科に属する海水魚の一種。体の長さは36cmほど。伊豆半島、高知県、琉球列島、インド・西太平洋に分布。丸みあるかわいい顔つき。

「ニシキアナゴ」 アナゴ科。全長38cm。奄美大島、西表島、モルジブ、フィリピンに分布。名前の由来は織物の「錦」のように華やかな色。顔つきはチンアナゴよりもずっと面長。
チンアナゴニシキアナゴとも Spoted garden eel の仲間。庭に花が咲いているように見えることからだとか。

同居する仲間「ヘコアユ」 ヘコアユ科 全長15cm 相模湾以南、インド・西太平洋地域に分布。チンアナゴたちが上を向いている魚であるのに対し、顔を下にして泳いでいる。数匹で集まって、ふわふわと水槽の中を行ったり来たりしている。
動物など

「知るって楽しい!」

2018年11月10日
「おおた区民大学」のキャッチコピー「知るって楽しい!」の通り、「歩いて発見!おおたの魅力」講座を受講して大いに収穫があった。
5回目は、消費生活センターで。1回目は勝海舟ゆかりの洗足池畔を歩き、2回目は田園調布についての話などの後、古墳群を歩いた。3回目はそれまでのまちあるきの魅力、見方についてグループごとに発表、次回のまちあるき「六郷」「下丸子」「池上」3コースのグループ分けをして、4回目はグループごとに歩いた。(始める秋松濤園へ) 

5回目は、各グループごとに歩いたコースについて振り返り、その魅力などを紹介しあった。この会の前に I さんたちとランチをご一緒した。Oさんは同じ「池上」コースだが、「六郷」コースの I さんの話は知らないことが多かった。
ガラス工場では1人特別に吹きガラス体験させてもらったという。パンフレットをみせてもらった。(東京ガラス工芸研究所)後にその吹きガラス体験をしたのが、数十年前から旧知の(元ママ友?)Sさんとわかって驚いた。 

   Sさんの作品
      Sさんの作品

「六郷」コースのもう1つの興味深いスポットは「止め天神」「落馬止め天神」。江戸時代、八代将軍吉宗の乗馬が暴走した時、落馬を止めた神社として有名になった。北野天神社が正式であるが通称を「止め神社」と言い、災いを止める祈りをするため多くの参拝を集めたという。現在は宮司不在で、縁日の25日しか開かないのだとか。
   
   木馬

本殿に置かれた等身大の木馬にまたがり、願い事が落ちないように祈願する神事は江戸時代からつづいていたが、現在は縁日に限って行われるという。
縁日でないこの日、やはり特別に全員が木馬に乗ることができたそうだ。みごとな木馬の尾に I さんは見とれたという。

   発表
     六郷コースの発表

以前、狛犬のクロッキーをするために区内の神社を回っていた。この神社も訪れたことがあったが、「止め天神」と言われることも木馬のことも知らなかった。「悪い事は 一切止める」という「止め天神」の縁日に、受験生のりんりんの代わりに?木馬に乗ってみようと思っている。

「下丸子」コースは、毎年「オープンファクトリー」で町工場などを回っているせいか、へら絞り体験もくりらぼ多摩川も、五十嵐洗濯資料館など、グループの発表をきいていても特に目新しいことはなかった。今年(11/17)はOさん、I さんと行く予定にしている。

10月の「歩いて発見!おおたの魅力」講座は終了した。「六郷」グループは盛り上がった勢いでか、リーダーにお願いして自主グループをつくることになったらしい。Oさんと2人、入れてもらうことにした。帰り道、I さん、Sさん、O さんと人4人、ワイワイガヤガヤと蒲田駅へ向かった。
旅・散策・イベント

こよみ

2018年11月09日
今日は「太陽暦採用記念日」。明治5年(1872)の今日、明治政府はそれまでの太陽太陰暦(旧暦)をやめて太陽暦(グレゴリオ暦)を採用するという詔書を布告した。
1年を365日とし、それを12月に分け、4年毎に閏年をおくこと、1日を24時間とすること。旧暦の明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日とすることが定められた。

   暦
    明治六年太陽暦 (国立国会図書館所蔵)

