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大田区の庚申塔 青面金剛立像

2019年11月30日
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。
塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。

庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざま。申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。
仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。
神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。
さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった。(村境に残る庚申

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   久が原2 正徳3 青面金剛 2鶏 3猿

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       南久が原2    
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     享保5 明和5 青面金剛 邪鬼 3猿 2鶏 

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    南久が原2 青面金剛 延宝5  
       「武城南荏原郡六郷庄鵜木村」
 
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     新田神社参道 青面金剛 元文5   
旅・散策・イベント

「宥坐の器」

2019年11月29日
博物館友の会のバス見学会はとちぎ路の旅。最初に訪れた足利学校でもっとも目に焼き付いたのは、都会ではめったに目にしたことがない銀杏や櫂の樹の鮮やかな黄葉。帰ってからも気になっていたのが「宥坐の器(ゆうざのき)」。(足利学校
孔子のことばだというが、『論語』にあっただろうか。調べてみると、この「宥坐」というのは、『荀子』の宥坐編の冒頭に現れる一節という。
         
儒教で学ぶべき4書『大学』『論語』『孟子』『中庸』があるが、孔子のことばに「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と、儒教においては「徳」が最重要視され、「中庸」が最高の徳であるとされる。
この中庸思想をを具現化したものが「宥座の器」ということになる。宥座とは座右の意味とか。

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「宥坐の器なるものは、虚なれば則ち欹(かたむ)き、中なれば則ち正しく、満つれば則ち覆(くつかえ)る」
極端に多すぎることは少なすぎることと同じくらい良くない。
決して「中途半端」ということではなく、「満を維持するために、敢えて抑損である」。
人生におけるすべてのことにおいて、無理をすることや満ち足りることを戒め、中庸の徳、謙譲、謙虚の徳の大切なことを教えている。

「宥坐の器」について調べていて、館林の鍛金工・針生清司氏が13年の時間をかけ平成4年に復元したことがわかった。
器は対照的に見えるが、片側が厚く、反対側が薄くなっていて、バランスの良い位置に金具が配されているという。
これまで250点以上つくり、足利学校、湯島聖堂、長崎孔子廟、高崎東善寺のほか、中国曲阜市などに寄贈したとある。

「足るを知る」という老子のことばを思い出した。「知足者富」は「足るを知る者は富む」、「既に十分満足であることを知っている」という意味。
老子の言う「足る知る」というのは、「仕方なく満足する」「これでよい」という消極的な意味ではなく、「これが良い」と思える生き方、今の自分自身に満足することだという。

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        龍安寺 蹲  (Wikipedia)

昔、わが家にいくつもあった灰皿の中でも、京都龍安寺にある「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」という蹲を模した青銅の灰皿は妙に印象に残っている。

「中庸」と「知足」・・・どちらも目指すのは欲張りだろうか。せめて「己を知る」ことで、心にゆとりをもち、感謝を忘れないようにしたいと思うのだが・・・。
中国・中国の旅

下野の古墳から

2019年11月28日
博物館友の会のバス見学の午後は壬生町歴史民俗資料館と壬生車塚古墳。その後、下野市に移動。
栃木県の埋蔵文化センターとしもつけ風土記の丘資料館へ。 (黄葉のとちぎ路壬生の古墳群

栃木県埋蔵文化センター 

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膨大な出土遺物が保管されているバックヤードでは実際の遺物に触れることができる。

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            「重たい!」    
 
下野風土記の丘資料館 

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      北には男体山など日光連山

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     下野国分寺跡 資料館 下野国分尼寺跡
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3年前、甲塚古墳出土品が国指定の重要文化財となり、修理が必要な15基の埴輪のうち、今年度は3基の人物埴輪が修理された。

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       修理された人物埴輪
 
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          4基の馬型埴輪

基部が墳丘に樹立した状態で残されていた大きな4基の馬型埴輪は、いずれも白馬を表現したと考えられている。白のほかには黒・灰色・赤が使われていて、古墳の造られた当時は色鮮やかな埴輪が並んでいたと想定されるという。
芸術・文化・考古

壬生の古墳群

2019年11月27日
今年の博物館友の会のバス見学は「とちぎ路」。古墳など遺跡を知るいい機会だと思って参加した。
参加者のほとんどは古墳などとくに関心がない人たち。行きの車内で学芸員の「墳活」「墳女」「まりこふん」のことばにピンと来ていなかった参加者たちも、帰りには「私も墳活します~」など、古墳や考古学が身近になったと話すまでに。

栃木県は全国で古墳、横穴墓の数はそれほど多くはないらしいが、この日3ヶ所の施設を訪れ、さまざまな遺物に出逢ったことで、多少でも系統だった学習ができたように思う。

壬生町歴史民俗資料館 
最初に訪れた壬生町歴史民俗資料館では、まず富士山古墳出土の2種類の家形埴輪の大きさに圧倒された。
富士山古墳墳頂部からは大形の家形埴輪をはじめ翳(さしば)や盾形埴輪が出土。また、墳丘の第一段平坦面からは、円筒埴輪列とともに、形象埴輪列(馬・人物)が確認されている。
いずれの埴輪も大形、とくに家形埴輪は高さが150cmをこえる、国内でも最大級の埴輪。
  
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   入母屋造りの家   円柱をもつ家
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       家形埴輪彩色復元図
 
壬生の中央部を流れる黒川の流域には、代々多くの古墳が築かれた。古墳時代後期の墳丘に第一段平坦面を幅広く造るという共通の特徴(基壇)を持つ。

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         車塚古墳の基壇

恵川と黒川が合流する東岸の台地上には、愛宕塚古墳や車塚古墳をはじめとする「壬生地区の古墳群」が築かれた。
黒川の約5km上流の台地や丘陵上には、茶臼山古墳や富士山(ふじやま)古墳をはじめとする「羽生田地区の古墳群」が築かれた。ここからは国内最大級の家形埴輪や七条またはそれ以上のタガを持つ円筒埴輪が出土している。
 
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35年務めた館をまもなく退職という学芸員の熱のこもった展示解説のあと案内されたのは敷地内の吾妻古墳の玄門や天井石。
玄門は凝灰岩だが、大きな硬い石を天井にしたとは信じられなかった。
ちなみに吾妻古墳は6世紀後葉に築かれた二段築成の前方後円墳(全長127.85m)。

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    吾妻古墳の天井石 (4×3.5m×1m)

発掘調査もされたという学芸員の先導で、バスは車塚古墳へ。
壬生車塚古墳   国指定史跡 古墳時代終末期の国内最大級の円墳(直径84m)
墳丘の表面は川原石の「葺石」で覆われ、墳丘の南側に巨大な凝灰岩の一枚岩を組み合わせて造られた横穴式の石室が開口している。築造時は羨道部があったことが調査で確認されている。

石室の中に入った。中はエレベーターくらいの広さ。天井や壁には薄っすらと紅色の彩色が残っていた。

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甲塚(かぶとづか)古墳(6世紀後半)の帆立貝式古墳は車窓から。
ほかにも国の史跡である琵琶塚古墳(6世紀前葉)の前方後円墳、摩利支天塚古墳(5世紀末~6世紀初頭)も近くに築かれている。
旅・散策・イベント

足利学校

2019年11月26日
博物館友の会のバス旅行は晩秋の栃木路。最初に訪れたのは足利学校。
足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、国の史跡に指定されている。
創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがあるが、歴史が明らかになるのは室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元を招いて初代の庠主(しょうしゅ)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してから。

応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介された。
平成27年、史跡足利学校跡を含む「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」が正式に「日本遺産」に認定された。

まず「入徳門」をくぐり、受付棟で「足利学校についてのビデオ視聴。銀杏、楷の樹などの黄葉はみごとだった。

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         ビデオ視聴

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中国明代の聖廟を模した孔子廟は工事中。
学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用された方丈に上がった。

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            孔子像

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     「漢字試験」  

1組の男女が座卓に座り試験に取り組んでいた。初級は思ったより簡単な問題のようだった。

方丈の前にあったのは「宥座之器(ゆうざのき)」。
空の時は傾き、水をほどほどに入れると起きてくる。また、いっぱいに入れるとひっくり返る。「満ちて覆らないものはない」

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        水を入れるEさん

「宥坐の器」は孔子の説いた「中庸」の教え。宥坐とは、常に身近に置いて戒めとするという意味。
4年前、桂花会のM氏から頂いたのは足利学校で販売している「論語抄」の日めくり。31種の論語が書かれた暦。(5枚めくれば・・・
今も壁にかけているが、めくるのを忘れることが多い。
心を入れ替えて来年から、いや明日から毎日めくるようにしたいと思いながら学校を後にした。
旅・散策・イベント

