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曹操も通った峠道

2020年06月30日
『空旅中国 英雄たちの8つの峠』の舞台、「太行山脈」には8つの陘(峠道)のほかに名の知られぬと峠道がある。切り立った崖や渓谷が多く、古来、関所や要塞が設置されてきた。(空旅中国 茶馬古道空旅中国 万里の長城孔子が通った峠道

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太行山脈の名もない峠道をあの「三国志」の英雄曹操も駆け抜けたという話が残る。
3世紀初め漢王朝が終わりを告げようとしていた。巍・呉・蜀による時代が始まる。
1800年前の雪の日、曹操は敵を追い詰めていた。立ちはだかったひときわきつい上り坂。
そんな心情を詠んだ詩を残している。

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 北上太行山 艱哉何巍巍 羊腸坂詰屈 車輪爲之摧
 樹木何蕭瑟 北風聲正悲 熊羆對我蹲 虎豹夾路啼
 谿谷少人民 雪落何霏霏 延頸長歎息 遠行多所懷

                           曹操 『苦寒行』

北上し太行山を上る その嶺は実に険しく 坂は羊の腸のように曲がりくねり 車輪がくだけてしまう
樹々は寂しげで 北風は悲しげな音を立てる 熊が目の前に蹲り 虎や豹が道の両側から吠える
谷に人は少なく ただ雪が激しく降りしきる  首を伸ばし長い溜息をつく はるばる遠征してきたことを思うと愁いはいよいよ増す 

道に迷い食糧も尽きかけたそのとき、山羊が目にとまった。このとき曹操が食べたという料理はこの地に残されているという。
料理といっても山羊の肉や臓物に野菜を入れて煮込んだスープ。曹操にとっては命のスープだった。

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曹操が超えた道は今も補修が行われている。数年前にコンクリートの道になったが、村人たちは足が滑って歩きづらいと、石を敷いてつくり直していた。

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調べてみると、この詩は、曹操が袁紹の甥高幹を討つために太行山脈を超えた時(206年)の詠んだもの。曹操らしからぬ弱々しげな感じがする。

曹操はすでに官渡の戦い(200年)で袁紹軍を破っていた。袁紹は202年に病没していたため、この遠征は残存勢力狩りといった感じで、敵そのものは曹操軍にとって恐れるに足りないものだったと思われる。
だが、さすがの曹操も、寒さという自然の驚異の前には苦戦を強いられたようだ。

ちなみにこの遠征は「三国志演義」にはまったく書かれておらず、この詩も出てこないという。
中国・中国の旅

孔子が通った峠道

2020年06月29日
「空旅中国」シリーズ(BSプレミアム)の『茶馬古道』『万里の長城』につづき、 『英雄たち8つの峠』も録画して空からの歴史の旅を愉しんだ。(空旅中国 茶馬古道空旅中国 万里の長城

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             黄河

昔から河に沿って街が築かれ、街が背負う山は重要な場所となった。
北京と古都・長安(西安)に挟まれた黄河沿いに南北400㎞に連なる太行山脈。そこには峠が8つあり、それぞれに英雄伝説が伝わっている。

黄帝孔子秦の始皇帝、ジンギスハンなど歴代英雄たちが通った主な8つの峠道のほか、曹操も峠を越えたと伝わる。

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その中でもっとも印象に残ったのは孔子がの国へ向かった話。
今から2500年前の春秋時代、国を離れ無位無官となっていた孔子が弟子を連れ牛車に乗って諸国を次々と訪れていた。
南から2番目の峠太行陘。目指す国は

の村外れにある攔車村に来た。まっすぐに伸びている1本の道を牛車が行くと、道の真ん中で4、5人の子どもたちが石で城を築いて遊んでいた。
孔子は「ちょっとどいてくれないか」と言うと「あなたこそ城を避けてこの道をゆくべきです。世の中に牛車に道を譲る城など聞いたことがないですよ」と童は答えた。
その道理の正しさに心打たれて車を降りた孔子は童子の前に跪ずいたという。数えでわずか7歳の童を孔子は師と仰いだという。   
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         攔車村にある記念碑

村の外れにその様子を描いた記念碑がある。「攔=遮る」の意味。車を遮った村の由来。

孔子の牛車は童の城をよけて山の中へとさらに進んだ。
次の村「天井関村」には重要な関所がある。古代の関所はさらに遠く、丘に見える木のもとにあったと言われる。
一行が辿り着いたとき、1匹のリスが駆け寄ってきた。木の実を抱えながら孔子に深くお辞儀をした。

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           天井関村

孔子は考えた。リスさえもこのように礼節を弁えている。きっとという国は偉大なる国なのだと。「私如きがこの先この山を越えて進んでも、きっと伝えるものは何一つないだろう」と、孔子は牛車の向きを変えて、もと来た坂道をゆっくりと下っていったと伝わる。

孔子の実直さとの国の民の徳の高さを伝える話として長く語り継がれているという。
この話で連想したのは、
子曰 三人行 必有我師焉。擇其善者従之 其不善者而改之」 (子曰く、三人行けば、必ずわが師あり。其の善き者を擇びて之に従い、其の善からざる者にして之を改む。)
「論語抄」(日めくりカレンダー)はまだ15日のまま。そういえば、このところめくっていなかった。三日坊主はなかなか治らないものだ。「子曰わく三人行えば必ず我が師有り」は30日にあった。
中国・中国の旅

大好きな散歩道

2020年06月28日
今は一部の再現水路を除き暗渠となっている六郷用水路は、光明寺の北西「下丸子への分水口跡」を過ぎると、左手に林、そして畑がつづく。そして「南北引分」で、女堀は北堀、南堀に分かれる。(六郷用水跡

昨年春、路沿いのビワイイギリなど次々に枝が払われていった。以前からお気に入りのソメイヨシノが根元から伐られてトラックに積まれたのをみて涙が出そうになった。(あの木もこの木も

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     ソメイヨシノの切株      2019.4

この散策路はシナノミザクラの並木がつづき、松、マテバシイ、イチョウ、ソメイヨシノ、ビワ、イイギリ、ケヤキなどが四季の移ろいを感じさせてくれる大好きな路の1つだったが、まったく雰囲気が変わってしまった。  

きづくと、までが哀れな姿になっていったが、一年経ってもほとんど葉は繁らず、遠くからは松の木のようにみえない。

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     東側の松       2019.5
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思い返すと、この付近の樹々がこれほど剪定されたことはなかったように思う。隣家や通行者、走行中の車などに被害を与えることがあるため、クレームが入ったようだ。台風の後などに通ると、強風で倒れたり、枝が折れて歩道に散っていたこともあった。

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                    2019.5

歩道沿いの樹々の剪定から1年近く経った今年は、西側の松など崖上と崖の途中の樹々が次々に伐られていった。近くを通ると、大型クレーンが動き、チェーンソーの音が数日間響いていた。

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       西側の松     2020.6

昨年、環八交差点近くのソメイヨシノが根元から伐られて運ばれるのを見たが、今年、空地の前を通ると、崖上で唯一のソメイヨシノが根元から伐られていたのが目に入った。

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                 2020.6

久しぶりに明るくなった路を歩いた。以前はたわわになっていたビワの実だが、目に入ったのは数個だった。
坂を上り、空地をみると、樹々までフィジカルディスタンスのように整理され、すっかり見晴らしがよくなっていた。
旅・散策・イベント

アカミミガメは外来種

2020年06月27日
Oさんから「マンションの池で生れたミドリガメの卵、要らないかしら?」と電話があった。マンションの池?亀がいるような池があったかな?と思ったが、ともかく見に行く約束をした。

息子が幼稚園の頃から飼っていたアカミミガメは20数年も生きた。だが、卵から孵るかどうか、孵ったとしても育つかどうか、自信はない。

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池には数匹の大きいアカミミガメと?カメがいた。前日、池をさらったのだとか。マンションの管理事務所の隅に置かれたバケツに小さなカメと卵らしきものがあった。
そもそもミドリガメ(ミッシシッピアカミミガメ)は「特定外来生物」でなかったか?いずれにしても飼うのは面倒だ。この歳で自由研究でもあるまい。

井の頭公園で、池の水質改善や外来生物の駆除するため、かつて農作業の年中行事だった「かいぼり」が行われたのは2015年秋。(かいぼりが始まって生態系の回復を

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        かいぼり    2015.11.23

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       クサガメ 在来種

その年の暮れ、再びりんりんと。池に捨てられていた自転車などに驚いていた彼の姿を思い出す。(かいぼり中

ちなみに、環境省によると、アカミミガメは1950年代後半に米国からの輸入が始まり、ピーク時の90年代半ばには年間100万匹が輸入されたが、飼えずに捨てられたり、逃げ出したりして野生で繁殖した。
日本固有のニホンイシガメの餌やすみかを奪うなど悪影響を及ぼしたが、「アカミミガメを特定外来生物に指定する」という検討は行われたが、今後も具体的な時期の予定はないという。

池を離れて近くの公園まで歩いて、木陰のベンチに腰かけた。鉄棒で逆上がりの練習をしている男の子をみながら、久しぶりにLINEや電話で足りないのかいろいろな話をした。
どうやら鉄棒で教えている男性はスポーツの個別指導者のようだった。父親は少し離れたところでスマホ中。
30分ほど見ていたが、その子はまだ逆上がりができるまではいかなかった。

自転車だと10分はかからない近さなのだが、コロナ禍の中、彼女と会ったのは数えるほど。
帰宅後、みると手首から手にかけて日に焼けて紅くなっていた。梅雨の晴れ間の気分転換ができた日だった。
動物など

コロナと共に・・・?