太陰暦は2年から3年ごとに閏月を入れなければならず、その前後で季節と食い違いができ、また、閏月の入り方も複雑。福沢諭吉のように太陽暦を支持し、普及させるための書物を著した学者も多い。時代が変ったことを印象づけ、西洋に追いつこうという意図からも太陽暦は合理的とされた。

突然の改暦のため国内は混乱したが、それでもなお改暦を断行した理由は、『大隈伯昔日譚』によれば、政府の財政状況が逼迫していたことによる。江戸時代までは禄は年棒だったが、明治になって月給制になった。
ちょうど明治6年に閏月があり、月給制を採用した新政府は1ヶ月余計に給料を出さねばならないところ、太陽暦を採用することでその1ヶ月、さらに2日間だけの12月もあわせて合計2ヶ月分の給料を節約できたことになるのだとか。
こうして絶妙なタイミングで太陽暦改暦は断行されたが、啓蒙にはなおしばらくの時間を要し、明治42年暦まで旧暦も併記し続けられたという。

新暦ではおよそ1ヶ月季節が早くなり、桃の節句に桃が咲かず、七夕は梅雨の最中という具合にズレが生じるようになった。そこで、ひと月遅れで行事をしたり、旧暦の日付で考えたりする場合もある。

立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒。半月毎の季節の変化を示す「二十四節気」を好むのは私だけではないようだ。実際の季節と多少ずれていても、漢字からその情景が浮かんでくる。
ほんのたまに「ラジオ深夜便」(NHKラジオ)をつけると、『ピアノが奏でる七十二候』のメロディが流れてくることがある。残念ながら音だけではあまりイメージは浮かばないのだが、「山茶始めて開く」(11/7~11)「地始めて凍る」(11/12~16)といった「七十二候」の季節感は魅力だ。

「七十二候」は「二十四節気」をさらに約5日おきに分けて、気象の動きや動植物の変化を表す。「二十四節気」が古代のものがそのまま使われているのに対し「七十二候」は何度も変更されてきた。日本では、江戸時代に入って日本の気候風土に合うように改定され、「本朝七十二候」が作られた。現在おもに使われているのは、明治時代に改訂された「略本暦」のもの。

 アプリ
    予定記入欄 

スマホに「旧暦」アプリを入れてみた。いわゆるカレンダーに旧暦の日付と二十四節気などが書かれている。六曜、干支などはともかく、月齢も一目でわかるのが楽しい。さらに予定も書き込めるのも便利だ。ちなみに、今日11月9日は旧暦の10月2日。 
つれづれ

刀剣ブーム

2018年11月08日
今日は「刃物の日」。旧暦の今日、鋳物師、鍛冶屋、石工など鞴(ふいご)を用いる職人が行う祭りである「ふいご祭り」が全国的に行われていることと、「イイハ(118)」の語呂合わせにより、全国の主要刃物産地が登録した。

この秋、度々訪れる大田区立郷土博物館の帰り、久しぶりに馬込定康の前を通った。日本刀はさすがにないが、包丁、木鋏、鎌、鉈などさまざまな製品が並べられていた。「定康」では、刃物の切れ味に大切となる火作り、整形、焼き入れ、刃付けなどの全工程を自社工場で行う。包丁、木鋏など製品は用途に合わせて最適な鋼を選定し地金と合わせて打ちのばすため、丈夫で非常に切れる刃物が出来るという。

   定康
      馬込「打刃物 定康」    
   
このところ空前の「刀剣ブーム」だという。刀剣といえば、歴史ファンや中高年男性の独壇場と思っていたが、今や名刀の展示会に足を運んだり、刀剣や模造刀を購入するなど、日本刀への興味を持つ「刀剣女子」が急増しているらしい。
この火付け役は、オンラインゲーム『刀剣乱舞』。名刀を擬人化した刀剣男子の主となって育成するゲームで、加州清光、陸奥守吉行など、実在の刀工が登場するのだとか。

   打刃物
    「定康」 サイトより

先月、『日曜美術館』(NHK)で名刀の鑑賞のポイントなどが紹介されたが、『英雄たちの選択』(BSプレミアム)の2時間のスペシャル『ニッポンを斬る!歴史を創った名刀たち』は実に興味深かった。