黄葉の栃木路  

2019年11月25日
秋の一日、博物館友の会の日帰りバス見学会にはじめて参加した。バスは8時に大森駅を出発。参加者は29人。
「縄文土器づくり」で一緒だったEさんと隣席、すっかり意気投合。
途中、車内では、S学芸員の用意した8枚の資料が配られて、訪問場所についての事前学習?
時折見える富士山、栃木の山々もよかったが、車内からも訪れた各所で都心では見られない鮮やかな紅葉や黄葉を堪能した。

足利学校  日本最古の学校(室町時代初期に足利一門により設けられた漢学(儒学)研修のための施設。 
生涯学習の時代、「自学自習」の精神を今に伝える教育の原点ともいえる。 
徳川家綱の時に造営されたといわれる孔子廟はちょうど工事中だった。

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           学校門近くの銀杏

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    楷樹  栃木県指定天然記念物

楷樹は湯島聖堂で何度か仰ぎ見たことがあるが、黄葉の楷樹は初めて。学校の方丈内の見学をそこそこに時間まで眺めていた。

楷樹 ナンバンハゼ ウルシ科。雌雄異株 栃木県の天然記念物の指定
大正4年、東京林業試験場の白澤博士が山東省曲阜の孔子の墓所「孔林」から種子を持ち帰って育て、のちにその苗を足利学校、湯島聖堂、多久聖廟、閑谷学校聖廟などへ贈った。

鑁阿寺ばんなじ) 真言宗大日派総本山 
建久7年(1196)、足利義兼が邸宅内に持仏堂を建立したのが始まり。 足利市宅として国の史跡指定

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           大銀杏  天然記念物 
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大銀杏の幹囲9m、高さ約30m 樹齢は約550年以上   最近樹勢が衰えてきたという。  

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しもつけ風土記の丘資料館  下野市 

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        ケヤキ     16:50    

資料館を出ると、すでに陽が暮れようとしていた。大好きなケヤキのシルエットが気になりながらバスへ乗り込んだ。車内から久しぶりに燃えるような空を見ながら一路東京へ。
車窓から間近にライトアップされた東京タワーに「わあ、きれい!」歓声が上がった。
旅・散策・イベント

赤レンガ棟の歴史

2019年11月24日
「赤レンガ図書館」と呼ばれる北区の中央図書館は、かつての陸軍の砲兵工廠 銃包製造所の敷地に建っている。(『戦いの中の青春』Ⅰ

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    「赤レンガ棟から図書館へ」のパネル *Click!

この赤レンガ棟は今年100周年を迎えた。これを記念して開かれた北区の文化講演会「歴史的建造物が図書館に生まれかわるとき」(佐藤総合計画の篠原正樹氏)の前に6年ぶりに「赤レンガ図書館」に立ち寄った。(「赤レンガ図書館」

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明治38年(1905) 小石川から砲兵工廠 銃包製造所が十条台に移転・開設される その広さは10万坪とか。
大正5~8年(1916-19) 施設拡張 8年に現中央図書館となる赤レンガ棟が建設される
昭和22年(1947)  戦後、造兵廠の施設はアメリカ軍に接収される
昭和33年(1958)  一部が日本に返還され、陸上自衛隊が入所 

その後、赤レンガ棟は倉庫などに利用されていたが、敷地の一部が北区に移管される
平成11年(1999) 十条駐屯地の跡地を公園及び新中央図書館用地とすることが決定
平成18年(2006) 新中央図書館建設の着工
平成20年(2008) 新中央図書館「赤レンガ図書館」開館

そして今年、「赤レンガ棟」の建物建造100年となる。
赤レンガ棟は、南北約54m、東西27m、軒までの高さ5.4m。建てられた当時は「間(けん)」という長さの単位を用いていた。
図書館に生まれかわった現在も、書架の間の幅は「間」を基準に設定されているのだとか。新旧みごとに調和したデザイン。

『赤レンガ棟の歴史と見どころ』をみると、「リベット留めの鉄骨ラチス柱」が用いられている。
また、「トラス構造の屋根」は、工場として建造されたため少ない数の柱で屋根を支えるための工夫がされている。

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      トラス構造の屋根と鉄骨ラチス柱

現在の赤レンガ棟の扉の一部には、改修以前に嵌め込まれていた「手漉きガラス」が残されている。

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      手漉きガラスの扉

赤レンガ図書館のレンガの積み方は、オランダ積みという強固な積み方。一段ごとに縦向きと横向きを並べて積み上げ、目地が一直線にならない工夫がされている。イギリス積みとオランダ積みは外観は同じだが、端部の調整の仕方が異なる)

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     イギリス積み・オランダ積み
     (赤レンガ図書館外壁)

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     フランス積み       アメリカ積み
 (群馬県富岡製紙場外壁)  (同志社大学彰栄館外壁)
  
また、赤レンガには刻印が押されているものがあり、その多くは北区や足立区といった隅田川沿岸のレンガ工場で製造されたものとわかる。 

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保存、再生は新築よりはるかに時間、費用、エネルギーが必要だという。
新しい機能を加え、耐震補強、免震などの新しい技術を取り入れて、地域住民に共通した思い出や価値観、地域特有の精神的な共有財産を「未来につないでいくことに」大きな意義があるという。
芸術・文化・考古

赤レンガの図書館

2019年11月23日
2年前、亡くなった母の青春時代は戦争で明け暮れた。『「戦いの中の青春」日本女子大卒業生の手記』(「戦争と平和」市民の記録)を久しぶりに開いた。
この本は、入学寸前に日米開戦、卒業の年に終戦という戦争の時代を過ごした女子大生が勤労動員に明けくれ、空襲、疎開、食糧難などをくぐった青春の記録。戦後30年、戦争体験を風化させないようにと、有志数十名が書き綴った手記(『戦いの中の青春』1976)に、高良留美子氏の解説が加わり、「戦争と平和ー市民の記録」シリーズとして発刊されたもの(1992)。

『戦いの中の青春』には、母も手記を寄せていて、終戦の3日前まで、板橋の陸軍造兵廠に動員されていたとある。
旧加賀藩下屋敷跡地に作られた第二陸軍造兵廠、通称「二造」は火薬製造所で、火薬のほかにも機関銃や大砲、風船爆弾などの製造も行われていたという。
JR埼京線十条駅南部一帯はかつての東京第一陸軍の造兵廠で、火薬や弾丸のほとんどを造っていた。線路の東側(北区)が第一造兵廠。西側(板橋区)が第二造兵廠だった。(「戦いの中の青春」Ⅱ 北区に残されたもの

造兵廠とは、兵器を造る廠、軍直轄の工場のこと。日露戦争中、明治政府は兵器工場を開設、その後、相次いで工場は増設され、最盛期には赤レンガの建物が約20棟並んでいたこともあった。
戦後は米軍に接収され、ベトナム戦争時には負傷した米兵のための病院としても使われた。

2013年夏、かつて母たちが勤労動員された陸軍造兵廠があった地を訪れたことがあった。(『戦いの中の青春』Ⅰ
このとき、もっとも印象に残ったのが、赤レンガの北区立中央図書館だった。

この赤レンガ棟は、大正8年(1919)、陸軍の砲兵工廠銃包製造所の大規模な拡張された時、建造された275号棟(弾丸鉛身場)。外壁や柱や梁などを活用する形で図書館の一部となった(2008)。
  
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       北区立中央図書館   2013.7

「赤レンガ棟100周年記念 歴史的建造物が図書館に生まれかわるとき」という北区文化財講演会があることを知り、申し込んだところ当選した。
会場は以前2度ほど訪れたことがある北区飛鳥山博物館。大田区民としては交通の便、利用しやすく明るいなど、羨ましい限り。一度しか訪れたことがないが、ほかにも飛鳥山には「紙の博物館」「渋沢栄一史料館」がある。

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                    2019.11

秋晴れの日曜日、講演会の前に中央公園の中にある赤レンガ棟へ立ち寄ることにした。
前に訪れたのは6年前は夏、平日のせいか、芝生に人はいなかったが、この日の芝生では大勢の親子たちが楽しそうに休日を過ごしていた。
図書館や芝生広場がかつて軍事施設だったことを知っている人はどのくらいいるのだろうとふと思った。
 
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現在は図書館として平和的に利用されている赤レンガ棟が建てられて100年が経った。   
旅・散策・イベント