2020年06月26日
先週、たまたま番組表でみつけた『コロナ新時代の提言』(BS1)に山極寿一氏の名前を見つけた。
かなり前のことになるが、ラジオで日本のゴリラ学の第一人者である人類学者の山極寿一氏(京都大学総長)の話を興味深く聞いて以来、ゴリラと山極氏のファンになった。

実は5月に『コロナ新時代への提言~変容する人間・社会・倫理~』(BS1-50分)が放送され、人類学者・山極寿一、哲学者・國分功一郎、「疾病史」を専門とする歴史学者・飯島渉の3人のインタビューに未放送部分も加えた各10分間のスピンオフ番組(6/15~17)ということがわかった。各10分間だが、3日間、すべてみることができた。

山極氏の収録はもちろんリモート。壁にはゴリラたちの写真が貼られていた。
「私たちの暮らしを一変させた新型コロナウィルス、これからの時代をどう生きるべきか」という問いに対して、ゴリラの研究を通して人間社会を考察してきた山極氏の言葉にあらためて衝撃を受けた。
   
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未曽有のパンデミックに何を思ったか?」には、「人間の社会の作り方にとって重大な危機だと思っている」と。
人類という種は信頼できる仲間を増やすよう進化してきた我々は接触を、移動を禁じられた。このことにより社会の作り方が根底から覆されてしまった。人が接触せず、人が移動せずにこのグローバルな世界をどうやって運営するのか、ということが今我々に突き付けられた課題だという。

「ゴリラにパンデミックはあるのか?」 人間のように移動しない類人猿はパンデミックに耐えられる。
ゴリラの棲む熱帯雨林には網の目のように川が流れる。彼らは川を渡れないために、ある場所でウィルスが暴発しても川に囲まれた地域に留まる。

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例えば、家畜、鳥インフルエンザなどの場合は、感染した地域のコロニーを全部焼却処分することでウィルスを一切外に出さないようにするが、人間の場合は、接触をなるべく抑え、封鎖をして、感染拡大を止めるしかないことになる。

人間は移動する存在、とくに今は移動手段が発達しているので、2週間の潜伏期間があれば人間は世界中に飛び回る。ウィルスの戦略に組み込まれていることが問題。

身体の共鳴」 この新しいウィルスの出現によって、「言葉以外」のさまざまなコミュニケーションの手段が失われようとしているのかもしれない。
進化の過程で、或いは文明の発達の過程で、我々は直接会ってさまざまな顔の表情とかしぐさとか共感をもとにした社会を作り上げてきた。「言葉だけ」に依存せずに、むしろ身体と身体が共鳴し合う中で、信頼を形づくってきた。

コロナ危機によって、言葉だけでつながる社会に放り出された。
古いコミュニケーションの手段である音楽やダンスなど「身体の共鳴」を通じたコミュニケーションが重要になってくるという。音楽は人と人との間を共鳴させる一番いい装置。そういうものを多用して情報社会にも人々と人々の間で共感できる仕組みをつくったらいいいう。

コロナ新時代」 今、地球環境がどんどん変わり始めている。地震や津波やそういった災害で天地がひっくり返されている。
ビジネスを一気に再開させてしまうと、モノの移動とか開発とか大気の汚染とか、今よりもひどくなり、これが再び新しいウィルスを呼び起こすことになりかねないと警鐘を鳴らす。

ウィルスが野生動物を感染源として出てくるということにもっと注目をして自然破壊を止めるということが必要だという。眼に見えないウィルスや細菌を無視してきたことがこの災禍につながった。 
アラスカやシベリアの氷が解け始めている。氷の下に眠っているウィルスや細菌が出てくる、深海から未知の生物やそれに乗じた細菌が登場する可能性がある。

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地球にはバランスがある。細菌やウィルスは悪いものばかりでなく、その大部分は人間とは何の関係もない、或いは人間にいい働きをしてくれる。
「地球は細菌の惑星 ウィルスの惑星であって、我々は主人公ではない。ということを思い知った方がいい」「そのためにはそのバランスを壊さないような地球の管理の仕方をもっと真剣に考えて行かなくてはならない」という提言で終わった。
つれづれ

まもなくゴーヤの夏

2020年06月25日
5月半ばになぜか近所のお茶屋さんの店頭でみつけたゴーヤの苗。早速、昨年2階のベランダで使った鉢に植えた。(夏の楽しみ

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                5.17

6月になって慌てて親蔓の摘芯をした。食卓に置いたゴーヤの葉の蒼っぽい香りが嫌いではない。昨年は油炒めにした記憶がある。小松菜のような、要するに菜っ葉の味がした。(ゴーヤ料理

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                6.9

子蔓、孫蔓のほうが雌花が多く実がつきやすいとの理由から親蔓に本葉が5~6枚出たところでと言われる。摘心がだいぶ遅れたので心配だったが、摘心から1週間、小蔓が何本も伸びている。
 
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               6.15  

15日、植えてから約1ヶ月で、もっとも長い蔓は160㎝になった。子蔓が何本もできていて、1cmにも満たない小さな蕾を1つみつけた。おそらく雄花だろうが、しばらく咲く花は雄花で、雌花はまだまだ後になりそう。
ゴーヤは孫蔓に多くの花や実をつけるので、子蔓がある程度伸びてきたら今度は子蔓も摘心するのだとか。

コロナ禍の中の夏だが、ゴーヤを育てる?収穫するのは楽しみの1つだ。まだ、花も咲かないうちからゴーヤが話題に上っている。
Fさんが「昨年はみんみんがゴーヤばかり食べていましたね。Aさんの教えてくれた、ゴーヤの肉詰めを今年こそつくるつもり」と。「そうでした。この暑さはゴーヤ料理ですよね!」とAさん。「是非!ゴーヤを種ごと輪切りにして素揚げすると、種もワタも食べられますよ」と。
今年こそ、ゴーヤチャンプル一辺倒でなく、新レシピに挑戦してみよう。
植物など

明の長城、そして・・・

2020年06月24日
万里の長城をつくったのは、さまざまな民族が攻め合い、競い合った中国の歴史そのものだ」と始まった『空旅中国 万里の長城』。

漢民族の王朝が石や煉瓦で長城の増強工事を始めると、やがて、龍のような巨大な姿が現れた。(長城をつくったのは?秦始皇帝の長城漢の長城五胡十六国時代) 

全長2万1000kmと推定される万里の長城だが、王朝の時代に建設された「万里の長城」の約3分の1が、自然現象や人為的な破壊によって消失しているといわれる。
          
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はさらに広範囲で長城の補強を始めた。壁は高さ6mほど。石や煉瓦で築いた屋根付き見張り台には武器や弾薬を備えていた。中には10人以上の兵士が住むこともできたという。

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九門口長城は、水深浅く騎馬も渡れる九江につくられた唯一の水上の長城。長さは約110m、幅23mで、高さは水面から6~7mあり、9つのアーチ型の水門がある。かつてはこの水門に木製の扉があったというが、今は失われている。

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           九門口長城  遼寧省

王朝の作り上げた長城は完璧なものに思えた。さらにシルクロード寄りの長城も修復した。
 
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だが、王朝の終わりはあっけなくやって来た。敵は長城の内側にあった。農民の反乱が起き、北京は落した。の皇帝は自ら命を絶ったという。
実は、長城の内側にある練兵場から関所を通らずに長城の外側にある山の中に出られる秘密のトンネルがあった。トンネル内には大小29の洞、食糧庫、弾薬庫、兵器庫、井戸などがあり、2000人以上の兵士が密かに暮らすことができたという。        
農民の反乱が起きたころ、満州族と睨みあっていた明の武将呉三桂は北京陥落の知らせを聞き、寝返って満州族をトンネルに招きいれた。満州族は地下から北京に入り、反乱軍を追放した。

北京はその後、の都となった。の長城が破られたのはその構造やシステムに欠陥があったのでなかった。

河北省 板廠峪 長城を築き見守る人々の村。の時代に長城のレンガを焼いた窯がいくつも見つかった。石灰に糯米を混ぜて接着していたことで長城が数百年耐えられることができたという。
     
天下第一関 山海関は東シナ海から第一番目の関で、満州族が北京に都をおくと、無用の長物となった。

が成立して半世紀余り、長城の倒壊が多く、修築を行いたいと臣下が進言すると、康熙帝はもはや修築の必要はないと考えたという。
『空旅中国 万里の長城』は康熙帝の言葉で終わった。

秦築長城以来、漢唐宋亦常修理、其時豈無辺患? 
明末我太祖統大兵、長駆直入、諸路瓦解、皆莫能当。
可見守国之道、惟在修徳安民。
民心脱服、則邦本得、而辺境自固。
所謂衆志成城者是也。


秦が長城を築き、漢唐宋が壁の修復をしたが、国境の敵が消えたことがあったか? 明の末期、わが太宗が長城を越えたとき、路を阻むものがあったか。これを見るに国を守る道は、徳を修め民を安らかにすることのみ。民がすすんで従う国になれば、国境の心配などなくなる。言ってみれば民の心 それが長城となるのだ。

康熙帝は、清朝第4代皇帝。唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。
今、世界に真に国民のことを考える優れたリーダーがどれほどいるのだろうか・・?いろいろ考えさせられた「空旅」だった。
中国・中国の旅

五胡十六国時代

2020年06月23日
『空旅中国 万里の長城』(BSプレミアム)は「万里の長城 中国の大地を這う1匹の巨大な龍・・・」のナレーションから始まった。
この龍の背中、ぐるりと飛べば中国三千年の歴史ドラマが見えてくる。風になって長城の絶景を飛んでみよう!