トーハクなどで「重要文化財」などの刀剣を目にしても素通り、「刀剣女子」とはほど遠いが、「刀を通して日本人とは何かをひもとく」という内容に惹かれた。刀は単なる武器ではない「歴史の語り部」。刀鍛冶になりたかったという歴史学者磯田氏が現代の刀鍛冶を訪ねたり、多彩なゲストたちがさまざまな角度から熱く語る。

信長・秀吉・家康が愛した因縁の名刀。徳川将軍家が恐れ続けた妖刀。日本刀の歴史を変えた徳川吉宗の「刀剣改革」。
江戸時代に入り、「大坂の役」を最後に大規模な合戦はなくなり、天下泰平の世となった。剣法の「理」が「殺人刀」から「活人剣」に変わったことになる。活人剣の「活」は、敵を働かせて、敵の働きを利用して、それに対応して勝ちを得る、さらに自分と敵の関係を見極めて、自分と敵を共に生かす、という生き方につながっていくという。

名刀の展示会や刀剣美術館な、博物館などに、遠くから訪れる「刀剣女子」たちが、ガラス越しの刀剣に「かわいい!」とか、涙したりするのには驚いた。「東軍流」第17代宗家で歴史家の加来耕三氏によると、「刀剣女子」の日本刀への接し方は正しいという。古くは日本刀を神前にかざし無事を祈ったのが巫女であるならば、現代の「刀剣女子」は、その再来といえるとも。

もっとも印象に残ったのは、江戸末期から明治の剣豪斎藤弥九郎という人物。神道無念流・練兵館の道場主。「技は千葉」(北辰一刀流・玄武館)と「力は斎藤と並び称される。長州藩の桂小五郎、高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔、品川弥二郎などを輩出。
己と弟子たちには「武は戈(ほこ)を止める義なり」ということを厳しく課し、生涯ただの一度も人に対して真剣を抜かなかったといわれる。

思い出したのは、生誕180年を迎えた2003年、墨田区役所の隣に立つ勝海舟の銅像。鞘とコヨリで結びつけられた刀、斬りつけられても決して自ら抜かないという覚悟を表しているという。(勝海舟の眼差し勝海舟の像

    像
       勝海舟の像

『勝海舟-戦わなかった英雄』(鵜沢義行 著)を読んでいるが、「海舟は青年時代に剣、禅、蘭学のすさまじい修業に耐え忍んで成果をあげた。壮年期には捨て身の大胆さで単身適地に飛び込み、21回に及ぶ刺客の襲撃にもたじろがず、遂に江戸城の平和的無血開城を実現した」ことになる。ちなみに、勝海舟が学んだ流派は直新陰流。

普段何気なく使っている諺には、長い歴史の中で身近にあった刀が由来になったものも多い。「相槌を打つ」「トンチンカン(頓珍漢)」「鍛錬」「付け焼刃」「懐刀」「反りが合わない」「しのぎを削る」「焼を入れる」「抜き打ち」「単刀直入」「一刀両断」「元の鞘におさまる」「折り紙つき」など。折り紙は刀の鑑定書のこと。

   長光
   太刀 長光 国宝 鎌倉時代 (トーハク蔵)

トーハク本館では、今月25日まで「小龍景光」の号のある長船景光の太刀、鎌倉時代の相州鍛冶である国光による短刀など、平安時代から江戸時代に至る各流派の刀工による作品が展示されている。今度は刀剣にも目を向けてみようと思う。
芸術・文化・考古

漱石の漢詩

2018年11月07日
今日は24節気の1つ「立冬」。「冬の気立ち始めていよいよ冷ゆれば也」。暦の上では冬の季節に入るが、本格的な厳しい冬の寒さが訪れるのは一般的には11月下旬頃。

10月の桂花会の発表テーマはSさん提案の「漢詩の朗読」。今回は珍しく迷わず、夏目漱石の漢詩に決めた。(漢詩の朗読

中国文学の中で生まれた漢詩は、7世紀ころから日本でもつくられるようになり、平安時代の物語などでは、「詩」と単に書けば漢詩を意味し、「からうた」という訓がつけられた。その後も漢詩文の影響は強く、『和漢朗詠集』にも数多く作品が収められている白居易は特に好まれた。
平安期の代表詩人には、空海、菅原道真らがいる。その後、鎌倉・室町期には、禅林に「五山文学」が花開いた。その頂点は、江戸期から明治初期にかけての時期。20世紀以降は急速に衰退したが、夏目漱石や森鴎外、中島敦ら漢学教育を受けた文化人は漢詩をたしなんだ。 (Wikipedia)