池上フリーマーケット

2019年11月22日
今日は24節気の1つ「小雪」。わずかながら雪が降り始めるころ。『暦便覧』では「冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也」と説明している。

S君親子とモスで会ったときに、日曜日に「池上フリーマーケット」に仲間で出店するので来て下さいと誘われた。(キノコが一番
午後からは北区の博物館で講演会があるため、午前中フリマを覗くことにした。池上に出るついでにと、池上在住のO氏に頼まれていた本を渡すことにした。池上駅前の三菱銀行前と11時いう約束をした。

秋晴れの日曜日、O氏に渡す本3冊、フリマに寄付するリラックマのマグやコースター、アクセサリー類などを持って、まずはフリマ会場へいくことにした。

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         フリマ@本門寺通り
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     「筑波大学付属小学校の問題集」まで

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       本門寺でも朝市

前日に「フリマの場所、なんと本門寺のグランドらしいです」と連絡がきたが、「グランド」は本門寺公園のあのグランドだと思い込み、まずは池上会館からエレベーターで境内に上がり本門寺公園に向かった。
太極拳、キャンプ場ではまさにこれから飯盒炊さんが始まるところだった。グランドではサッカーなどに興じる少年たち、どこにもフリマらしき店も人もいない。

再び、池上会館の下に戻り、犬の散歩中の人に訊ねると、フリマの会場は五重塔の先の広場だろうといわれた。もう一度、やり直し。
階段を極力避けたのが、結果、公園内の石段を無駄に上り下りすることになった。

再び会館のエレベーターに乗り、五重塔を過ぎ、さらに行くと賑やかな広場に出た。グランドとはここだったのか!
この時点でO氏との待ち合わせ時間に間に合いそうにない。電話はつながらない。
Sくんのママにも電話するが、こちらもつながらない。背中合わせに6列ある。どこに??入口から探しながら奥まで行ったところで、O氏から電話。
「たった今、お詣りして降りてきて・・・」で駅まで戻ったところだとか。結局、駅から参道の橋のところまでもどってもらうことに。

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      フリマ@広場(グランド)
    
電話がつながり、お迎えに来てもらって持参したものを渡したら、店を覗く間もなく会館のエレベーターで下に降りた。
橋でO氏と合流、本を渡し、賑やかな参道を抜けて駅で分かれた。

飛鳥山へ向かう車内で調べると、池上フリマは春2回、本門寺通り(70)、姫沙羅通り(40)、本門寺桜広場(グランド)(120)の3ヶ所で開かれることがわかった。グランドが本門寺公園内とはどこにも書いていなかった。
時間の余裕はあったはずが、思い違いした「グランド」のせいで焦りまくり、この日に限って着て出たダウンコートのせいで汗だくになった。

翌日、S君ママから「リラックママグ、アクセサリー2点、シーラーが売れました」と報告があった。また、春にやる予定というので、スピードが落ちていた断捨離の励みになりそうだ。
旅・散策・イベント

土器いろいろ

2019年11月21日
土器とは、その名の通り、土を練って形を作り、焼き固めた器のこと。縄文時代から平安時代までの長い間、使われている。

縄文土器
低温で焼かれた厚手の土器。黒褐色のものが多い。縄文の模様に限らず、立体的な装飾が目立つ土器も多く出土している。
この縄文土器ができたおかげで、人々の生活は大きく変化し、採集したドングリなどの木の実のアク抜きに使われたり、料理にも使われたりした。

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縄文後期  國學院大學博物館

弥生土器
素焼きの土器。比較的低い温度で焼かれていて赤っぽい色、厚手。
縄文土器と同じ「野焼き」、さらにドーム状に土をかぶせた「覆い焼き」。
稲作も始まっていることから、縄文土器と違い実用性重視。デザインも大変シンプルで模様は丸や三角、そして直線や波。
基本形は、壺型(穀物や液体を保存)、甕型(煮炊き用)、高杯型(食べ物の盛り付け用)。
  
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       弥生土器 國學院大學博物館

土師器
古墳時代に登場した弥生土器と同じ系統の土器。特徴もほぼ変わらないため、大きな区別がない。
「覆い焼き」で焼かれ、赤っぽい色で、やや軟質。
弥生土器と比べると薄型。煮炊き用、食器用。

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    杯 奈良・平安時代 十二天遺跡
      大田区立郷土博物館

須恵器
古墳時代中期(5世紀中頃)、朝鮮半島から轆轤を用いて形を作り、窯で焼くという技術が伝わり、生産が始まった。
1000度以上の高温窯で焼かれたことで、より硬く、青灰色の焼き上がり。
その後も土師器の生産が終了したわけではなく、土師器と須恵器は共存し、使用用途ごとに使い分けられていた。
主に貯蔵用・食器用、祭事用。
     
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      杯 奈良・平安時代 十二天遺跡 
      大田区立郷土博物館

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      大韓民国  國學院大學博物館
 
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        わが家の香炉

國學院大學博物館で「大韓民国」の器の展示をみて、旧宅の書院にずっと置かれていた香炉と似ていると感じた。
朝鮮半島から伝わって日本でつくられた須恵器だと考えられないだろうか。いつの時代につくられたものかはわからないが。
芸術・文化・考古

「地中の歴史 3万年」

2019年11月20日
現在、大田区立郷土博物館では、特別展『嶺の御嶽山と一山行者』が開かれている。1階ロビーには「地中の歴史3万年」として大田区の旧石器時代から古墳時代、古代までの代表的な遺物が展示されている。
先日のS学芸員によるギヤラリートークに集まったのは約20人。

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大田区内には旧石器時代から近世までの遺跡が240知られており、約3万5千年まえから人の暮らしの痕跡(遺跡)が見つかっている。この展示では、区内の遺跡から見つかった資料の中から、各時代を特徴づける、とくに暮らしの道具が展示されている。

旧石器時代(BC33,000~11,000年) 大田区の代表的な遺跡には、久原小学校内遺跡や久ヶ原遺跡など 
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縄文時代(BC11,000~500年) 大田区の代表的な遺跡には、大森貝塚、千鳥久保貝塚、下沼部貝塚など
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      大田区の縄文時代の遺跡 *Click!
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弥生時代(BC500年~3世紀) 大田区の代表的な遺跡には、山王遺跡、久ヶ原遺跡、都立田園調布高校内遺跡など
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古墳時代(4~7世紀) 田園調布古墳群 多数の横穴墓 
古代(奈良・平安時代 8~11世紀) 十二天遺跡など 
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ギャラリートークの後は、2階で実際に土器や石器などに触れる体験。恐る恐る手に取って感触を確かめている人が多かった。
友の会(考古)の会では土器片や石器の整理をしているが、須恵器や土師器ははじめて触れた。

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ちなみに、須恵器は、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。
土師器は、弥生土器の流れを汲み、古墳時代から奈良・平安時代まで生産された素焼きの土器。埴輪も一種の土師器。
須恵器に並行してつくられたが、実用品として三束脚、土師器の方が品質的に下だった。
芸術・文化・考古

「一番はキノコ!」

2019年11月19日
今年の夏休み、キノコ博士?のS君と郷土博物館でのイベントで知り合って、母親とLINEでやりとりするようになった。彼は小学3年生、もっとも若いボーイフレンドだ。
これまでに国立科学博物館筑波実験植物園の「きのこ展」(9/21~29)で彼の撮ったキノコの写真や瓢箪を持ってはしゃぐ彼の写真が送られてきたことから、わが家に残っていた瓢箪5個をあげることになった。(幸せとは何か」ときかれても縄文の昔から
下校時間に合わせて母親が迎えに行き、学校近くのモスで会って瓢箪を渡した。(7年経った瓢箪

久しぶりに下校後に会うことになった。今回はSさんにいただいた中国四川省土産の干ヒメマツタケを持っていく約束をした。
この日の午前中は考古の整理作業。昼で抜け出して待ち合わせのモスへ。
  
朝、キノコなどの本3冊を母親のバッグに入れてと頼み、張り切って登校したそうだ。
早速、付箋紙だらけの『おいしいきのこ 毒きのこ 図鑑』でクイズを出される。お馴染のシイタケ、エノキダケ、シメジ、マイタケ、キクラゲ・・・食べたことのあるキノコと毒キノコではベニテングダケくらいだろうか、難しい問題ばかりであまり期待に応えられなかった。 
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彼の本によると、ヒメマツタケは北米の東南海岸地域やブラジルに産し、日本で人工栽培され、薬用や健康食品として知られている。アガリクスのことらしい。