の時代が終わると、しばらく混乱の時代。万里の長城は忘れ去られてしまう。
三国志の英雄たちも長城を構う余裕はなかったという。そうこうするうちに中国は五胡十六国時代に入って行った。(長城をつくったのは?秦始皇帝の長城漢の長城

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五胡十六国時代 匈奴など5つの遊牧民族がかつて漢民族の国が栄えていた場所に国を構え、漢民族と北方の民族が競いながらも共存する時代が始まった。

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混乱の後、遊牧民族は万里の長城の内側に国をつくった。彼ら遊牧民族がシルクロードがもたらすものを熱心に学んだか、絶壁に築いた仏教寺院が今も残る。
彼らは仏教を保護し、インドからもたらされた経典の翻訳事業を尽くすなど、東アジアの仏教の発展の糸口をつくったという。

麦積山石窟  7200体を超える仏教彫刻と1000平方米超に及ぶ壁画がある石窟群。 着工は後秦時代。
炳霊寺石窟 断崖に700体もの仏が並ぶ仏教石窟。
最初の岩屋は西秦末期の420年頃に作られ、北魏・北周・隋・唐・宋・元・明・清の各王朝で石窟の拡張が続けられた。
唐の時代に彫られたという弥勒大仏の高さは27m。
どちらも現在の甘粛省にあり、「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録されている。 

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13世紀初め、チンギス・ハンは、歴代王朝が築いた巨大な関所「居陽関」を抜いて北京を落とし、巨大なモンゴル帝国をつくった。
14世紀、モンゴル帝国は漢民族が建てた王朝によって長城の外に追いやられた。
数百年ぶりに長城の内側に強大な漢民族、長城の外に遊牧民が対峙することとになった。
中国・中国の旅

漢の長城

2020年06月22日
コロナ禍の影響で、テレビは「いわゆる反響の大きかった」番組の再放送が目白押し。巣ごもり生活に耐えられたのは新しいレコーダーで録画できるようになったことが大きい。そのほとんどはNHKBSプレミアムで、巨樹シリーズや「空旅中国」「桃源紀行」などの中国旅は欠かさず録画するようになった。

中国を舞台にした番組には訪れたことのある山奥の土地が時々出てくることがたまにあり、楽しかったあのころの旅を思い出させてくれた。
とくにドローンで撮影された「空旅中国」シリーズは、万里の長城、黄河流域や茶馬古道、少数民族の暮らす桃源郷などは鳥になって旅を楽しんだ。

『空旅中国 万里の長城』では2500年前の楚が築いた長城も見ることができた。万里の長城が今のような姿になったのは、の時代。思えば、長城のほんの一部分を歩いただけの旅だったが、敵の侵入を防ぐための多くの壁が残っていたことに驚く。

万里の長城をつくったのは、さまざまな民族が攻め合い、競い合った中国の歴史そのものだ」と言われればなるほどと納得。(長城をつくったのは?秦始皇帝の長城

シルクロードが西へ西へと伸びていく時代となった。の半途をそのまま引き継いだのが王朝(前漢)。

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西側の砂漠のオアシスに暮らす月氏匈奴とは異なる遊牧民族で優れた馬を育てることで知られていた。
「天高く馬肥ゆる秋」は、「匈奴秋に至り 馬肥え弓勁し」という「漢書」からきている。

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          月氏のオアシス    

力をつけた匈奴は豊かなオアシスに押し寄せてくるという。月氏ははるかかなた中央アジアへ逃げのびて、大月氏をつくった。
  
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           力をつけた匈奴

が成立して60余年、BC141年、武帝が即位し、匈奴への対抗策を準備し始めた。
長安の都から張騫という若者が西へ向かった。匈奴を倒すために大月氏と軍事同盟を結ぶという武帝からの密命を受けて。

だが、張騫は捕えられ匈奴の王のもとへ。人としての魅力が彼の命を救った。10年後、現地で娶った妻と共にの妻とともに匈奴を逃げ出し大月氏のもとへ辿り着いたという。
軍事同盟はならなかったが、西にある豊かな国々のこと、遊牧民が育てる優れた天馬のこと、知られざる情報を都へ持ち帰った。
武帝は大軍を持って匈奴へ攻め込んだ。張騫はシルクロードの開拓者といわれている。
     
が家畜を育む草原から匈奴を追い出した。
我 祁連山を亡い 六畜をして蕃息せざらしむ 我 焉支山を失い 嫁婦をして顔色なからしむ」と草原を追われた匈奴の民が詩を残している。紅花の産地である焉支(えんし)山も奪われたという。

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          明の長城      漢の長城

境界線としてつくった壁がつづく。西へ西へと伸びて7900km、すでに2万里を超えた。点々と残るのろし台。
辿り着いたのは敦煌の郊外にあるオアシス陽関。
匈奴をめぐる争いはこの後も数百年つづいたという。

の時代が終わると、しばらく混乱の時代。万里の長城は忘れ去られてしまう。
三国志の英雄たちも長城を構う余裕はなかったという。そうこうするうちに中国は五胡十六国時代に入って行った。
中国・中国の旅

ハート型の葉

2020年06月21日
今日は24節気の1つ「夏至」。この日を過ぎると本格的な夏の到来。
初候は「乃東枯(なつかれくさかるる)」。夏枯草(かごそう)の花が黒ずんで枯れたように見える頃。夏枯草は、うつぼ草の異名。

5月、コロナ禍による巣ごもり生活がつづく中、桂花会のLINEグループで始まったサトイモの水栽培。Fさんは窓辺ですでに観葉植物として楽しんでいたが、Aさんは芽が出のサトイモの水栽培を始めたのは5月半ば。

2年ぶりに始めたサツマイモの水栽培。薩摩切子の大きな灰皿に水を張って2つに切ったサツマイモを入れた。
数日でどちらにも1本ずつ白い根が出てきたが、小さい方からはなかなか芽が出なかった。(薩摩切子にサトイモとサツマイモ

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10日も経つとハート型の葉が開いた。ヒルガオ科だけあってヒルガオの葉によく似ている。

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                   5.30  

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                   6.8
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              小

大きい方の葉が黄色くなって落ちるようになったころ、小さい方もやっと葉を開いた。そろそろ別々の容器に入れた方がいいのだろうか。                  
植物など

祖父母の遺したもの

2020年06月20日
今年になってコロナの影響もあり、終活と断捨離は最終段階に入った。2月下旬から3月にかけては、大きな紹鴎棚などの茶道具も茶道の先生に引き取っていただいた。
旧宅の書院にあった古い香炉や翡翠の置物、昭和初めのビーズバッグや螺鈿の硯なども考古のお仲間にもらっていただいた。
もっとも気になっていた雛人形一式は郷土博物館に寄贈できた。((きいておきたかった・・・別れの時

5月、片づけをしていたとき、紛れ込んでいたのか、房状のものが出てきた。K氏の持ち帰った唐銅の翁像の「翁舞」の一部ではないかと思い、早速、LINEで「今度、持っていきます~」と画像を送った。
「これは何ですか?笛のようにも見えますが、違うようですね?」と。「おそらく袂のところかも?」
「わかりました。扇を持っている方の袖の下に穴が開いていました。そこに入れるのだと思います。それは楽しみですね―」


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    房のない翁     2020.3

6月、ふた月ぶりに開いた博物館で考古の集まりがあった。忘れずにK氏に房を渡すことができた。
夕方、房がついた「翁舞」の像の画像が。「・・・無事付くべきところに収まりました!」と報告があった。
いつから離れていたのかわからないが、折れて壊れていたわけでなくてよかった。K氏のお宅で翁もほっとしていることだろう。

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        房がついた翁

「昔の道具探しています!」 郷土博物館では「地域の歴史・民俗等に係る資料の収集・調査を行っている。蔵や物置、納戸などに残っている不要な古い道具」があったら・・・。
残念ながら、旧宅時代には蔵や地下室もあり、解体時に足踏みミシンなど古い道具類ほとんどのものは処分してしまった。

祖母の形見の裁縫箱は母に、そして私のところにきたが、模様替えの度に押入れの中にしまったり棚に置いてインテリアになっていた。(ほど遠い断捨離

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わずかに残した卓袱台や踏台、火鉢などはすでにあるといわれたが、くけ台が組み込まれた塗りの裁縫箱は寄贈することになった。
若い学芸員のKさんはさすがにくけ台はご存じなかったが、まさに昭和の生活道具の資料となって祖母も母も喜んでいることだろう。
現在、桐ダンスに残っている祖母、母の喪服もそのうち博物館へ。
身近な人びと

縄文の魅力

2020年06月19日
4月だったか、「放送大学」で縄文の特集を録画した。「-クロス討論-縄文を思索する」ほか北日本の縄文文化中心の公開講座など盛りだくさんの内容だった。
とくに考古学×哲学×アートの専門家たちが、縄文の魅力について語った「縄文を思索する」は実にわかりやすい内容だった。
講師は、考古学の山田康弘氏(国立歴史民俗博物館教授)、哲学の魚住孝至氏(放送大学教授)、石井匠氏(岡本太郎記念館客員研究員)そして土偶女子といわれるライターの誉田亜紀子氏と近藤成一氏(放送大学教授)。
以前、放送大学の「考古学」の講義をみたときには頭に入らなかったが、このクロス討論は収穫が多かった。

その中でも考古学の山田康弘氏の著書『生と死の考古学 縄文時代の死生観』を知ったことは大きい。とりあえず図書館で借りて読み始めたが、難しい専門書と思いきや実にわかりやすい。
まえがきには、「これまでに数百体の人骨を発掘し、千体を超える人骨を調査したが、人骨に祟られて怖い思いをしたという経験を、残念ながらしたことはない」「私にいわせれば、何千年前の人骨よりも、いま生きている人の方が怖い。人骨は人を嫉まないし、悪口も言わない」には妙に納得してしまった。