少年時代から漢籍に親しみ、漢詩文を嗜んでいた漱石。幼少期は英語より漢学が好きだった」という漱石は「吾輩は小説よりも漢文学で身を立てたかったのである」と語っていたという。漱石は200首を超える漢詩を残した。その漱石に漢詩を催させたのは子規。

『漱石の漢詩を読む』(古井由吉 著)『漱石の漢詩』(和田利男 著)『風呂で読む 漱石の漢詩』(豊福健二 著)を借りてきて、秋の詩を探すことにした。どの本にも載っていた「修禅寺大患」時代、大吐血からひと月後につくられた五言絶句選んだ。

      楓
      
   秋 風 鳴 萬 木   秋風 万木鳴り
   山 雨 撼 高 楼   山雨 高楼をゆるがす
   病 骨 稜 如 剣   病骨 稜として剣の如く
   一 灯 青 欲 愁   一燈 青くして愁えんと欲す


簡体字で表し、ピンインをつけて、暗誦できるまで何度も繰り返し読んでいると、漱石が床の中から眺めた樹々が目に浮かんできた。わが庭の楓の写真を背景にこの詩を入れて原稿は完成した。これを機会に、『漱石の漢詩を読む』はAmazonで購入して、ゆっくりと読むことにした。

 漱石

漱石の漢詩は、近代の日本文学の中の最高峰と言ってしまうと少し粗忽になりますが、しかし秀でた独立峰だと思います。しかも、漱石の本質、あるいは至り着いた境地が結晶されている。 そこから、漱石自身のことを離れても、その後日本の文学がどう流れたか。文学どころではない。日本の言語がどう流れたか。これを見定めるには一つの定点として良い独立峰となるのではないか。(古井由吉『漱石の漢詩を読む』)                     

  漱石の漢詩
  『漱石の漢詩を読む』 『風呂で読む漱石の漢詩』

漱石の漢詩は風流人の趣味・教養の域をはるかに脱していた。自己の内面世界の消息に取材して自在に人生を論じた点、近代詩の正統を漢詩の形で貫いたともいえる。(大岡信)
漱石の胸中をダイレクトに感じられるのは小説ではなく漢詩ともいわれる。(豊福健二)   
日本人の漢詩のなかで例外的にすぐれている。ほぼ独学であり、読者を想定しない「思索者の漢詩」であるからだろう。(吉川幸次郎)

ちなみに、「風呂で読む」シリーズは、合成樹脂製の本で、湯水に濡れても大丈夫、湯船につかりながら、陶淵明、山頭火、西行、良寛などを読むための本。
中国・中国の旅

漢詩の朗読

2018年11月06日
10月の桂花会、テーマはSさんの提案した「漢詩の朗読」だった。漢詩というと、狭義では漢時代の詩を言うが、広い意味では「中国の古典詩全般」の中でも特に唐時代の詩をさすことが多い。長い唐の時代を、文学史上では、初唐、盛唐、中唐、晩唐とに分けられる。教科書に出てくるのは、李白、杜甫、王維、孟浩然 王翰など、ほとんどが盛唐期の詩人。

唐が滅んだ後も漢詩を作ることは士大夫のたしなみとされ、唐に比べて理知的な宋代の詩も、人気としては唐には及ばないが、蘇軾等一流の詩人を輩出している。元・明・清にも有名詩人が多い。現代中国でも漢詩人は少なからずおり、魯迅・毛沢東など、日本の市販の漢詩集にも採られている詩人は多い。

さて、誰の詩にしようか。おそらく李白や杜甫の詩を選ぶ人は多い。重ならないように夏目漱石の漢詩に決めた。
詩吟がお得意なM氏は、孟浩然「春暁」、李白「早発白帝城」と張継「楓橋夜泊」の3首を選んだM氏。O氏は王翰の「涼州詞」、Sさんは、王維の「九月九日憶山中兄弟」。

Sさんは李白の「子夜呉歌」。五言古詩。子夜という娘が作った呉の地方の歌。李白はこの曲に合わせて、春夏秋冬それぞれを歌った四首の詞を書いた。秋を歌ったもので、四首のなかでもっとも有名。
     