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                  ヒメマツタケ
 
「今、一番はキノコ!鉱石は2番・・・」という彼にプレゼントしたのは「鉱石標本」。娘が中学か高校の授業で使っていたのだが、なぜかわが家に残っていた。「琥珀が一番好きなんだ」という彼、残念ながら琥珀は入っていなかったが、喜んでくれた。

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次回は冬休みだろうか? 今度は昔、わが家にできたサルノコシカケを上げる約束した。
植物など

ミカンの季節

2019年11月18日
ミカンの美味しい季節。あまり果物は食べないが、今年からとくにミカンを頑張って食べている。
Sさんからから「骨粗鬆症に温州ミカン」がいいときいたのは、先週、わが家でランチをしているときだった。
彼女は骨粗鬆症がひどかったが、テレビでみた「1日4個の温州ミカンを食べる」ことを半年実践したところ、骨密度が85から110にアップしたという。
何でも温州ミカンはほかの柑橘類に比べてβ-クリプトキサンチンの含有量がダントツに多い。このビタミンは骨粗鬆症の予防、がん予防などが言われているとか。

今年5月、腰痛治療(AKA療法)のために受診したあざみ野の整形外科で、骨密度を測定(DXA法)した結果はショックだった。
腰椎の方は同年齢の平均骨密度と比較して同等(110%)だったが、大腿骨がまずい。大腿骨頚部は92%とだいぶ下。若年成人の平均骨密度と比較すると66%にり、「骨粗鬆症」と診断される70%以下だった。(油断大敵

血液検査の結果からも正真正銘の「骨粗鬆症」とわかった。「骨の新陳代謝」の速度がわかる「破骨細胞活性」という項目が基準値(120~420)をだいぶ超えていた。つまり、「骨芽細胞」による骨形成される速度に比べ、「破骨細胞」による骨吸収の速度が速いということらしい。そのため骨密度の値にかかわらず骨折の危険性が高いという。

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           ミカン狩り       2019.11.4
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         お裾分けはなかったが・・・

温州ミカンに含まれるβ‐クリプトキサンチンは、骨の良好な代謝を助けることにより、骨の健康維持に役立つことが報告されているという。
ミカンのない季節はどうするのか、そのときはジュースだという。温州ミカン1個分のカロリーで約3個分のβ‐クリプトキサンチンが摂れるというPOMアシタノカラダみかんジュースという濃縮還元ジュースをみつけた。ミカンの季節が終わったら、このジュースに頼ることにした。
この半年、月一度の薬を飲み始めた。食事にも少し気を配るようになった。Sさんのお陰で、この冬温州ミカンという強い味方が加わった。年明けにでも再び、骨密度を測ってみようと思っている。
植物など

「オッー! 麦の芽が!」!!

2019年11月17日
10月末に麦の種を蒔いてからおよそ2週間、講演会のために博物館へ行く途中、畑の前を通った。金網越しに麦を蒔いた畑を覗くと、緑の芽が目に入った。10cmほどあるだろうか、順調に育っている様子。

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          種蒔き      10.27

博物館に着くと早速、麦細工の会のYさんにLINEで写真を送ると、「オーッ!麦の芽が❕ 明日は参加予定です」と返信があった。
翌日の麦の会はまず畑に集合。「順調だね」の声が聞かれた。

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                    11.9

考古の会で博物館に行く前に畑へ寄ってみた。前回見たのは6日前、Yさんに「麦、伸びたような・・・そうでもないような・・・」と報告。
「芽は少し太くなっているような・・・欲目!?」と。いやいや、やはり太く、しっかりしているような気がした。
彼女が次に見るのは12月半ばの「土寄せ」。「楽しみです!」のスタンプが返ってきた。

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                    11.15

5月の麦刈りまで「麦踏」「土寄せ」「支柱たて」などが予定されている。大切に見守っていくことになる。
植物など

御嶽神社の建築

2019年11月16日
大田区立郷土博物館の特別展『嶺の御嶽山と一山行者』に関連した講演会も3回目。講演会を通して木曽の御嶽山と深いつながりがある由緒ある神社だとあらためて知った。「嶺の御嶽神社に三度参拝すれば、木曽御嶽山に一度行ったのと同じ」といわれ、今も多くの崇敬者が参拝する。(嶺の御嶽神社

10月に予定されていた「御嶽神社の建築について 社殿の形式と建築彫刻」(芝浦工業大学建築学部教授 藤澤彰氏) の講演は、台風19号の影響で博物館が休館となり、11月の土曜日に行われた。

神社建築にさまざまな様式があることを知った。
出入口を屋根の棟に平行な平側に設ける「平入」と、形式と直角の方向になる妻側に出入口を設ける「妻入」がある。
「平入」   
神明造  伊勢神宮正殿  棟持柱  穀倉に由来か  掘立柱
流造 上賀茂神社本殿 下賀茂神社本殿 日本に一番多い形式(6~7割)
「妻入」  
大社造 出雲大社本殿  出雲地方に集中的に分布  大型 9本柱 棟持柱 掘立柱
春日造 春日大社本殿  奈良、和歌山に多い     正面に庇を付加  小型 土台立て 

ちなみに、寺院建築は内部の仏像の配置などから平側に長いため、伽藍内の建物は「平入」が一般的なものとなっている。
妻入の「妻」は、建物の中央に対しての「端(ツマ)」が語源で、配偶者の呼び名である「妻」は、家の端、つまり「つま」に居たことからだとか・・・。       

「権現造」は、石の間造ともよばれ、まず左右に長い本殿を置き、その前に拝殿を配し、その間を「石の間」で繋いだもので、上から見ると「エ」の字の型になる。  
江戸時代に徳川氏関係(東照大権現)に多く用いられたため、「権現造」と呼ばれる。一般に豪華・華美。

北野天満宮社殿   本殿、幣殿(石の間、相の間)、拝殿からなる
豊国廟、日光東照宮に採用され、その後、各地の東照宮、その他の神社にも採用される

権現造は江戸期の関東地方に流行し、日光東照宮の影響大。経済力のある神社だけに造営可能。
装飾も江戸中期から後期にかけて全国的に流行。経済力に応じて彫物の数量と程度を加減できる。

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                御嶽神社

天保2年(1831)に造営された御嶽神社社殿は権現造という形式と彫物による装飾という面で、流行の本流に位置づけられるという。
社殿は、本殿、拝殿、幣殿からなる権現造で総銅板葺。本殿と拝殿は入母屋造、幣殿は両下造。

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        本殿     幣殿     拝殿

社殿の周囲の壁面には、大田区指定有形文化財の「養老の瀧」「司馬温公の甕割り」など和漢の故事に因む見事な彫刻が施されている。今度、神社の前を通ったら、これらの社殿彫刻をじっくり見なくてはと思っている。
芸術・文化・考古

パンのランチ

2019年11月15日
毎月の中国語の桂花会ではランチと雑談の後、Sさんが淹れる2、3種類の中国茶をいただきながらそれぞれの中作文を発表することになっている。
今月の宿題のテーマに「やめなくては~と思っていてもやめられないこと」を提案した。Sさんは「いつもぎりぎりになってしまう宿題、何とか早く始めたいと決意するのだが・・・」という。自分のことを言われているようだった。

もともと意志が弱く、切り替えが悪い。それこそ「かっぱえびせん」ではないが、やり始めると止まらなくなるコトが多い。お菓子ならお腹いっぱいになってやめることになるのだが。
最近の例では「千羽鶴」。一旦折り出すとやめるタイミングを誤ることが多い。PCの傍に折り紙を置いておき、起動するまでに1羽折るとすっかり開いても2羽目、3羽目と折ってしまうこともある。また、出かける前、PCも切り身支度も済ませると、あと15分あるから3羽か4羽くらい折れそうだと折り始める。そして出かけるのをやめたくなるといった具合。

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そんな千羽鶴について書こうとだいぶ前に決めたのだが、延ばし延ばししていた。おまけに前日の夕方までは覚えていたのだが、夜、すっかり忘れて寝てしまった。幸い4時に目が覚めて宿題のことを思い出し、慌ててPCに向かった。何とか終えたのは朝7時近く。

この日の8時過ぎ、自転車で7時から空いている「GURU GURU ベーカリー」に向かった。たまに自転車で通ることがあるが、小さいお店ながら客足が絶えない人気店。電車で買いに来る人も多いとか。実際にこの夏知り合ったS君のママやひと駅歩いて買いに行くというSさんなど、知り合いにもファンは多い。
「猫が喜んだ時にグルグルと鳴らすくらい、お客さんに喜んでもらいたい」というオーナーは大の猫好きで、店内も猫のインテリアが多い。フレンチの名店ジョエル・ロブションで修業を積んだ実力派で、本場フランス仕込みとか。