「考古学者がことさら墓を重要視するのは、墓のあり方とそこから出土した人骨を検討することで、埋葬された個人的情報のほか、当時の社会や精神文化がどのようなものであったかといった歴史学的な課題についても考察が可能となる」そうだ。
     
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      縄文前期 土坑の地層剥離標本  
         大田区立郷土博物館

縄文時代のはじまりは、今から1万3千年前とも1万6千年前ともいわれ、論争がつづいている。
だが、少なくとも1万年以上の長い間、狩猟・採集・漁労・栽培を主な生業とし、さまざまな動植物を利用し、土器や石器を使い、本格的な定住生活を始めた人々が残した、日本列島各地における文化群の総称。

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        「縄文カレンダー」

縄文時代になると、各地に土坑墓が築かれるようになる。遺体の手足を折り曲げて埋葬する方法(屈葬)が各地で行われ、遅れ
て伸展葬が現れる。わずかであるが、腕輪や耳飾りなどの副葬品を伴う場合があるものの、このことから、縄文時代は社会内部に格差が生じていた可能性は低いと考えられる。(縄文の世界観

弥生時代になると、北部九州を中心に、墓域を画した墳丘や多量の副葬品をもつ墓が築かれるようになり、社会内部に政治的・経済的格差が生じたことを反映している。
古墳時代には、日本の歴史の中で、最も墳墓の造営にエネルギーが投入された時期といえる。その特徴から、この時期を「古墳時代」と呼び、築かれた墳墓を「古墳(盛土のある古い墓)」と呼んでいる。土壙墓のような簡素な墓とともに前方後円墳に代表される巨大な墳丘が築かれ、多種の品々とともに埋葬される。

当初、もっとも関心のあった縄文土器や土偶などから、生活の仕方、古墳時代とは違った葬られ方や墓など、縄文人に関心が移りつつあるこのごろ。
そういえば、博物館で整理作業を行う日にときどきお会いしていた動物考古学者のY先生とも半年以上お会いしていない。
しばらくは整理作業はお休みになりそう。以前のような楽しい時間はもう来ないのかもしれない。
芸術・文化・考古

「考古学出発の日」

2020年06月18日
今日は「考古学出発の日」。1877(明治10)年のこの日、大森貝塚を発見・発掘したアメリカの動物学者、エドワード・モース博士が初めて来日した。
貝類の専門家としてアメリカ東海岸の貝塚に関心があり、考古学の知識があったモース博士。横浜港に到着した翌日、汽車で横浜から新橋に向かった。汽車が大森駅を出発した直後、線路脇の切り通しに白い貝殻が露出しているのに気づいたという。

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         発掘の様子  大田区立郷土博物館 

モース博士は「近代日本考古学の父」とも呼ばれている。
貝塚が古代人の遺跡だと分かったのは歴史が浅いという。日本でも貝塚の存在は知られていたが、掘り出された土器、石器、骨角器、獣骨、人骨など出土品のすべてを科学的な古代研究の資料として扱ったことは特筆すべきだという。

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     モース博士胸像  品川区立大森貝塚遺跡庭園
   
「大森貝塚」は、品川区と大田区にまたがる縄文時代後期から末期の貝塚。
昨年の敬老の日、日本の考古学発祥の地「大森貝塚」にほど近いLUZ大森(大田区)に『大森貝塚を語る ―モース博士と大森貝塚―』(大森貝塚保存会主催)を聴きに行った。(大森貝塚とモース博士大森貝塚出土の土器
 
大森貝塚と呼ばれる集落では、現在の大田区と品川区の区境を流れる小川を水源に最大30人ほどが生活を営んでいたという。
当時は台地の近くまで遠浅の海岸が迫っており、周辺にはシラカシ、アカガシ、スダジイ、タブノキ、ヤブツバキといった常緑広葉樹の森が広がり、その実をアク抜きして食用にしていた。遠くは利根川下流、霞ヶ浦などとの交流の可能性もあったと考えられている。女性や子どもたちは海岸でハマグリやアサリ、さらには海藻を採取。男たちは小舟でアジ、スズキ、クロダイなどをとり、シカやイノシシなどの狩猟も行なっていたこともわかっている。

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      桐畑地下道  2019.11

以前から度々訪れている大森、大森遺跡公園も何度も訪れているが、いわゆる遺跡や考古学などに関心が出てきたのは、一昨年秋、都内でも考古遺物の展示が充実している大田区立郷土博物館に足を運ぶようになってからだろうか。
昨年秋のすいよう会メンバーを案内して大森駅から大森貝塚遺跡庭園、品川歴史館などを周るコースを歩いたことが懐かしい。

全国の貝塚は2500~3000で、その4分の1が関東地方にある。
大田区には現在236ヶ所の遺跡が存在しているが、その9割が台地上から発見されている。
区内の縄文時代の36の遺跡のうち20貝塚が確認されていることを知って驚いた。(大森駅と縄文遺跡
    
大田区 縄文時代の遺跡 時代順(『大昔の大田区』による)
下沼部貝塚(早期〰晩期 約9000~2300前)  雪ヶ谷貝塚(前期 約6500~5000年前)  山王三丁目遺跡(前期 約6000年前/先土器時代/弥生時代/古墳時代)  田園調布南遺跡(前期中葉 約6000年前)  馬込貝塚(中期〰晩期 約5000~2300年前)  千鳥久保貝塚(中期~後期 約5000~3000年前)  綱島園内遺跡(中期 約5000~4000年前/先土器時代 約15000年前)  南馬込1丁目55番遺跡(中期)庄仙貝塚(中期)  久原小学校内遺跡(後期 約4000年前/武蔵野台地最南端で初の先土器時代遺跡)  大森貝塚(後期 約4000年前)

考古には1年半前まではまったくといっていいほど関心がなかったが、少しずつ学んでいきたいと図書館で借りたり、Amazonで取り寄せたりしてこの1年でもずいぶんと本を読んだが、なかなか頭に入らない。
そんな中で手元においているのは『列島の考古学 縄文時代』(能登健 著)と『縄文の思考』(小林達雄 著)。

「もし、あなたが人間とは何かを知りたいなら縄文時代がいいでしょう。なぜなら、縄文時代は人間が誕生してはじめて完成させた社会であって、そこには人間が共にいきるための知恵がみえるのです。この知恵こそが人間社会の原点なのです」。「日本人とは何か」を知りたいなら弥生時代や古墳時代。なぜなら、日本人は長い間に培われてきた稲作を中心にした社会の価値観に今でも固執しているからだと能登氏はいう。
旅・散策・イベント

梅雨に咲く花

2020年06月17日
6月11日、関東地方の梅雨入りが発表された。
「梅雨入り」は、晴天が2日以上続いた後、梅雨前線の影響で前日と当日が雨で、さらにその後1週間の予報が5日以上雨または曇りのような天気図がみられた場合、「梅雨入りしたと見られます」の発表がされる。関東では5月下旬~6月中旬。
「梅雨明け」は、雨が2日以上続いていた後、梅雨前線が北上して、前日と当日が晴れで、さらに週間天気予報で5日以上が晴れ(か一部曇り)といった天気図が「梅雨明けしたと見られる」の基準。関東では7月中旬~8月初め。

先週、蒲田近くの環八沿いのジャカランダの花に逢いに行った。銀杏の街路樹に挟まれているため、花が咲く時季以外は、車はもちろん、歩道を歩いていてもこの樹の存在に気づかない人がほとんどだろう。(ジャカランダに逢いに

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           2020.6.10

ジャカランダ近くの銀杏の根元に立つタチアオイが目に入った。
5月半ばごろから公園や歩道で咲き始めるタチアオイは、大好きな花の1つで、今までに一度はスケッチしたいと思っていた花だが、残念ながら機会がなかった。

タチアオイは、梅雨入りの頃に咲き始め、梅雨明けには頭頂部まで開花して花期が終わることから「梅雨葵」ともいう。(梅雨に咲く花梅雨明け間近を知らせる花

ちなみに、「葵」とはふつう 「立葵」を指す。ハート型の葉は、放射状の葉脈が目立つ。「あおい」は、葉がどんどん 太陽の方に向かう 「あうひ」(仰日)の意。中国唐代以前は「蜀葵(しょくき)」、日本では平安時代は「唐葵」といわれ、江戸時代には「立葵」といわれるようになった。    

友の会の先輩で華道教授でもあるFさんから送られてくるのは、お庭や散策中に目にとまった花々が多い。
蒲田にジャカランダを見に行った日、彼女から高根森林公園近くのアジサイ、タチアオイ、シモツケなどの花が送られてきた。

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         高根森林公園近く

立葵はどこの庭先でも見られた花でしたが、今は植えるスペースがとれず、懐かしい花になりました。活けてみたいとけど、花屋さんでは売ってない花の一つです」とFさん。

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         環八沿いの歩道    2012.6.12

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         東急多摩川線   2015.6.10

環八沿いの歩道や多摩川線の線路脇には毎年たくさん咲いていますよ。といっても採るわけにはいかないのか・・・」「7月の集まりのときに持っていけたらいいけれど・・・」と書くと、「種とって自宅栽培するしかない!スペースが!です」「種子をお願いします。水揚げも意外とむずかしいみたいです・・・」とのこと。

お庭にはさまざまな花木があるKさんと話していたら、タチアオイは以前、挑戦したがうまくいかなかったとか。種子はホームセンターで売っているのではと。なければ、歩道のタチアオイに種子ができるころに少しいただかなくては。
植物など

梅の実熟すころ

2020年06月16日
「芒種」の末候「梅子黄」。七十二候が芒種の末候に変わり、青々と大きく実った梅の実が黄色く色づき始める頃。
「梅の実が熟す頃の雨」ということから「梅雨」になったとも言われ、梅雨時である陰暦5月を「梅の色月」と美しく言い表した言葉も残っているという。

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             5.18

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             5.24

梅酒用には、まだ青く熟す前のかたい梅が、梅干しや梅酢用なら、完熟してちょっと黄色くなったくらいのものがよいというが、5月半ばころからポトポトと紅梅の実が落ち始めた。枝にはまだ薄っすらと紅い実が残っていたが、とりあえず梅酒にすることにした。

昨年漬けた梅酒のことを忘れていたが、友の会のKさんにいただいた梅とわが庭の紅梅を漬けたことを思い出した。紅梅を梅酒にしたのは昨年が初めてだった。

今年は、ごんさんが昔の大きなウィスキーの空瓶を探し出してきて、紅梅だけで浸けることにした。昨年の琥珀色の梅酒は大事に飲むことにした。(琥珀色に!