    子夜吴歌        李白

    长安一片月   万户捣衣声 
    秋风吹不尽   总是玉关情
    何日平胡虏   良认罢远征


     月
長安に月が高くさえわたり 家々の衣を打つ音が響き渡っている  秋風が吹いてやまない 月、砧、秋風、すべてが玉門関の夫を思わせるものばかり  いつになったら敵を平らげて あの人は遠征から戻ってくるでしょう

Fさんは古文の時間に習ったという項羽の「垓下歌」。
漢の劉邦と楚の項羽は、和議を成立させ、それぞれ軍を引くこととしたが、劉邦が一方的に約束を破り、背後から楚軍を攻撃し、ついに項羽の楚軍を垓下(安徽省)に追いつめ包囲した。「四面楚歌」の話はこのときのこと。前202年のこの戦いで、漢の劉邦の優位が確定する。重囲を脱した項羽は故郷の江南を目指したが、長江(揚子江)北岸の烏江で漢軍に追いつかれ、乱戦の中自殺した。
 
       垓下歌    項羽

   力抜山兮気蓋世   時不利兮騅不逝
   騅不逝兮可奈何   虞兮虞兮奈若何


力は山を抜き気は世を蓋う  時に利あらず騅ゆかず  
騅のゆかざるをいかにすべき  虞や虞や汝をいかにせん


アマチュア城郭研究家のM氏は、日本のみならず、海外の城にも、とくに中国、万里の長城には何度も訪れている。そんな彼の選んだ漢詩は毛沢東の「清平乐 六盘山」。
六盘山は、中国の陝西省、甘粛省、寧夏回族自治区にまたがる山脈。1935年に毛沢東に率いられた紅軍がここを越え、その際、毛沢東は「清平楽六盤山」の詞を残している。
  
    清平乐 六盘山      毛泽东
       
   天高云淡 望断南飞雁   
   不到长城非好汉
屈指行程二万
   六盘山上高峰 红旗漫卷西风
   今日长缨在手 何时缚住苍龙?


   長城

「好漢」とは立派な男といった意味。「好漢」であるM氏は毛沢東が好きということではなく、この詩の中の「不到长城非好汉」つまり、「長城に到らざれば 好漢に非ず」という詞が好きなのだそうだ。  
中国・中国の旅

企画展「玉」 

2018年11月05日
江戸東京博物館で企画展『玉-古代を彩る至宝-』(~12/5)が開かれている。全国各地から選りすぐった国宝・重要文化財を含む古墳時代の出土玉類で構成されている。

國學院大學博物館で多くの勾玉に出逢い「勾玉」講座をきいて以来、魂、霊に通じる神秘性に魅かれている。(國學院大學博物館 勾玉
この「玉」展のパンフ、「勾玉」の印象が強く、勾玉展だと勘違いしていた。会場で「勾玉」の少ないことに気づいていたが、「玉(TAMA)」展だったとわかったのは帰宅してからだった。

    玉展

日本で勾玉が出現するのは旧石器時代末頃、当初は動物の牙や骨を素材にしていたが、縄文時代には翡翠を加工した美しい石製の玉がつくられるようになった。弥生時代には、ガラスをはじめ多彩な材料の玉が現れ、有力者の墓に納める風習が始まる。
会場では美意識の結晶ともいえる玉の歴史的意義を4章構成で紹介している。

「玉の世界―日本文化の象徴」 古墳時代
   古墳時代
  上野1号墳       奥才34号墳 碧玉製 
  島根県指定文化財 松江市
    
第1章「玉の源流」 弥生時代の勾玉、玉類
  佐賀
    宇木汲田遺跡 ヒスイ製
    佐賀県指定文化財
     
第2章「玉作りの技術」 弥生、古墳時代の玉から現代の出雲産まで
   工房
   大原遺跡 工房復元模型 島根県

北陸、山陰では、玉に適した石材が豊富に産出され、加工技術が発達した。関東では、小規模な玉作りが各地で短期間行われた。古墳時代には、大和に専業工房が置かれ、量産体制が整うが、6世紀、玉作りは出雲に集約され、唯一の生産地域になる。