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店の前に自転車を停める。中に2組。店に入ると、すぐに背広姿の男性が入った。自分でとらずにショーケースをみて「プールサレ1個にシナモン2個・・・」と注文する。数十種類のパンの中から選ぶのは難しい。

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気づくと後ろに2組、店の外に1組待っていた。男性陣は柔らかいデニッシュがいいかなと(思い違いだった)いくつか選び計12個。とにかくリーズナブルで2000円しなかった。桂花会も5年半、ランチにパンを出したのは初めて。
あまりの多種多様のパンが並んでいて迷うこと、月、火曜日が定休日というのが残念だ。
来月は宿題なし、アルコールと中国茶。ランチはワインにあるパンにしたい・・・どんなパンにしようか悩むのも楽しい。
中国・中国の旅

品川区の仙台坂

2019年11月14日
現在東京都内には2つの仙台坂があり、名称はいずれも江戸時代に仙台藩の屋敷が近隣にあったことに因んでいる。
港区麻布にある仙台坂と品川区にある坂。
品川区の旧仙台坂は、現在「くらやみ坂」と呼ばれており、海晏寺(南品川五丁目)と泊船寺(東大井四丁目)との間にある坂(下は仙台坂トンネル)を指す。その後交通量が増加した事から、現在は池上通りを仙台坂と呼ぶようになった。

旧仙台坂の左右中程から上に仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があった。
大名屋敷には大きく分けて「拝領屋敷」と郊外の農地などを買い上げる「抱屋敷」とがあった。
上屋敷は、藩主やその家族が住む江戸城周辺の居屋敷。家臣の住む長屋、学問所、武道場などもあった。
中屋敷は、江戸城の外堀の内側の隠居や嗣子の住む屋敷。上屋敷罹災の折、予備の邸宅に当てられた。
下屋敷は、国許からの物資の荷揚げ、保管、他藩邸への食糧、建築資材などの供給、そして藩主家族の別邸。

江戸近郊に位置した品川地域には、幕末には27もの大名屋敷が存在していたが、下屋敷や抱屋敷が多く見られた。

仙台坂上には屋敷の味噌蔵を起源とする「仙台味噌醸造所」が昔ながらに残っており、現在も営業している。
坂の中程には屋敷跡の記しとしてタブノキも残されている。(歴史の道 Ⅱ 巨樹) 

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         仙台味噌醸造所

仙台味噌は伊達政宗が備蓄用としてつくらせたのが始まりと言われているが、当時の江戸の味噌は甘く、3千人の江戸詰めの士卒たちの口に合わなかった。辛口の赤みそを品川の下屋敷でつくり、江戸市中にも売り出したところ、たちまち江戸っ子の評判になった。維新後は八木家に委任され、明治35年(1902)合名会社となり、現在に至る。

「五風十雨」を500gずつ2つ計ってもらった。1kg¥1,296と少々高い。
「五風十雨」というのは、漢時代の書物にある「五日一風十日一雨」の略で、五日に一度風が吹き、十日に一度雨が降ると農作物に好適で、転じて万事順調なことの意に用いられる。
五風十雨味噌の栞には「五風十雨は、三百九十余年にわたり蓄積された伝統の技により、厳選された内地大豆、麹に適した内地米、適度のニガリを含んだ食塩を用いて精魂込めて仕込んだ仙台味噌」と書かれている。添加物は一切使用していない。

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ほかにも「信州みそ」(1kg¥710)や「御膳みそ」(1kg¥864)など、全国各地から仕入れた商品も販売している。200gずつ3種類の味噌を買ったYさん、「家から近いからまた買いにこよう」とFさん、ここをコースに加えてよかったと思った。
仙台味噌は塩からいイメージがあったが、木桶の中で1年以上熟成させる昔ながらの醸造法でつくられている「五風十雨」は、コクの深い味わい。
Oさんに「五風十雨」を届けた翌日、「美味しいです。無添加なのも嬉しかったです」と喜んでもらえた。
旅・散策・イベント

歴史の道  巨樹

2019年11月13日
11月のまち歩きの会は、JR大森駅―大森貝墟碑―大森貝塚遺跡庭園―鹿嶋神社―品川歴史館―大井三叉書店街―大井町という「歴史の道」(大森貝塚保存会による)のほか、水神社、光福寺に立ち寄り、さらに大井町駅の先、仙台坂のタブノキと仙台味噌醸造所を加えた。(歴史の道 大森貝塚

遺跡庭園から桐畑地下道をくぐり、水神社に立ち寄った後、奈良時代末創建の光福寺へ。
樹齢300年のイチョウの木には皆感動したようだった。

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     イチョウ   品川区指定天然記念物   
  
了海上人が麻布善福寺の「逆さイチョウ」の一枝を貰い受けて植えた兄弟木と伝わる。逆さイチョウ同様に乳根(気根)が多くみられる。
樹高が40mと高いこのイチョウは明治時代まで東京湾に出漁する漁民の航行の目印になっていたという。

ちなみに、善福寺の「逆さイチョウ」は国の天然記念物。樹齢770年、樹高35m、幹囲15m。親鸞上人が立てた杖がそのまま地に生えて、やがて大木となり、その形から「逆さイチョウ」と呼ばれている。

光福寺墓地内に「大井の井」がある。善福寺の中興の祖である了海上人が誕生した際に泉が湧き出した。その泉を「大井」と呼び、それが「大井」の地名となった。

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          「大井の井」

品川歴史館では「中世寺院と品川―妙国寺の歴史と寺宝」の展示中。庭に出て水琴窟や秋の景色を楽しんだ後は、お隣の鹿嶋神社へ。
ここには区指定天然記念物の樹齢200年以上の2本のタブノキアカガシがある。

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      タブノキ  品川区指定天然記念物        

鹿嶋神社前からバスで大井町駅を経由して仙台坂で降りると仙台味噌醸造所が目に入る。この醸造所は、寛永2年から営業をつけている老舗。

最後に訪れたのは、旧仙台坂の伊達家下屋敷の裏玄関に植えられていたというタブノキ。樹齢300年、樹高20m、幹囲は3.7m。
タブノキは暖地の海岸地方に多くみられるクスノキ科の常緑高木。別名イヌグス。

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        タブノキ  品川区指定天然記念物

ここで解散。O氏とYさんとバスに乗って池上駅まで。
旅・散策・イベント

歴史の道 ー大森貝塚

2019年11月12日
10月につづき11月のまち歩きの会も品川区。(寄木神社のこて絵 ネオンサインのルーツ
秋晴れの日、大森駅に集まったのは新メンバーを含めて7人と少なかった。入院中のSさんや急用や仕事で来られなくなった人にはLINEで行程表などの栞を送った。

大田区側の「大森貝墟碑」から品川区の「大森貝塚遺跡庭園」へ入り、ベンチで少し早い休憩。大森駅で買った「たい焼き」を半分ずつ(男性は1個)食べながら、12月の会を目黒駅集合、自然教育園と港区立郷土歴史館に決まった。

大森貝塚碑を中心とした一帯は大森貝塚遺跡庭園として整備されたのは1985年。モースの銅像のほか、貝層の剥離標本も設置されている。  

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           大森貝墟碑   大田区

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           大森貝塚碑  品川区 遺跡庭園

遺跡公園を出て、東海道線・京浜東北線の下をくぐる歩行者・自転車専用の「桐畑地下道」へ。西側は線路より高い台地だが、東側はかつて海だった低地で、線路より地面が低くなっている。
この付近の線路は太古の海が台地を削って形成された崖に沿って敷かれ、明治10(1877)年、アメリカ人学者エドワード・モース(1838-1925)が汽車の窓からこの崖の地層中に縄文後期の大森貝塚を発見したことはよく知られている。(大森貝塚とモース博士大森貝塚出土の土器

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       桐畑地下道 歴史の道
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       地下道内 貝層剥離標本

地下道を抜けるとその脇に湧水があり、小さな池には金魚が泳いでいる。まさに大森貝塚のすぐ下の位置。
水神公園を抜け水神社へ。鹿島神社の境外末社で、社殿はなく、溶岩の洞窟の中に鎮座している。 貞享2年(1685)に大井村の村人が願主となって九頭竜権現社として創建された。 

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          大井水神社

この後、光福寺は立ち寄り品川歴史館へ。縄文の道 Ⅱ
旅・散策・イベント

「千羽鶴」効果

2019年11月11日
東日本大震災から8年と8ヶ月。津波の被害を受け、今年3月に全線開通した三陸鉄道リアス線が、台風19号で再度被災し、半分以上の区間が不通となっている。全線復旧まで何ヶ月かかるのかわからないという。