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          紅梅     白梅

世田谷のOさんからは南高梅の画像が送られてきた。鉢植えなので背も低く実も少ないが、シロップをつくるそうだ。
たまたま遊びに行った目黒区の公園で苗の配布があって、並んでみたらもらえました。もう10年以上経つかしら。花がとても良い香りです。梅干しは私には無理だし、梅酒はもう飲めないから、シロップ一辺倒!」だとか。
「友人はハチミツやアガベシロップを使うそうですが、やはり浸透圧の関係で氷砂糖が早いし、問題なくおいしいと思っています」とのことだった。

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         5.19  Oさんの南高梅
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   「梅が急に熟してきたので慌てて収穫」 6.3

南高梅といえば、母の日には娘から送られてきたのは1粒ずつ袋に入った南高梅の梅干し。

今年は、シロップも少しつくってみようかと思っていたところ、張り切り出したごんさんが、すでにリカーと氷砂糖をいれていた。
梅雨に入った。昨年の梅酒漬けの梅の実でジャムでも作ろうかと思っている。
植物など

ジャカランダに逢いに

2020年06月15日
この時季に気になる花の1つにジャカランダの花がある。 
ジャカランダは、鳳凰木(フランボヤン)、火炎木(スパト­デア)とともに「世界三大花木」の1つだが、日本ではあまり知られていない。
原産地は中南米だが、和名「紫雲木」という和名があるように、桐の花にも似た青紫の花は日本の空にもよく似合う。
今は春の桜より楽しみにしているのが、梅雨の中、曇り空に映える紫雲の花。   
      
・・・蒼空に紫色の花が咲き乱れてた・・・さだまさしの『ジャカランダの丘』の歌をきいて思い描いていた花だが、実物をみたことがなかった。

6年前、熱海の親水公園に見に行ったあと、大田区の蒲田に1本のジャカランダの木があることを知り、その後ほぼ毎年逢いに行くようになった。
ジャカランダ(JACARANDA)「2004年浜名湖花博のジャカランダより東京蒲田にある樹の方がすてきです」とインターネットでこの樹が紹介されました――と幹に架かった木札の文字は、いつのまにか文字は消えていた。

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               6.10

昨年の6月は、4回も逢いに行った。1日は東日本大震災「絆 音楽祭」の前に、13日は病院の帰りに、14日はSさん夫妻を、19日、Fさんをわが家での桂花会茶会の後に案内した。(環八沿いのジャカランダ二日つづきのお花見

昨年暮れまでつづいた月1度の桂花会の集まりでは、Sさんが淹れて下さる季節の中国茶をいただきながら、各自中国語で発表した。5年前、Fさんの「私の好きな樹」がこの花だった。
若いときナイロビに暮らした彼女の話では、10月から11月ごろ、庭も街もジャカランダで街が紫一色に染まるとか。
この花が咲く彼女は日本の桜を想ったという。散り落ちた花はアンモニアのような悪臭があるらしいが。

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        ナイロビの並木   byFさん

Sさん夫妻と訪れた日、蒲田でランチをご一緒し、アーケードを通って環八に出た途端、「お~、あった!」とご主人の歓声が上がった。お2人とも四川省でジャカランダの並木を見て感動して以来、気になっていたが、日本では川崎市緑化センターの鉢植えでしか見たことがなかったそうだ。

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        川崎市緑化センター  bySさん

Fさんからは「本当に素晴らしかった。37年頑張って大きくなってくれました。梅雨の晴れ間に、その周辺だけにナイロビの高原の風を運んでくれているみたいでした。ジャカランダの庭、ケニアの人たち、全てが蘇ってきて、涙がこぼれました。西日を浴びながら、帽子を飛ばされそうになって・・・。今日このことも、一生の素晴らしい思い出になります・・・」。(明年再見!
 
10日、5時に目が覚めた。予報ではしばらく雨の日がつづく。ジャカランダに逢いに行くのはこの日しかない。5時40分、自転車でスタート。樹の下に自転車を停めたとき、6時、スマホのアラームが鳴った。
歩道側、道路側、そして横断歩道を渡り、反対側から何枚も撮った。この時間にLINEはできないので、とりあえず、帰宅。
撮った画像をPCにデーターを移しながら整理した。8時まで待っていくつかのグループ、大田区内の友人に送信。

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             歩道側
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             道路側

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         住宅展示場前から

区内の人でも「はじめて見ました~!」という人が意外に多い。普段は仕事があるI さんは「一度見てみたいです。土曜まで咲いていそうかな?」 雨が心配だが、咲いていてほしい。

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Fさんからは「去年、連れて行ってもらったジャカランダ、コロナ禍も関係なく、しっかり咲いてくれるのが嬉しいです。今年は主人を連れて見に行こう!と思いましたが、(西荻から)蒲田まで電車に乗るのは無理という気持ち。来年こそは、あの紫の鮮やかな花を見せたいと思います」と。

数年前、区役所の道路維持計画のもとで伐採の話が出たそうだが、地元民の猛烈な反対運動で伐採を免れたというジャカランダ
来年、コロナ感染を心配することもなく、Fさんたちも来られるようになっていてほしいものだ。
植物など

話題は「色 色」 いろいろ

2020年06月14日
今日は「認知症予防の日」。認知症の大きな原因とされるアルツハイマー病を発見したドイツの医学者・精神科医アロイス・アルツハイマー博士の誕生日に由来して、2017年に日本認知症予防学会によって制定された。
認知症は決して他人事ではない。現在、65歳以上の10人に1人の頻度で見られる疾患とか。

LINE上のちょっとした言葉から皆がそれぞれ様々なことを想い出したり連想したりするのは認知症予防に少しは役立っているように思う。それをわからせてくれたのが、皮肉にもコロナ禍かもしれない。
4月ごろまでは「SYTAY HOME」の画像やマスクの話題、パズルやクイズなどが行き交っていたが、今はふだんは多忙なAさんの里芋のことから、水栽培のこと、季節の草木、わが庭のカエルやオタマジャクシ、テレビ再放送の「万里の長城」や「茶馬古道」などもLINEの話題は広がった。

5月25日、「みなさん、自粛期間中、いろんな情報ありがとうございました。やっと解除されますね」と上海から頼まれた「中国茶」の翻訳に忙しい毎日を送っているSさんから。彼女は翻訳に集中していたため、LINEはしばらくお預けしていたとか。

30日には「今お茶の翻訳していますが、茶殻の色が中国語で何というかよくわからず、先日みんみんに教えていただいた和の色大事典サイトと茶殻を見比べています。楽しい作業でした。日本は色彩が豊富なんですね」

わが家にあった「中国の伝統色」と『色の手帖』を彼女に郵送しようかと思ったが、いっそのこと直接渡す方が早いと、久しぶりに電車で川を渡って溝の口駅へ。彼女と会ったのは2ヶ月半ぶりだったが、お茶をせずにUターン。
 
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      フランスはFさんに 中国はSさんに

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        『色の手帖』はSさんに  
 
夕方、LINEには「茶の色を見ながら本と突き合わせていて、とても役立っている」とのこと。32頁中11頁まで翻訳ができたそうだ。「中国では色が少ないと思っていましたが、色見本(『中国の伝統色』大日本印刷)によれば、中国の伝統色はとても多いです」
そういえば、昨年12月が最後の桂花茶会となった。Sさんが淹れてくださったお茶が懐かしい。

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  「英徳紅茶」(広東省) 2019.11 桂花茶会
   
6月1日、久しぶりに骨粗鬆症の薬を処方してもらいにあざみ野の整形外科へ。二子玉川駅ホームから多摩川を眺めると、3月半ばに桂花会の女子メンバーと二子玉川でランチをした日のことを思い出す。あの日は土筆を摘んで帰った・・・。
骨粗鬆症、DXA法で検査する話、免疫力の話…話題は尽きない。

6月4日、Aさんの里芋の葉が開いたという報告。「パンデミックの間に、成長した彼らを見ると、とっても愛おしいです」とAさん。「そうよね。頑張ったのよね。お芋もAさんもね」とFさんから。
Fさんの里芋のスタイルが目標というAさんに「大きくなりすぎて、結構たいへんよ。 少しずつ茎が伸びて、葉が開くときが最高だけどね」「ちょっと怪しい感じ?が魅力的。うちの子は、少しちいさいかな?!」「いやいや、伸びるわよ!見ててごらん」 再び、里芋の話で盛り上がった。

『失われた色を求めて』(BSプレミアム)という特集番組を皆に薦めたことがあった。
故吉岡幸雄の日本古来の植物染による伝統的な染色が紹介された。
緊急事態宣言中も仕事があったKさんは録画して「やっと見終わりました。みんな発酵が関わっているとは、知りませんでした。職人や農家さんが丹精込めて、藍固めや紅花から紅餅がつくられているのをみて、感動しました」と。(紅花咲く頃日本の伝統色

紅花の話から口紅、そして「紅ミュージアム」の話へ。すると、行ったことあるというAさんから「粋なミュージアムでしたね。ところで、以前、そばにある岡本太郎記念館は改装して広くなったらしいですが、改装後行かれましたか?」 
青山の方はないが、大きなバナナの木がある川崎の美術館には行ったことがある。岡本太郎といえば、どうしても「縄文土器」を連想してしまうのはどうしたものか。もう少し落ち着いたら、どちらにも行ってみようと思う。

それからテントウムシの話、カボチャの葉、メロンから干し柿、そして人参の花とどこまでもつづく。
その間に、Sさんの翻訳は進み、10日には32枚終わる予定だという。遣り甲斐のある仕事!頑張って!!
芸術・文化・考古

秦始皇帝の長城

2020年06月13日
『空旅中国 万里の長城』で空を飛び、古く2500年前の長城も見ることができた。
春秋戦国時代、は周辺の国との境に築いた長城、そしては土の長城を築き北の遊牧民と戦った。(長城をつくったのは?