   現代
    現代 出雲産 碧玉製  メノウ製

第3章「玉飾りの世界」 古墳時代 
日本の歴史上、玉が最も珍重され、玉文化が発展した時代。       
   奈良
  新沢千塚500号墳 奈良県
  ヒスイ製  水晶製  メノウ製   

  藤ノ木古墳
    藤ノ木古墳 ガラス製品(復元)

第4章「海を渡る玉」 日本製と考えられるヒスイ製勾玉が朝鮮半島の有力者の墓から出土。
一方、古墳時代には中国や朝鮮半島、さらにはシルクロードを介して運ばれて来た玉もあった。
芸術・文化・考古

大田区の街路灯 Ⅰ

2018年11月04日
明治になって、金杉橋-京橋間にガス街路灯が建設され(1874)、その後 、銀座に電灯がついた。今日では街灯は照明の役割だけでなく、町の景観を構成する要素でもある。(昼間の街灯街「灯Ⅱ渋谷の街灯楽しい街灯街灯Ⅲ神奈川県の街灯城下町の街灯街路灯 千代田区

東邦大学大森医療センターへはJR蒲田駅からバスに乗っていくことが多いが、歩く場合はあやめ橋を左折して医大通りを行くことになる。

  蒲田駅前
       JR蒲田駅前

「あやめ橋」周辺は、堀切菖蒲園の花菖蒲(アヤメ科)に並ぶ菖蒲園で有名だった。戦後に大森区と蒲田区が一緒になって大田区が誕生、河川敷も整備されて川の氾濫もなくなり、あやめはその時に消えた。

  あやめ橋
        あやめ橋

  蒲田
   工学院通り        逆川 通り 

逆川という名前は、地形や潮位などの影響により、しばしば逆流したことから名付けられた。昭和40年頃、下水道の普及に伴い、川は埋め立てられた。
       
  医大通り
      医大通り

東邦医大通りの街灯には近くの店舗や医院などの広告塔を兼ねている。医大通りだけあって薬局も多い。
京急の梅屋敷駅へは商店街を通って7分。

  梅屋敷
         雑色      梅屋敷 
旅・散策・イベント

池上松濤園へ

2018年11月03日
今日は「文化の日」。国民の祝日の一つ。明治天皇の誕生日にあたり、明治期に天長節、昭和初期に明治節として祝日となっていた。1946年に日本国憲法が「交付」された日。そしてこの日本国憲法は平和と文化を重視したものであるをされるため「文化の日」として国民の祝日に制定された。
ちなみに5月3日の「憲法記念日」は日本国憲法が「施行」された日を記念して制定された祝日。

10月の「おおた区民大学」『歩いて発見!おおたの魅力』に何とか5回とも参加できた。2年ほど離れていた時期があったが、生れたときから今までずっと住みつづけている大田区。大体のことは知っていると自負していたが、まだまだ知らないことだらけ。区民大学の講座を終えて、ますます興味が広がっていく。

昨年秋から勝海舟関係の講座などに通ったお陰で洗足池や池上本門寺、そして松濤園も海舟に縁がある場所だと知った。(勝海舟と大田区
   松濤園 *Click!
      松濤園 *Click!

都旧跡指定の松濤園は、池上本門寺の北側に位置し、本門寺旧本坊の奥庭として、桂離宮の建築と造園で名高い小堀遠州によって造園されたと伝えられている。作庭に当たり、湧き水が出る池を中心に、遠州茶道の極意を具現化するために4千坪の敷地の各所に茶室を配し、来賓者が回遊する屈指の名園となった。普段は非公開で、期間限定で公開される。

 池

小堀遠州は、江戸前期の茶人・武将。遠州流茶道の祖。近江生。茶道を古田織部に学ぶ。作事奉行として建築・造園に才を発揮し、二条城・仙洞御所などを手掛けた。また書画・和歌を能くし、画は松花堂昭乗に学ぶ。書画・古器の鑑定家としても有名。

慶応4年(1868)新政府軍の本陣が置かれていた本門寺。その奥庭「松濤園」の四阿(あずまや)で江戸城総攻撃を前に西郷隆盛と勝海舟の「江戸無血開城」の交渉が行われたという。四阿は現存しないが、隆盛の甥、西郷従徳が揮毫した「両雄会見碑」がある。ちなみに、海舟は本門寺に赴く途中、洗足池の風光に魅せられ、後に池畔に別邸「洗足軒」を構えた。維新後には西郷隆盛も歓談に訪れたと言われる。