今日は「折り紙の日」。数字の1が4つ並ぶことから、「1」を正方形の一辺と見立て、正方形のおりがみの4辺を表すことから「おりがみの日」に制定された。(1980)

このところ折り紙に囲まれた生活を送っているように思う。9月半ば、桂花会のO氏に送った女子たちが折った千羽鶴。(曲げる、曲げない?千羽鶴まもなく完成
O氏から千羽鶴のお礼の手紙が届いたのは9月末。「びっくりです。最大のうれしいビックリです。まさか、千羽鶴が舞い込んでくるとは!入院して抗癌剤治療をあらためて行うところ、気分的に少し落ち込んでいたのですが、この千羽鶴で勇気づけられました。何とか皆さんとお会いできるようにガンバリます。・・・」
 
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      O氏へ       M氏へ @Fさん宅

千羽鶴を送ってよかったのだとほっとしたと同時に嬉しさがこみ上げてきた。折り鶴は折ったことがあるが、千羽折ることもまとめることもまったく初めて、今思うと、あまり上手ではなかったのだが、女子部?の心が通じたとLINE上で喜びあった。

その後、自宅で闘病中のM氏から毎月のお茶の会にも12月の忘年会も無理だという電話があった。再び千羽鶴を折り始めた。(千羽鶴再び
そして10月半ば、Fさんのお宅でフルートとピアノの音のする中、千羽鶴をまとめた。今回はほゞ1人で千羽折ったが、女子5人全員からとしてメッセージカードとともに送った。
翌日、M氏の元気な声で電話がかかってきた。喜んでいただけてほっとした。

O氏のもM氏のも折り紙はキャンドゥかダイソーの7.5cm角の折り紙だが、Fさんが折る暇がなかったという折り紙は7㎝角の淡色が1005枚入だった。
この淡いパステル調の折り紙を持ち帰って、今度は入院中のSさんに折り始めている。

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10月末、M氏の姿が見えない淋しい桂花会の数日後、O氏から届いたのは「女子部一同」宛ての手紙とたくさんのクッキー。
ドキドキして開いた手紙は嬉しい知らせだった。
「千羽鶴のお陰でしょう。先週退院しました。これからは通院治療です。のんびり生きていきます。色々有難うございました。再見」涙がこぼれそうになった。
O氏はお茶会メンバーではないが、お花見のころ、暑気払い、忘年会などの同窓会には顔を出されていた。12月の忘年会に来られると嬉しいのだが。
中国・中国の旅

台風の爪痕

2019年11月10日
「令和元年台風19号」は多摩川にも大きな被害をもたらした。ガス橋付近は氾濫や決壊に至らなかったものの、堤防ぎりぎりまで増水し、河川敷のグラウンドやゴルフ場なども濁流にのまれた。
11月に入っても河川敷には、さまざまなものが流されてきた跡が残っている。

Oさんのところへ行くのが夕方になり、多摩川べりに立つ胡桃の木のところまで行かれなかったため、翌日リベンジを決行。
多摩川に出てOさんのマンションが目に入ったが、風邪気味と言っていたことを思い出して呼び出すのを断念。(夕焼けの多摩川

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河川敷では高校球児たちがまだ整備されていないグランドで野球の練習をしていた。
その脇をぬけようと自転車をこぐが、泥土か砂か、タイヤが埋まって前に進まないので自転車を押しながら胡桃の木の下へ。実が落ちているどころか、押し流されてきた草や紙などゴミが引っ掛かっていて見るも無残。

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サイクリングコースに上がりガス橋へ行く途中、ランニングするシニアとすれ違う。根こそぎ倒れたソメイヨシノも何本も見た。

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   「この先の河川敷は通行困難」   

すいよう会のOさん、友の会のYさんが台風の翌朝、送ってきた画像では、まだ水に浸かっていた河川敷。流れ着いたゴミと見物人が多かったと何人もの人にきいたが、ひと月近く経ったこの日は河川敷は工事中、ゴミは数ヶ所に集められていた。

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O氏からのLINEを読み返してみた。「先日、自転車で川崎方面に行き、多摩川大橋を渡り、川沿いを眺めました。所々、流木の残骸などがありましたが、予想よりはよくなっているかなと思いました。
太古の昔から、人と自然と動物は、共存共栄してきたと思いますが、文明の発達とともに、人は、自分たちが賢いと思ってきたことが、天の神々の怒りにふれ、今日の天変地異を招いたのかな・・・

人間はどこかで道を誤ってしまったような気がする。縄文人の暮らしたころには戻れるはずもないが、どこかからやり直しはできないものだろうかといつも思う。
旅・散策・イベント

夕焼けの多摩川

2019年11月09日
とくに予定が入っていなかった日だったが、朝のSさんからの電話、そしてOさんからのLINEで、急遽朝10時半、島忠の花売場でSさんと待ち合わせた。彼女は30分ほど歩いて、私は自転車で。彼女につられて、チューリップの球根を買った。
美味しいと評判で遠くからも買いに来るパン屋さんで迷いながらパンを買ってわが家へ。

昨年のおおた区民大学で実に数十年ぶりに出逢った彼女とはすいよう会で一緒だが、あまりゆっくり話したことはなかった。
気づけば2時過ぎ、彼女の買った花などを自転車のかごに乗せて家まで送りがてらしゃべりつづけた。
その足でOさんのところに仙台味噌を届けるつもりだったが、「入って行かない?」のお言葉にお邪魔することにした。ここでも話は尽きない。

Oさんから「今日は無理かしらね?」のLINEが入って、慌ててお暇したのは4時。「今から10分で行く」とOさんに連絡。マンションの下でお土産の仙台味噌を渡してから土手に上がった。
空が広い。富士山は見えなかったが、毎日こういった空を眺めているOさんが羨ましい。

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           野球する少年たち

台風の爪痕は残るが、野球練習を始めている少年たちが見えた。あの台風からまもなくひと月、少しずつグランドも使えるようになってきたようだ。 

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胡桃の木は無事だった。胡桃をひろいたかったが、遅くなったためこの日は断念。

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              胡桃の木 
旅・散策・イベント

宗観好みの茶器 十一月

2019年11月08日
今日は24節気の1つ「立冬」。暦便覧によると、「冬の気立ち始めて いよいよ冷ゆれば也」。冬らしく寒くなっていく頃。木枯らし1号が吹いたり、初霜が降りることも多い。
七十二候では「山茶始開」、山茶花(さざんか)が咲き始めるころ。
枇杷の花をみると、冬が近づいてきていることを感じる。

『宗観好十二月茶器の研究』と井伊宗観(直弼)が選んだ12種の茶器は母の形見となった。この本には藤原定家の『詠花鳥倭歌』の本歌取り、そしてこれらの歌をモチーフにしたのが江戸期の『十二ヶ月花鳥図』が載っている。(十二種類の茶器宗観好みの茶器 五月

十一月   枇杷に千鳥   
        洗朱塗 丸棗   高さ 6.5cm  径6.7cm

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        枇杷に千鳥   p35

十一月になると黄を帯びた小さな白色五弁の枇杷の花がかたまりのように咲く。目立たない寂しげな花だが良い香りがする。遠くで千鳥が三羽飛んでいる。下に川の流れが描いてある。千鳥は冬の季語である。哀調を帯びた鳴き声は川風の寒さや、夜の寒さを感じさせる。
色は黄色のまざった丹色に近い洗朱。形は丸棗の石州好みの影響がみられるが、時節がら木守柿の色と形を取り入れたと思われる。それとも半年の対の五月に実る枇杷の実の形をとったのだろうか。

   十一月  枇杷    冬のびは木葉残さぬ霜の色を葉替ぬ枝の色ぞ粉ふる
   十一月  千鳥    千鳥なくかもの川瀬のよはの月一つに磨く山藍の袖

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           枇杷・千鳥図
身近な人びと

村境に残る庚申塔

2019年11月07日
今月いっぱい大田区立郷土博物館では、特別展『嶺の御嶽山と一山(いっさん)行者』に関連する講演が開かれている。
郷土博物館開館40周年の日、「日本の山岳信仰における木曽御嶽山の位置づけ」の基調講演があった。定員80名をはるかに超える人たちが会議室に集まった。開演30分前に着いたが、すでに席は数えるほどになっていた。