の始皇帝は、200年の戦国時代に終止符をうった。
始皇帝が生れたのはの都 邯鄲(かんたん)。9歳でに戻り、13歳で王に即位。
中国ではじめての統一国家が誕生した。

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始皇帝が力をいれたのは街道整備。それまで国ごとにバラバラだった轍の幅を統一したことで、同じ馬車で全国を往来できるようになり商業も栄えた。

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2200年前に始皇帝がつくった大規模な軍用道路が残っている。真っ直ぐ北に700km、幅30~50mの道。

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の長城 
北の匈奴の侵入を防ぐため石の壁を築いた。建設に従事したのは30万人とか。

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の国がつくった長城と自らのの長城をつなぎ、さらにの国など古い国の長城も繋ぎ合わせたことで全長1万里(4000km)を超えたことになる。「万里の長城」となった。
  
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      万里の長城  

統一から10年余り、始皇帝は全国を巡る旅の途中で病死した。その後、胡亥が皇帝になったが、始皇帝の死後わずか4年では滅亡した。
中国・中国の旅

「長城」をつくったのは?

2020年06月12日
『空旅中国 万里の長城』(BSプレミアム)は「万里の長城 中国の大地を這う1匹の巨大な龍・・・」のナレーションから始まった。
この龍の背中、ぐるりと飛べば中国三千年の歴史ドラマが見えてくる。風になって長城の絶景を飛んでみよう!
 
2002年晩秋、訪れたのは総延長2万1196 km余のほんのわずか、今や観光地となった「八達嶺」や「居庸関」。前日の雪でうっすらと雪化粧した紅葉の山々、果てしなくつづく長城・・・。まさに巨大な龍が這っているようだった。

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       八達嶺       2002.10
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       スケッチする I さん

長年の夢が叶いスケッチすることができたあの日のことは今も鮮明に覚えている。(晩秋の北京からあの万里の長城が・・・

一体だれがつくったのか、秦の始皇帝?巷の大工さん?どれも正しく、きっとどれも違う」「万里の長城をつくったのは、さまざまな民族が攻め合い、競い合った中国の歴史そのものだ」と。
万里の長城が今のような姿になったのは、の時代。英語で「Great Wall」という。
歴代王朝が継ぎ足し継ぎ足しつくってきたそのもとは? 知っているようで知らないことだらけだった。

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           明時代の長城

春秋時代(2500年以上前~) 
の長城
そもそものこの壁がつくられたのはおよそ2千数百年前。黄河の南にの国があった。山を越えて200km、現在の河南省方城県で黄河流域の国々から領土を守るために石を積んだもっとも古い長城がみつかった。
麓から運びあげた石を2mの高さに積みあげた。幅1mほどの壁には武器を出すための砲眼もある。

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BC656年 黄河流域の連合軍が 楚を取り囲んだが、堅固な長城を前に連合軍は楚と和睦、やがて北へ兵を引き上げたという。
 
戦国時代(BC403~221) 黄河を中心に7つの有力な国があった。

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      楚の国境には長城が築かれた

やがて、北をモンゴル高原に接する軍事大国が台頭する。
趙の都の邯鄲(かんたん)は、戦国の世に歌舞音曲も盛ん、華やかな街だったとか。
  
の長城 土を積み上げた高さ3~4mの壁が国境沿いに300kmつづく。手ごわい北方の遊牧民の侵入を防ぐため。

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      北はモンゴル方面 南は趙     

趙は、遊牧民の「胡服騎射」を真似て屈強な騎馬隊をつくり、領土を広げていった。
のちに趙は組織化された騎馬隊により、遊牧民を北へ追いやった。    

やがて200年の戦国の世に終止符を打ったのがの始皇帝。
始皇帝は、父が人質となっていたの都 邯鄲で生れた。秦に戻ったのは9歳、王になったのが13歳。
中国・中国の旅

夏のマスク

2020年06月11日
アベノマスクについてはいろいろと言われているが、最近は、タピオカのチェーン店がアベノマスクを好きな商品1杯と無料交換できる取り組みを始めたことが話題になっている。集まったマスクを各店舗が地域の学校や保育所、介護施設などに寄付することで、「不要な人から必要な人への橋渡し」につなげたいと。
5月末、わが家に届いたアベノマスクは、NPO法人に切手などと共に送った。

ふだんは不織布のマスクを使っているが、いざとなれば、桂花会のSさんお手製のマスクがあるので安心。(2枚のマスク
女子メンバー5人に「昨日、手製マスク発送しました。洗い替えにお使い下さい。連日ミシンの前で結構楽しく過ごしていますが、連日感染者が増え、今までに感じたことのない怖さ感じています。神様に祈るしかないのかしらね~」というLINEが来たのは、4月初め。

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このマスクのプレゼントは嬉しかった。「サイズも私にピッタリで付け心地も最高です♪」「ちょっと萎んだ心がぱっと膨らみました」「素敵なマスクは百人力!頑張るぞ~!」みんな心のこもったプレゼントに喜んだ。

「アベノマスク」などガーゼの目の大きさは、個体差こそあれ平均すると約300μm。新型コロナウイルス飛沫の大きさを0.1μm前後とすると、ウイルスの約3000倍の隙間があり、ウイルスカット効果は期待できないという。
『マスクの品格』の著者である大西氏(聖路加国際大学大学院准教授)によれば、実験などからも布マスクは10%のウィルスをカットできれば良い方で、漏れ率は100%に近いという。ちなみに不織布マスクの漏れ率は86.2%。
だが、マスクをしていれば、他人への感染予防、保湿効果などはある。
      
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5月半ば、再びSさんから夏用マスクを24枚作ったのでいかが?と、形もデザインもいろいろなマスクの画像が送られてきた。あの西村型(西村大臣愛用)もあった。
早速、「地味な2枚」をお願いすると、立体型?と西村型?の2種類が送られてきた。  

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冷感マスクなども売り出されているが、外したマスクを仕舞うマスクケースも人気だという。
マスクをしているだけでも息苦しく顔が火照る。熱中症のリスクを考えて着けないとならず、この夏はとくにマスク着用は要注意だろう。                                                    

昨年まではなんとか太極拳などで、多少は「暑熱順化」ができていたが、今年はコロナによる巣ごもり生活でまったくできていない。
コロナ感染も心配だが、熱中症の方がさらに怖くなってきた。とはいえ、熱中症はきちんと対策を行い、適切な処置を行えば必ず防止、あるいは軽症で済ますことができるというが。                         
身近な人びと

神秘の生命力

2020年06月10日
巣ごもり生活の中で録画した番組を愉しんでいる。中国、樹木、考古、絵画など、「プレミアムカフェ」(NHKBS)で再放送された番組がほとんどだが、放送大学で特集が組まれた縄文を扱った番組も数本録画できた。

『巨樹』(「美の壺」)の「悠久を生きる神秘の生命力」では、麻布の善福寺の銀杏のほか、鹿児島県の蒲生の大クスと香川県志々島の大クスが紹介された。(クスの巨樹寂心さんのクス日本最大の巨樹

香川県志々島は、瀬戸内海に浮かぶ面積0.74㎢の小島。島民はわずか18人とか。     
「志々島の大クス」は、昔から島の守り神として大切にされてきた島のシンボル。
県天然記念物。「日本の巨樹ランキング」では29位。
   
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         幹周 14m 樹高 40m

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15年前、大きな枝が折れてしまい、樹木医が治療のために呼ばれたが、一目見て諦めたという。
ところが、大クスは折れた枝の一部が地面につき、そこから根を伸ばして、水分を吸収して元気を取り戻したという。

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大クスは奇跡の復活を遂げた。根元から地を這うように真横に伸びる枝は50mに達するという。わずかに主幹とつながっている。
旅・散策・イベント

日本最大の巨樹

2020年06月09日
『巨樹』(「美の壺」)の「悠久を生きる神秘の生命力」では、麻布の善福寺の銀杏のほか、鹿児島県の蒲生の大クスと香川県志々島の大クスが紹介された。麻布善福寺は何度が訪れたが、蒲生や志々島に訪れる機会はなさそうだ。(クスの巨樹寂心さんのクス

「蒲生の大クス」は、鹿児島県姶良市の蒲生八幡神社境内に聳え立つクスノキ
樹齢約1500年、根周り33.5m、幹囲24.2m、高さ約30mと日本の巨樹ランキング1位。国の特別天然記念物。

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褐色の肌に緑の苔をつけた主幹は多くのコブが盛り上がり、恐竜の足のように浮き出た根が四方に広がっている。

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樹根部分には格子扉があり、ふだんは入ることができないが、扉の向こうには8畳分もの大きな空間ができていて、地上16mまでつづいている。4年に1度、樹木医の診断があるという。
巨樹の内側は長い時間の間に腐食し空洞ができるのが、クスの老木の特徴だという。