  池
      亀島(中央)   朗報会館(右奥)  
 
ずいぶん昔になるが、新年会の会場になった朗報会館の和室から松濤園の庭を眺めたことがあった。そのころは、小堀遠州の作庭ということも、園内で勝海舟と西郷隆盛との会見が行われたことも知らなかった。
4回目の会で「池上コース」を選んだこと、松濤園がコースの最後だったことで、途中参加で松濤園に入ることがきてラッキーだった。(始める秋)

秋晴れのこの日はSさんのシアトル土産の緑茶を中心に桂花会。スペインから帰国したばかりのT氏のみ欠席。いつもより30分繰り上げてもらい、バスで帰られるMさんとお喋りしながら20分ほど歩いてバス停へ。「本門寺裏」で下車して、区のH さんに連絡。皆、松濤園に入ったところだった。バス停から大坊を抜け、宝塔横の急な階段を上がり、近道して朗報会館へ。待っていて下さったHさんと松濤園へ入る。

  碑
   「西郷 勝 両雄会見碑」    朗報会館
      
4千坪という広さの園内、声のする方へ行くと、もっとも見たかった「両雄会見碑」の前に皆集まっていた。何と運のよいこと!リーダー含めて15人ほどの貸切状態。「静かでいいわ~」と、Oさん、5月の公開のときは人が多くて歩きにくかったそうだ。

 石灯籠
   巨大な雪見型の石灯籠  
 
 枯山水

朗報会館に戻って「ふりかえりシート」を書き、3時半、予定より1時間近く早く解散。此経難持坂を下りていくというOさんたちとわかれ、膝をかばって?池上会館のエレベーターで下りた。総門前で再び一緒に池上駅へ。
Oさんと別れ、蒲田のクリニックへ。風邪をこじらせ、咳喘息とやらで、3日つづきの点滴最後の日だった。クリニックを出るとすっかり暗くなっていた。忙しかったが、充実した1日だった。
旅・散策・イベント

カメの逃亡劇

2018年11月02日
帰宅すると、玄関にカメが入ったバケツがあった。夕方、アプローチで猫のククとにらめっこしていたところをごんさんが発見したのだとか。暗くて赤いラインはよく見えなかったが、ミシシッピーアカミミガメだ。道路を歩いてきたとすれば、よく事故に遭わなかったものだと思った。

捨てられたとも思えないし落とし物でもなさそうだ。たまたま居たじゅんじゅん、かなり興味を示していたが、勝手に飼うわけにはいかない。りんりんは「迷いカメ」の貼紙をするべきだというが、誰がつくるわけ?この案は断念した。

交番に届けようと決めたところで、帰宅するとき近くのTさんのガレージで小学生たちが遊んでいた姿を思い出した。あの子たちが何か知っているかもしれない。りんりんを見送りがてら、カメの入ったバケツを持って出た。Tさんに訊ねたが、飼っていないし心当たりもないとのことだった。

戻って5分後、わが家のチャイムが鳴った。Tさんだった。 I さんに電話してみるとカメが逃げ出したので探していたところだったという。 I さんが引きとりにみえるとのこと。 I さんの庭はわが庭と背中合わせ、は出入自由、もちろんカメも。

再びチャイムが鳴り、ごんさんじゅんじゅんが門へ出た。
I さんが日向ぼっこさせていたカメが、いつの間にかいなくなったので探していたらしい。カメを触れないという彼女は飼い主?の息子を連れてきた。彼はカメをひょいと持上げて連れ帰ったそうだ。一件落着。何より捨てられたカメでなかったことに安堵を覚えた。
2度とも門まで出て行き、カメが帰っていくまでを見届けたじゅんじゅんは、しばらく興奮が冷めなかった。
 
   カシオペイア
      顔を隠したり 石上で昼寝したり

息子が幼稚園のときに親戚から譲り受けたアカミミガメを飼っていた。姪に「カシオペイア」と名付けられ、30年以上生きて甲羅は20cm以上になった。

    カシオペイア
      大きくなったカシオペイア
 
ミシシッピアカミミガメは、アメリカでペット用として大量に繁殖されるようになり、価格が安くなったことで日本に入ってきた。平均寿命13~15年、大きいものは30cmほどになるという。(明日香の亀石ミドリガメ