10月末、特別展に関連した第1回の「地域探訪」は「嶺を歩く」が行われた。御嶽神社のある嶺地域の史跡などをめぐり、地域の魅力を発見するというものだが、日にちが合わず参加できなかった。
K学芸員に「嶺を歩く」のコースを伺った。神社とイオン前の霊泉のほかには「嶺の四庚申」を周ったとのこと。
「四庚申」? 早速、休憩のときに展示を見て場所を確かめた。どの庚申も度々目にしているが、いつもあまり気に留めることなく通り過ぎていた。

先日、珍しくこれといった予定もなく、あまりにいい天気のため、自転車で4ヶ所の庚申をあらためて見に行った。
「嶺の四庚申」というのは嶺村にある代表的な庚申をさすと思っていたが、四というのは東西南北の四方の意味だとわかった。

庚申信仰は江戸時代に民間信仰として栄え、村民は「講」をつくり、村の厄災を防ぐため庚申供養塔を建立した。庚申の日に宿(当番)の家に集って談笑し、地域の人々のくらしの無事を祈る風習。
庚申塔は、庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。
江戸時代、かつての嶺の村境には庚申塔が建てられた。

嶺北向庚申  (鵜の木1-2) 鵜ノ木村境
石の階段を上っていくと狭い敷地に2つの祠が2つ立っている。
  
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     日月 青面金剛(剣人六臂) 邪鬼 二鶏 三猿   
     享保七年(1722)
     武州荏原郡六江領ノ内峯邑

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           三猿
 
嶺西向庚申   (西嶺町26) 沼部村境
    
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     日月 青面金剛(剣人六臂) 邪鬼 三猿 
     年代 不明     
 
嶺東向庚申  (東嶺町31)  久原村境 白山神社
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     日月 青面金剛(合掌六臂) 邪鬼 二鶏 三猿  
     正徳三年(1713) 
     「武刕峯村住之」

嶺南向庚申  (東嶺町42) 雪谷村境  

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      日月 青面金剛(合掌六臂)  二鶏  三猿
      元禄13年(1700)
      峯村

おおた街歩きの会は10月、11月と品川区の散策となった。12月は大田区に戻り、かつての嶺村を歩くのはどうだろうか、提案するつもりでいる。
Kさんは連続5回の特別展関連の講演会のほか、地域探訪では「嶺を歩く」と「一山行者ゆかりの与野を歩く」にも申し込んでいたが、現在は入院中。講演会のレジュメはLINEで送っているが、12月の会には参加できるといいのだが。

青面金剛像は、四または六臂(二臂や八臂のものも)で、手に、輪宝、鉾、羂索、蛇、弓矢、金剛杵、日月、劒などを持つ。邪鬼を踏むものも見受けられる。
庚申塔には三猿が欠かせないものになっているが、もとはまったく別のものだった。
江戸時代、17世紀中ごろに庚申塔に三猿が現れた。庚申の夜に天の神(天帝)に悪事を告げるといわれる三尸(さんし)との兼ね合いで「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が結びついたというもの。
鶏は、暁を告げ、時刻を知らせる動物として親しまれ、夜を徹して行われた信仰との関係からとされる。また、申の翌日は「酉」からともいう。
旅・散策・イベント

気になるマツの木

2019年11月06日
今年の春から初夏にかけて旧六郷用水の「南北引分」からb「分水路」までの空地の樹々が伐採されたり、いわゆる強剪定されてきた。奥の崖に生えるケヤキは残ったが、ビワ、イイギリ、ソメイヨシノ、スダジイ、マテバシイなど、次々に何の木だったかわからないまで に姿を変えていった。私有地とはいえ、傍を通るとチェンソーの音をきくといたたまれなくなった。

5月、近くを通ったとき、クロマツに梯子が架かり、クレーンに乗って太い枝を伐っている人の姿をも見たときには衝撃を受けた。まさか、歩道からはだいぶ離れている崖沿いの松まで!

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       坂の上から    5.25

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                  6.11

松は強剪定して大きく切り詰めてしまうと枯れてしまうこともあるという。
知っている限り、このような切り詰められた、強剪定というらしいが、哀れなマツの姿は初めて目にした。
以前の樹々が覆いかぶさるように繁っていた歩道は剪定は必要かもしれないが、歩道からだいぶ離れたマツたちまで・・・!
崖の上のお宅からの苦情なのだろう。仕方ないのかもしれない。

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               11.3

少しはマツらしい姿に戻りつつあるだろうと期待しながら通るが、半年経った今もほとんど変わりがないようだ。 
ソメイヨシノは根から、ビワイイギリも幹を伐られ、変わり果てた樹々の姿を見るのがつらい。このごろは大好きだったこの道を歩くのを避けるようになった。(かわる景観

そんな中、なぜか健在の数本のケヤキ、赤味が強い種類と黄味が強い種類とがあるが、遠くから見るとうっすらと色づいてきたように見える。これから冬にかけてのケヤキにもっとも魅かれる。(色づき始めたケヤキ
植物など

イイギリ

2019年11月05日
今年4月、歩道に植えられたシナノミザクラの実が色づき始めたころ、旧六郷用水南北引き分け近くの景観が変わり始めた。
国分寺崖線の尾ともいわれる崖から歩道までに生えているはさまざまな木々は季節を感じさせてくれる大好きな散歩道だ。
ソメイヨシノは散り、イチョウは萌黄色の葉を繁らせていた。枇杷の木は実をつけ始めたところを伐採されてしまった。
秋に赤い小さな房状の実をつけるイイギリも何の木だかわからなくなるほどバッサリと伐られた。(変わる景観あの木もこの木も

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            4.20

イイギリ(飯桐)は実がナンテンに似ていることもあって南天桐ともいう。花は大きな葉の陰で目立たないが、赤い房状の実をつける秋は、遠くからでもイイギリの樹だとわかる。

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本州、四国、九州及び沖縄の山地に自生するイイギリ科イイギリ属の落葉広葉樹。日本以外でも広く東南アジアの山林中に見られる。木の姿がノウゼンカズカ科のキリに似ていること、大きな葉が昔、食器代わりに飯(おこわ)を包むのに使われたことから、イイギリ(飯桐)と名付けられた。雌雄異株。
11月ころになると雌の木にはブドウのような直径1cmほどの赤い実が垂れ下がる。落葉後も長期間、枝に残り、これを狙って小鳥が集まる。この実がナンテンに似ていることから、別名をナンテンギリという。ちなみにナンテンと同様に白い実の品種もある。

樹皮は灰白色でキリに似るが、赤い斑点があるのが特徴。器具や下駄に使われることもあるが、ほどには重宝されず、下駄や箱s、薪にして使われることも。

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11月、いつもなら高い枝から赤い房状の実が下がるはずのイイギリ。上の方を伐られてから半年、葉が出てきたが、木の葉はまもなく落ちる冬がちかづいている。 
植物など

カメムシ

2019年11月04日
このところ室内でカメムシを見かけることが多くなった。たいていは網戸に止まって外を見ているのだが、窓を開けて追い出したり、ティシューでそっと摘まんで外へ放り出したりしている。幸い、強烈な悪臭とやらを嗅ぐ機会には遭遇していないが、相当なものときく。

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              クサギカメムシ(Wikipedia)     

今年はカメムシの異常発生?? それも室内での目撃情報が多い。
先日の桂花会のとき、カーテンにとまっているところを発見。カーテンごと外に払ったが、話題がカメムシになったとき、高津(川崎市)のSさんのマンション、多摩のO氏の家でも室内に何匹もいたというから驚いた。
Sさんの場合はタオルについていたカメムシの悪臭に参ったとか。干していたタオルを取り込んだときにくっついてきたのだろうか。
りんりんの高校では4階の教室がカメムシだらけで、皆で殺虫剤買って退治しているのだとか。
信じがたいのだが、どうやらサッシなどの隙間は通り抜けるという。

カメムシは真冬の越冬時期を除いて、ほぼ1年中見られるが、とくに大量発生で困らせるのは9~11月前後。家屋の羽目板の隙間や屋根裏、外壁などに日当たりの良い場所を求めて飛んできて、家屋内にも侵入する。
カメムシは明るい色を好む習性があり、洗濯物の中でもシーツやバスタオル、ワイシャツなど白いものに集まってくる。
敵から攻撃されるなど外部から刺激されると悪臭を放つだけでなく、仲間に対する警報フェロモンとして臭いを発しているという。

わが家でみかけるのはクサギカメムシらしい。モモ、ミカン、クサギなど多くの果樹の上で見られ、果実の汁を吸うという。
それで納得。近所にクサギの樹がある空地がある。ほかにも夏ミカンだが、2ヶ所ある。ここで育った可能性が大きい。