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      地上16mから見下ろす人

はじめに巨樹があり、神社ができ、街ができたのだという。神秘的で不思議な感覚を抱かせてくれる日本一大きな巨樹。 
旅・散策・イベント

「寂心さんのクス」

2020年06月08日
今年の4月から5月は、録画した巨樹の番組(NHK 再放送)をみることで楽しく巣ごもり生活を送ることができたように思える。
『巨樹百景 彩りに秘められた数奇な物語』『巨樹』(「美の壺」)『巨樹は語る はるかないのちの物語』(巨樹シリーズ)など。
バオバブの樹カヤの巨樹の物語ガジュマルの下でブナの森に

環境省の「日本の巨樹ランキング」の10位までをみると、全樹種を通じて日本最大のクスノキは、鹿児島県蒲生八幡神社の「蒲生の大楠」(幹周24.2 m)。
阿豆佐和気神社(静岡県)、本庄(福岡県)、衣掛の森(福岡県)、武雄(佐賀県)など、奥十曽のエドヒガン(鹿児島県)以外はすべてクスノキ
手元にある数冊の巨樹の本を見ても日本の巨樹ランキング上位はクスノキが占めている。
「巨樹百景」の中、最初に紹介されたのが、佐賀県武雄市の「川古の大楠」。「巨樹ランキング」では全国3位。(クスの巨樹

『巨樹』(「美の壺」)で「異形」の代表として紹介されたのは、熊本県指定天然記念物や「新日本名木100選」に選ばれている「寂心(じゃくしん)さんのクス」。
推定の樹齢は800年といわれ、整った樹形と枝ぶりや根張りの大きさなどでクスノキの名木の1つに挙げられている。

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   幹周 17.1m  樹高 30m 熊本県指定天然記念物

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熊本城の基礎となった隈本城を築いた鹿子木親員入道寂心手植えの木と伝えられる。
クスノキは大きく成長して、やがて寂心の墓石をその根の中に巻き込むような形になった。そのため地元の人々はクスノキを「寂心さんのクス」と呼ぶようになり、憩いの場として親しんだという。
子供たちが木登りをしても怪我することがないとされて「子供の神様」とも言われ、古い時代には近在の農家から「馬の神様」としても崇められていた。(Wikipedia)

四方への枝張りは50mほどで、そのうち南西方向に伸びた大枝は30m近くの長さがあり、1本の木であるのにまるで森のように枝を広げ、葉を茂らせている。

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地表付近で横に張り出した太い根は四方八方を這い回るように伸びている。その形が動物や物などに似た形の部分が多く見られる。「大蛇」や「巨大なタコの足」などと形容されるというが、まるで大きな彫刻のようにみえる。
ちなみに、木彫仏にはクスノキが多く用いられることが多く、飛鳥時代につくられた木彫仏はクスノキ、奈良時代になると主にヒノキが使われたという。
旅・散策・イベント

クスの巨樹

2020年06月07日
今年5月、「巨樹百景」シリーズ」の『彩りに秘められた数奇な物語』(NHKBS)観て、巨樹にもさまざまな物語があることをあらためて知った。
鳥海山の麓に広がる広大なブナの森の主「あがりこ大王」は衝撃だった。(ブナの森に

佐賀県武雄市の「川古の大楠」、伊達政宗の命を救ったと言われる、東北のの巨樹、日本一大きいイロハモミジの悲しく言い伝えがある「領家のもみじ」、それぞれの巨樹に秘められた物語に感動した。

街路樹としてもよく目にするクスノキは、主に関東地方南部以西から本州の太平洋側、四国、九州・沖縄に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。
人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。特に神社林ではしばしば大木が見られ、ご神木として人々の信仰の対象とされるものもある。

手元にある数冊の巨樹の本を見ると、日本の巨樹ランキングでも上位は多くのクスノキが占めている。
環境省の「日本の巨樹ランキング」の10位までをみると、全樹種を通じて日本最大のクスノキは、鹿児島県蒲生八幡神社の「蒲生の大楠」(幹周24.2 m)。
阿豆佐和気神社(静岡県)、本庄(福岡県)、衣掛の森(福岡県)、武雄(佐賀県)など、奥十曽のエドヒガン(鹿児島県)以外はすべてクスノキ

「巨樹百景」の中、最初に紹介されたのが、佐賀県武雄市の「川古の大楠」。「巨樹ランキング」では全国3位。

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     「川古の大楠」 樹齢3000年 
       武雄市指定天然記念物
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巨樹は、目通り(1.3m)が幹周3mの樹をいうが、「川古の大楠」の幹周は20.0m、樹高30.0mもある。
幹には大きな空洞があるが、この地で生きつづけてきた。空洞には100年以上前に祠ができ、今も守られている。

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新緑の樹の下に立つと、林の中にいるような感覚になる。これほど大きなどっしりとしたクスノキは見たことがない。「大田区の樹」はクスノキなのだが。
旅・散策・イベント

ブナの森に

2020年06月06日
巣ごもり生活の中、巨樹、狛犬、道標巡りなど、多くは都内、それも区内を夢中になって訪ねて回ったころが懐かしく想い出される。
巨樹に関しては、23区はほとんど踏破しただろうか。都内のほかには、犬山城近くのムクとエノキ、会津高瀬の大ケヤキ、群馬県沼田の大ケヤキ大クワなどとの出逢いが印象に残っている。

テレビでも、日本だけでなく世界中の巨樹のシリーズが目白押し。お陰で数年前のわが「巨樹」ブームが再燃してしまったようだ。
巨樹には神が宿るのではないかと思うほど、並外れた生命力があることをあらためて感じた。

巨樹とは、目通り(地上130cm)3m以上の樹をいう。樹木が生物界でもっとも大きく、もっとも長寿の生き物だといえるが、そんな樹でも一旦枯らしたり、伐ったりすれば、瞬時に消えてしまうことになる。

今年1月に放映された「巨樹百景」シリーズ『神様の木に会う』(NHKBS)は見損なってしまったが、5月には『彩りに秘められた数奇な物語』は観ることができた。
佐賀県武雄市の「川古の大楠」、東北のの開花、伊達政宗の命を救ったの巨樹、悲しく怖い言い伝えがある日本一大きいイロハモミジ「領家のもみじ」と、それぞれの巨樹に秘められた物語は素晴らしかった。

もっとも感動的だったのが、鳥海山の麓に広がる広大なブナの森、この森の主、樹齢300年の「あがりこ大王」の物語。

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              ブナの森

「あがりこ大王」は根元から約2mのところで失われた太い幹には、コブがいくつもできて、奇妙な形を形づくっている。
これは、江戸後期から昭和30年代、ブナの樹を伐採したことによる。その炭はわずかだが北国の人々の収入源となったという。
 
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          炭焼き小屋の跡

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       あがりこ大王  樹齢300年

ブナは伐採されると、自ら傷口を覆いコブをつくる。そして再生のための芽を出す。そして成長すると再び伐られるという繰り返しが奇妙な形が出来上がっていった。

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伐られても伐られても生きつづけたブナ、人と共に生きてきた姿には励まされた。
鳥海山はもっとも好きな山、そしてブナという樹がますます好きになった。ケヤキの次だが。
旅・散策・イベント

芽が出た里芋

2020年06月05日
今日は24節気の1つ「芒種」。 『暦便覧』こは「芒(のぎ)ある穀るい稼種する時なればなりとある。
芒のある穀物や稲や麦など穂の出る穀物の種をまく季節ということから、芒種と言われている。実際の種まきは、これよりも早い時季に行なわれる。「芒」とは、米や麦などイネ科の植物が実った時、その果実の先端にある針状の突起。

4月末、桂花会LINEでは「サトイモの水栽培」Aさんから里芋1個が。「里芋の芽がやっと出てきました!次は何をしたら良いでしょうか?」「水につけるとカビませんか?」

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すでに始めているFさんからは「その芽が1cmくらいになったとき、芽が上を向くようにして、芋の下を切り、安定させて水にセットしました」「芋は泥を落としてあるでしょ。水はともかく毎日替えました。黴は生えないです」とアドバイス。(芽が出たら・・・)  

昨年鉢植えで育てた私もそれなりのアドバイス。Aさんの里芋の成長が巣ごもり生活の中の楽しみにもなった。(サトイモとサツマイモ

「里芋の芽がこんなに大きくなりました」とAさんから来たころ、オタマジャクシもカエルとなって庭に戻っていった。遅ればせながら暗い所でかすかに芽を出した里芋で水栽培を始めた。
Fさんのところの「里芋の葉っぱが大きくなりすぎた。あまり美しくない」と送られてきたのは窮屈そうな里芋。

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     4.17      5.26

ひさしぶりにAさんの里芋。「この白いのが根でしょうか?水はここまで入れた方がいいですか?」
「その白いのが根。やっと出てきた!そこまで水で浸けた方がいいと思う」とFさん。

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             5.26

わが家の里芋はわずかに根が出たところ。暑くなるころには立派な観葉植物にしたいと思っている。
植物など

謎多い「鳥獣戯画」

2020年06月04日
巣ごもり生活の中、録画した番組は「プレミアムカフェ」(NHK BSP)が多いが、絵画では、最新作の『謎の国宝 鳥獣戯画 “楽しい”はどこまで続く?』(NHK総合)は眼から鱗だった。

「鳥獣戯画」は、正式には「鳥獣人物戯画」と呼ばれる。世界遺産の高山寺に伝来する甲乙丙丁の4巻からなる絵巻物。平安から鎌倉時代の作品とされ、鳥羽僧正作とされるが、そのことを示す資料はないという。
現在、甲・丙巻が東京国立博物館に、乙・丁巻が京都国立博物館に保管されているという。
漫画やアニメの原点ともいわれる。(鳥獣戯画の思い出