この種のカメは、IUCN(国際自然保護連合)により「世界の外来侵入種ワースト100」に選定されている。 2015年、環境省は「2020年を目処に特定外来生物に指定する」と発表した。指定後の飼育は原則禁止、ペット目的ではまず許可は下りない。また、野生のものを捕まえて家に持ち帰ったりすることも禁止となる。指定前からペットとして飼っていた個体については、6ヶ月以内に申請し、許可を得られたその個体に限って飼養等が可能だという。

飼育下にある個体も野生化している個体も数が非常に多く、社会的に大きな影響が出ることが予想されるため、特定外来生物への指定は時間をかけて慎重に行うようだ。(アカミミガメ対策推進プロジェクト
   
  甲羅干し
     甲羅干し   洗足池

このような状況をつくりだしてしまったのは、ひとえに人間の無責任さ。安易に飼いはじめ、飼い続けるのが難しくなったら近くの池や川に離してしまう現実。だが、カメを放しているのは飼い主だけではないようだ。
ネットをみると、警察に届けると落とし物ではないと断られた、飼うか、川や池に放すようにいわれたとか、さらに警察によって川や池に放される事例が多いことに衝撃を受けた。
とにもかくにも、姿を消したその日のうちに大切に育てている飼い主を探すことができてよかった。
動物など

寄り添う犬

2018年11月01日
今日は「犬の日」。「ワン・ワン・ワン」という犬の鳴き声にちなんだ語呂合わせ。ペットフード工業会など6団体が制定。(1987)

先日、目に留まったのは「ファシリティ―ドッグ 子供の闘病支え9年 ベイリー引退」(毎日新聞)という記事。日本初の「ファシリティードッグ」として、神奈川県立こども医療センターに常勤してきた10歳の雄のゴールデンレトリバー「ベイリー」が高齢のため引退したという。「ベイリー」は、約9年にわたり、延べ約2万3000人の子供に関わってきたそうだ。最近は「名誉ファシリティドッグ」として病院内ボランティア団体での活動に移行。後任は2歳雄のゴールデンレトリバー「アニー」。
       
     ファシリティドッグ
       「シャイン・オン・キッズ」サイトより
         
日本での子どもの死亡原因は、事故を除き病気に限ると小児がんが第1位になり、年間2千から2千500人の子どもが小児がんと診断されている。 小児がんは、現在では70%から80%は治る病となったが、治療プロセスはまだまだ長く過酷だという。

海外で産声をあげたファシリティドッグ。認定NPO法人シャイン・オン・キッズが、日本で初めて「ファシリティドッグ・プログラム」をスタートした当初、犬を医療現場に受け入れてもらうことは容易ではなかったという。「ファシリティードッグ」普及を目指し、病院関係者が中心となって作った絵本『ベイリーとさっちゃん』が出版されたり、写真展が開かれたりしているが、ベイリーのような「ファシリティドッグ」は、現在日本にはベイリーを含め2病院3頭のみだというから驚く。

 絵本
           「シャイン・オン・キッズ」サイトより

「セラピ―ドッグ」はきいたことがあるが、「ファシリティ―ドッグ」は知らなかった。「ファシリティドッグ」は、「ハンドラー」と呼ばれる看護師ら医療従事者とペアでチームの一員として働く犬。日中は病院に常駐、子供たちの手術室への移動に同行したり、添い寝したりする「動物介在療法」が役割。

「ファシリティドッグ」は1つの病院に毎日出勤するフルタイムワーカーであり、専門的なトレーニングを経た使役犬であることが、基本的な躾を受けた家庭犬である「セラピードッグ」とは違う。また、「ハンドラー」も医療従事者であり、「ファシリティドッグ」とともに専門的なトレーニングを受けた人。

ちなみに、「ファシリティ」とは英語で図書館、病院等の施設や設備 、機関」ほかに、「便宜」「容易さ」「器用さ」といった意味を持つ言葉。 ITに関連してファシリティという言葉が出てきたときは、情報通信設備(機器)を格納する設備や施設、建物などを指すことが多い。
動物など
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