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     クサギの実    2016.10

発生場所が分かっても、その草や樹木を刈り取ってしまうなどしなければ発生を繰り返すので、根本的な解決(飛来をゼロにするの)は難しい害虫だという。そのため、対策・駆除方法は屋内へ入れないようにする「侵入防止対策」が最も有効な方法となるのだとか。

室内に入ってきたカメムシに殺虫剤を使いたくない。あらかじめ壁面などに殺虫剤を処理しておいて建物の隙間を見つけて屋内へ侵入するのを防止するのがいいようだ。

コンビニの窓ガラスに、自販機にたくさん群がる、洗濯物にたくさんつくといった場合は、台風や低温などの異常気象で右往左往して飛んでいるカメムシが「光のある場所」に集まっただけの現象。本来は森や林の中のカメムシが、住みかを追われて家屋付近に来たと考えられるという。

スギヒノキなど、カメムシが好む花粉が多い年は、成虫になる確率も高くなるため大量発生の可能性も十分に考えられるそうだ。また、台風などの異常気象も大量発生と関係があるといわれている。

ちなみに地方によってはカメムシの大量発生は地震や大雪の前兆だというようなことが信じられているとか。だが、必ずしも大量発生と大雪は比例しないらしいが。
動物など

歴史的建造物

2019年11月03日
今日は文化の日。日本の国民の祝日の1つ。日本国憲法が73年前の11月3日に公布されたことを記念した祝日。
「文化の日」を「明治の日」に変えようとする動きが、自民党内で本格化し始めたとか。文化の日になる前は、明治天皇の誕生日に当たる祝日だったためだが、戦中・戦前に戻るかのような改称には、有識者からも疑問の声が出ているという。

「東京文化財ウィーク2019」(主催:東京都教育委員会)は明日まで。この「東京文化財ウィーク」は文化の日を中心の10日間、通常は公開されていない都内の文化財が一斉に公開される。特別公開は104件。
公開日は文化財によって異なり、文化財ウィークの「ガイドブック/特別公開・企画事業編」で確認できる。
また、通年で公開されている396件の文化財を紹介した「ガイドブック/通年公開編」もある。
 
文化財めぐり、特別展、講座・講演会、現地鑑賞会、聴覚障害者・視覚障害者向け教養講座等は236事業。
大田区をみると、郷土博物館での特別展「嶺の御嶽山と一山行者」や特別展関連の講演会や現地解説なども掲載されていた。 
  
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今年の秋はなかなか忙しい。大田区の郷土博物館だけでも特別展関連の講演会などが10月から11月の土日に集中。すべて参加する予定でいるが、そんな中、ガイドブックに見つけたのは「特別公開・企画事業編」のガイドブックに北区文化財講演会「赤レンガ棟100周年記念 歴史的建造物が図書館に生まれかわるとき」。
大田区の講演とかち合うが、抽選に当たれば行くことに決めて往復はがきで申し込んだ。

赤レンガ棟は旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟、1919年に建設されたもの。かつては20棟以上が立ち並んでいたが、これがこの地にある最後の1棟。北区の近代産業の歴史や当時の建築技術を知ることができる。
「陸軍第一造兵廠」本部だった建物は、戦後、一部は米軍施設として使用されたが、区をあげての返還運動が実り、文化センターとして生まれ変わった(1971)。
  
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中央図書館に生まれかわったのは2008年。当時の外壁や柱や梁を残し、区立赤レンガ図書館の一部となった(2008)。レストランも入って、中央公園の中でもひときわお洒落な建物はかつての兵器工場だったとは想像ができない。
ここを訪れたのは2016年夏。近くに住んでいたらちょくちょく利用したくなる赤レンガが印象的な図書館だった。正面は近代的な図書館だが、少し回ると2連の赤レンガ棟が目に入る。
   
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数年前、母が青春時代を送った造兵廠跡を訪ねた。JR埼京線十条駅の東側(北区)が第一造兵廠で西側(板橋区)が第二造兵廠だった。石神井川沿いの緑道を歩いたが、付近一帯に日露戦争から太平洋戦争にかけて12万坪もの軍事施設が存在したことなど信じられなかった。(戦いの中の青春Ⅰ戦いの中の青春Ⅱ戦いの中の青春Ⅲ

赤羽には「近衛工兵第一連隊の兵舎」「陸軍被服廠」「赤羽火薬庫」など、王子駅から隅田川まで「東京第二陸軍造兵廠」と、かつては巨大な軍事施設が広がっていた。

母は、終戦の3日前まで板橋の陸軍造兵廠に動員されていた。旧加賀藩下屋敷跡地に作られた第二陸軍造兵廠、通称「二造」は火薬製造所で、火薬のほかにも機関銃や大砲、風船爆弾などの製造も行われていたという。
第二次世界大戦終結までの15年間は戦争に明け暮れた母は、青春時代の思い出の地を訪ねることはなかった。

「造兵廠」とは、兵器を造る廠、軍直轄の工場のこと。日露戦争中、明治政府は兵器工場を開設した。その後、相次いで工場は増設され、最盛期には赤レンガの建物が約20棟並んでいたという。
戦後は米軍に接収され、ベトナム戦争時には負傷した米兵のための病院としても使われたという。 
旅・散策・イベント

麦の種蒔き

2019年11月02日
10月末、「大森麦わら細工の会」(大田区立郷土博物館)恒例の麦の種蒔きが行われた。

大森麦わら細工は、江戸時代の中頃から大森でつくられ、東海道を行き交う旅人たちが江戸土産として売られていたもの。
明治時代に鉄道が敷かれて人の流れが変わると、次第に売れ行きも衰え、麦わら細工の職人も減っていった。
大田区の最後の職人も昭和20年代で生産を終えたという。
大田区立郷土博物館では、「特別展 麦わら細工の輝き」(1999)をキッカケに、体験講座などを催している。その参加者の有志と博物館の協働で、大森麦わら細工の継続的学習と技術の復元を試みる活動が始まった。

「麦わら細工の会」には、今年5月末の「麦刈り」のころに参加した。(麦刈り麦架け
夏の「大麦の脱穀と麦粉菓子づくり」にも小学生たちと参加した。(気分は小学生 Ⅰ

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        初参加の麦刈り   5.26

いよいよ種蒔き、麦の1年が始まる。麦刈りの日から5ヶ月が経ち、いよいよ種蒔きの日を迎えた。度重なる台風や大雨など天候不順がつづいていたが、この日の天気は曇り。時折陽がさし、暑くも寒くもなく種蒔き日和だった。
朝9時、博物館で用意された長靴を履き、畑へ向かった。大麦は連作を嫌うため、毎年場所を変えるが、今年も道路側の前回の隣。昨年より畝の本数は少ないそうだ。

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             9:40

初めに苦土石灰?を畑中に撒き、三本鍬でさくを切った。1条の半分ほどを挑戦したが、うまくいかず、先輩のAさんに見本を示してもらった。雨の後で、土がことのほか重たい。午後になると背中が少し痛くなった。

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       一晩水に浸かった種子

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       4粒ずつ丁寧に  9:50

種子は溝に等間隔で、今年は4粒ずつ。軽く土をかければ、麦の種蒔きは1時間余りで終了。その後、月一度の例会同様、午後もそれぞれが編み細工や張り細工をつづけるが、次の例会でAさんに張細工を教わる約束をして、この日は種蒔きだけで失礼した。

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        道路からみた畑   10:45
旅・散策・イベント

淋しくなった庭

2019年11月01日
12年前の今日、わが庭で地域猫のチビが4匹の猫を生んだ。2匹は親猫が別の場所に移したのか姿を消し、庭には雄と雌の2匹が残った。(子ネコしょうかい二歳になったケシとクク
孫たちにつくった絵本をみると、3ヶ月ほどは3匹が庭にいたことがわかる。

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       孫たちにつくった絵本

その半年後、4匹が生れたが残ったのは雌の2匹。その後、長い間、4匹の兄姉、妹たちで仲良く庭で過ごしてきた。
数年前トラが病没、2匹は半年前ほど前に居をどこかに移し、わが庭にはククが連れてきたトモのみ。

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    南側で       2019.4

というのも最近は、ククは南側でみることは少なくなり、北側かお向かいのSさんのところを行ったり来たりしている様子。
たまに北側の屋根の上で見かける程度。わが家で食べることもなくなった。

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         クク     2019.9

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             2019.9

地域猫の世話をされているSさんのところにいる猫も高齢化。ノラ猫も地域猫も減ったおかげで、ここ数年は子猫の姿は見かけなくなった。  
動物など
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