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       *Click!  (NHK)

『謎の国宝 鳥獣戯画 “楽しい”はどこまで続く?』では、今回特別に8Kカメラで全場面の撮影が許された。

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       甲巻 後半    前半

その中でも、興味深かったのは、日本画家(東京芸大大学院講師)の武田裕子氏が実際に模写をして甲巻の前半と後半とでは描き手が異なるという指摘。比べてみると、確かに異なる。
平安末期から鎌倉前期にかけて制作された鳥獣戯画は、多くの宮廷絵師の手による絵巻物だと思われるという。
おそらく命じたのは、当時、「年中行事絵巻」など多くの絵巻物を命じた後白河院の命によるものだろうと。

ちなみに、甲巻に登場する蛙、兎、猿のうち、最も多く登場するのは?というのがあった。意外にも兎が41回、蛙が25回、猿が16回だった。

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「鳥獣戯画」といえば、今は亡き「日本画デッサン教室」のF先生とSさんを思い出す。(鳥獣戯画の模写
「法隆寺阿弥陀三尊像」や原寸大の巻物「鳥獣戯画」(複製)などを模写する時間があった。
F先生が他界されてすでに16年が経つ。この模写の時間が好きだったSさんは甲巻すべて模写して巻物に表装された。そのSさんも5年前に逝かれた。

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        甲巻の模写

逆に、私はこの模写の時間が苦手で、前に描いたことも忘れていて、同じ場面を度2度描いたりしたこともあった。それでも模写した「鳥獣戯画」は8枚あった。そのうち写したことを忘れて再び描いてしまった場面が2枚もあった。

「鳥獣戯画」はF先生とSさんのあのころを思い出させる。F先生は作者は鳥羽僧正と思われていたか覚えていないが、甲巻を描いた人は左利きだったと言われたことを思い出した。
そんなことをLINEに書くと、桂花会のFさんから「それだけ凄い作品なのよね」と鳥獣戯画の思い出が。
「何年か前、上野で公開されたとき、佐賀から観るために上京した友達と行きましたが、炎天下2時間待ちで、諦め、国立科学博物館のアンデス展をみて帰りました。その友達はその後、甲状腺癌で亡くなったので、諦めて過ごしたその一日が、最後の思い出となりました」「いつか、京都で観たいものです」と。    
芸術・文化・考古

日本の伝統色

2020年06月03日
巣ごもり生活がつづく中、録画した番組を愉しんでいる。中国、樹木、考古、絵画など、「プレミアムカフェ」(NHKBS)で再放送された番組がほとんどだが、放送大学で特集が組まれた縄文を扱った番組も数本録画できた。

その中で、『失われた色を求めて~植物染め・伝統100色を今の世に~』(NHK 2017年)、『トルコ染織の源流をたずねて』(2000年)、『命をうつす草木染め』『伝統色―久米島紬 藍の世界 紅色を守り続けて』など、世界に例がない豊かな日本の伝統色についての番組が再放送された。

『失われた色を求めて』(BSプレミアム)という特集番組で、故吉岡幸雄の日本古来の植物染による伝統的な染色が紹介された。
吉岡氏は京都で江戸時代からつづく染屋の五代目で染織史家、染料となる植物を求めて山中を探し、自ら草を植え、色抽出の手法も奈良時代の文献まで遡る。

「染司よしおか」では、寒い時期、東大寺のお水取り (修二会) の折、二月堂の十一面観音に捧げる椿の造り花のための染和紙を紅花で染める。様々な工程を経て紅花から取り出した色素は、烏梅という梅の実の燻製の力を借りて艶紅と呼ばれるように輝くような紅の色になるという。

色名は、染めの原料の名だったが、平安時代になると四季折々の自然の色の微差が色名になっていく。紅梅色は、梅で染めるわけではないし、若竹色も竹で染める色ではない。と色を重ねて季節や植物を表現し、装いを凝らす「襲(かさね)の色目」も登場した。

ずいぶん昔のことになるが、「和の色」や「襲(かさ)ねの色目」に関心を持っていた母の影響で、日本の伝統色をネットで調べて、伝統色に夢中になっていた時期があり、そのころは母の『色の手帖』『色彩事典』を開いたり、『日本の伝統色』を眺めていた。

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      「日本の伝統色」 (大日本印刷)

そんな時、吉岡氏の「色の万華鏡」というサイトに辿り着いた。現在はこのサイトは残っていないが、当時プリントアウトしたものが残っている。その中に「青」「赤」「紫」という日本の代表的な3つの色についての染色方法や歴史、色にまつわる物語はとくに興味を魅かれたことを思い出した。

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  プリントした「色の万華鏡」(2008)
 
『失われた色を求めて~植物染め・伝統100色を今の世に~』を観た桂花会のFさんとLさんとの草木染や色についての話題が楽しい。そういえば、中国語の沈老師のシャツの色について、教室でいろいろと盛り上がったことがあった。
老師が青だとおっしゃるシャツの色はほとんどの人には紫色にみえた。
ひと口で紫色といってもたくさんある。10年以上も前のこと、曖昧な記憶になってはいるが、シャツの色は決して青ではないと思うのだが。
 
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       赤系一部    紫系一部

花の名がついた赤系の色名は、コスモス色 薔薇色 牡丹色 つつじ色(上から)
紫系の色名は、菫色 桔梗色 竜胆色 杜若色 菖蒲色(上から) 

Fさんは「老師のシャツは桔梗色のような気がする。記憶をたどると」とFさん。「桔梗色+菫色÷2といったところかな」というと、「その通りかも。複雑な紫。謎の色」とFさん。ほかにも花の名にがつけられた色名にはほかにも藤色とかある。

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ふと思いついて「日本の伝統色」から1枚ずつ切り取ってダイソーで買ってきた単語帳に貼っていった。
すべてで265色あったため、66枚前後にして4冊に分けた。出来上がりはまあまあ、翌日、Fさんに送った。
芸術・文化・考古

カエルの旅立ち

2020年06月02日
3月に庭の蹲の中で孵ったガマガエルのオタマジャクシたち。4月に水槽に移して2ヶ月近く経つと、尾が短くなって水槽の壁に張り付くようになった。
緊急事態宣言が解除されて、まずは5匹を、翌朝は残りの4匹を蹲に放した。(近づく別れ

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        まだオタマジャクシ? 4匹

5匹のカエル?は故郷に戻ったことになる。蹲が暗く黒いせいか、真っ黒だったカエルが茶色っぽく見えた。 
10分後、気になって見に行くと水の中には1匹もいなかった。わずか1匹だけが蹲の内側に残っていた。

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            尾の残るカエル 

Fさん 「カエルさんは親指くらい?意外と早く独立独歩なのね。暫くは古巣?に戻ってくるのかしらね!遠距離自然観察楽しかった」
Mさん 「緊急事態宣言 解除みたい、早くない?」「巣立ちのときなのか~」「色々勉強になります」   

庭に返した5匹に比べると、残る4匹はまだ尾が長い。
Hさんは「凄い発見!。子どもの時の観察で、全然覚えていない。なんのためにやったのか? ミイラが1匹いたのが、ショックという思い出だけ。この度、お陰で楽しませてもらいました」

「おたまじゃくしは、実に不思議な生き物ですね。尾が吸収されるんですネ。感心します」 「ほんとう。お陰様で、自粛生活の中にもかかわらず、学びが多長さが違う。尾は自分のからだに吸収されるというのは本当らしいです!」とAさん。

小5の息子さんといつも一緒に見てくれるRさんも応援してくれた。学校がいつ始まるのか、巣ごもりの代償が怖いのでベランダで日光浴をさせているという。
皆が応援してくれたおかげで、2ヶ月の間、彼らの成長を見守りながら巣ごもり生活を楽しむことができた。そして自然の中に戻すことができた。
動物など

近づく別れ

2020年06月01日
世の中がコロナ騒ぎの中、例年通りにガマガエルは庭の蹲に産卵した。孵ったばかりのオタマジャクシを見つけて、水槽に移したのが4月初め、緊急事態宣言が始まる直前だった。そして、すでに肺呼吸ができるようになった5匹を水を浅くした蹲に戻したのは、たまたま宣言解除の日だった。

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          蹲にガマガエルの卵

「春爛漫 カエルの自由研究、宜しく!」とFさんたちにいわれたこともあり、小学生気分で観察を始めた。(蹲にも春オタマジャクシただいま13匹前足出たら・・・

4月末、LINE上で「後足が生えるのはいつでしょう?」というクイズを30余人に出した。答えは約半数からあったが、1匹に足らしきものが出た日はKさんとOさんがそれぞれ1日違いだったので、当たりとした。賞品?はカエルのスタンプにした。

その後、ボウフラが涌いたり共食いがあったりといろいろあったが、5月半ばには後足、10日しないうちに前足が出てきた。

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              9匹   5.23

25日朝、水槽の壁に3匹が張り付いていた。オタマジャクシは足が出て尾がとれて肺呼吸になるという。尾はからだの中に吸収されるというが、確かに一晩みないうちに尾が短くなっていた。
動き回るカエルになりかけのオタマジャクシの動画を送ると、「肺呼吸になると、もう一人前のカエルの動きですね。元気いっぱい」「やはり両生類の代表ですね」とFさんから。
Aさんからは「オタマちゃんたち、素早い動きに変わりましたね」と。

カエルになったら生餌だとか。水槽では飼えないので、肺呼吸できるようになったら庭に戻すことを決めていた。
いよいよお別れの日がやって来たということか。

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        壁に張り付く   5.25  

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        肺呼吸始めた5匹

Oさん 「わ~そろそろお別れですね」「もう色が違うのですね」 
Sさん 「大人になりかけのオタマジャクシ、可愛いですね」
動物など
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